2008年09月15日「笑いの現場」 ラサール石井著 788円 角川書店

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

「なんだこの静けさは」
「兄貴、兄貴ぃ」「待たせたな」
「兄貴、かっこいい。レイバンのサングラス(ラメの目張り)」
「サンローランのジャケット、BIGIのパンツ」
「それに(足を上げて)福助の足袋」
「(赤いクレジットカードを出して)ぜんぶ丸井だ」

 暴走族ネタで一世を風靡したコント赤信号。彼らとはほぼ同世代なんだよね。
 はじめて見たのはテレビ。「お笑いスター誕生(日本テレビ)」みたいな番組があってね。コロッケとかとんねるずとかもここから出るんだけど、たしか、京唄子師匠とかが審査員やってたんとちゃうかな。
 当時、高校生だったと思うけど、審査員がつまんなくてね、よっく覚えてます。

 お笑い芸人の梁山泊、ストリップ劇場「道頓堀劇場(渋谷にあんだけど)」で修行してたらしいけど、ライブは見てないなあ。

 ここで私が見たのはモロ師岡さん。ウケてたねえ。面白かった。
 もち、ここはきれいで華麗な踊りを見せるストリップ嬢が売り。スタイル抜群。踊りの演出も良くて、ホントにゲイジツ。大学生とか若手サラリーマンに人気がある小屋でね。
 だからこそ、若手芸人の登場を楽しみにしてるお客が多かったと思う。

 元々、著者は演劇青年。テアトルエコーという喜劇劇団の第1期生に応募。ま、募集定員のほうがせ多いからみな合格すんだけど、ここで知り合ったのが渡辺と小宮。

 明日、国立音大ではじめてギャラがもらえるライブがある。名前考えなくちゃ。3人だから3に関するネーミング。コント扇風機、コント信号機、コント青信号。ええい、コント赤信号でいいや。どうせ長くやるつもりないから。
 それが結局、30年も続いてる。

「おまえら気が緩んでるんだよ」
 道頓堀劇場の楽屋でコント・レオナルドのラッキーパンチさんにガンガン叱られた。
 たしかにたるんでた。台本だって、大先輩の後見人の杉兵助が書いてたもん。自分たちで何一つやってなかった。
  翌朝から、10時に集合。代々木公園までマラソン。体操、練習、反省会・・・を続けた。すると、周囲の目が変わる。劇場に出入りしてたチンピラまでが応援し出す。

 リーダーを後輩の渡辺がする。台本も彼が書く。そして生まれたのが暴走族ネタだ。ラッキーパンチさんて、いまの石倉三郎さんのこと。


リーダー渡辺正行さん。明大落研時代は6代目紫紺亭志い朝。5代目は立川志の輔、4代目は三宅裕司という名跡。

「おまえら花王名人劇場に出してやる」
 ある時、杉兵助さんが連れてきたプロデューサー澤田隆治さんから言われた。どうせ冗談だろうと思ってたら、ホントに出演してしまった。
 だれねコント赤信号なんて知らない。上がったけどウケた。翌日から大量の仕事が・・・とはならなかった。また、あの小さな楽屋に舞い戻る。
 しばらくすると、澤田さんが1人の男を連れてきた。おまえらにもマネジャーが必要だろ、というわけだ。異常にテンションと声の高い男。
 それがいまの所属事務所の社長石井光三さんとの出会い。

「どんなぽっと出の新人でも1か月はスケジュールで真っ黒にしてみせま。けど、それからあとは本人次第でんな」

 これ、芸人とマネジャーの正しい距離感ですな。マネジャーがレクチャーすることもあるだろうけど、本人が必死にならんとな。

 これ、実はサラリーマンの世界でも同じ。上司と部下との関係と同じですな。出てくるヤツは出てきます。少し付き合っても出てくるヤツはわかります。異彩をはなってるもの。必死に腕磨いてるもの。

 この3人も必死になってネタを考えた。あの幻の「ササニシキ」が生まれたのもこの時ですな。

 著者は「お笑いスタ誕」「花王名人劇場」「THE MANZAI」「笑ってる場合ですよ」「おれたちひょうきん族」「M-1グランプリ」「平成教育委員会」・・・などに出演。笑いの現場を裏から知る人物。勉強と情報量も半端ではない。
 それだけに「M-1」の舞台裏についても各回ごとにコメントしてますけど、正直、これはいらんかったな。

 選者の舞台裏はどうでもええねん。演者の舞台裏をもっともっと知りたかったなあ。けど、それはタブーかな。現役のプレーヤーだもんなあ。

 プロとアマの境が限りなく薄くなってきたいま、プロ・アマ問わず、人を笑わせるにはどんな技術、どんな勉強をしたらいいのか。また、著者はしているのか。してきたのか。ほんとうの「舞台裏」が知りたかったけどな。力作。300円高。