2008年09月22日「白夜行」

カテゴリー中島孝志のテレビっ子バンザイ!」

「おまえには子供がおる。その子供にちゃんと13階段上る背中見せえ。おまえ、自分と同じ子ぉ作る気か? 親を信じられん子を作る気か?」
「間違いだらけやったけど、おまえが精一杯やったんはオレが知っとる。1人の人間を幸せにするためにおまえは精一杯やった。おまえの子にオレがちゃんと言うたる。おまえに流れている血はほんまはそう言う血や。オレがちゃんと子供に言うたる」
「ほんまにすまんかった。あの日、おまえを捕まえてやれんで、ほんま、すまんかったのう」

 これ、クライマックスシーンね。刺された刑事と刺した容疑者との魂の対決場面。
 残念ながら、東野圭吾さんの原作にはこの部分はまったくありません。

 原作は刑事と2人の容疑者(桐原亮司&唐沢雪穂)との関係がめちゃクール。
 ドラマは熱い熱い。めちゃくちゃ熱い。というのも、武田鉄矢さん演じる笹垣刑事が2人を執拗に追いかけるけど、原作では最初の事件が発生した時と、後はラスト部分にしか登場しないもんね。

 ドラマと原作、どっちが面白い? はい、どちらも面白いっす。つうか、大きな筋は同じだけどディテールがかなり違う。だから別物としてそれぞれ楽しんだほうがお得・・・ですな。

 たとえば、ダンス部で雪穂の先輩だった篠塚一成が雇った私立探偵が雪穂と亮司の秘密に迫るんだけど行方不明になっちゃう。ドラマでは笹垣刑事に使われるんだけど、この青酸カリで殺されたのかも、という設定になってるわけね。

 探偵さんだけじゃなく、ドラマでは登場しない重要人物がかなり出てる(雪穂の実母の愛人? 実は・・・とか、雪穂の家庭教師とか)し、その逆もあるしぃ。

 ホント、かなり違うのよ。
 亮司の父親、雪穂の母親。それぞれの事件発生日時からして違うし、原作では、篠塚はダンス部の部長。父親は製薬会社社長ではなく専務。で、社長の息子である従兄と雪穂が再婚しちゃうし、そのあおりを食って左遷されちゃうし・・・。
 笹垣刑事の相棒の若い刑事は原作では大阪府警の捜査一課長で出世してるし殺されてないし・・・そのほか、たくさんあんの。

 なんだかんだいって、いちばん大きな違いは、ドラマでは「時効」をものすごく意識してる2人だけど、原作ではそんなことはありません。つうか、最初の事件はすでに時効だもん。2人が頻繁に連絡をとりあう場面も0。読者が想像するね。いわなくてもわかる相利共生の関係。亮司は雪穂に対する自分の使命を淡々と粛々と果たしていくわけさ。

 そうそう、亮司に子供はいないの。当然、クライマックスの叫びはありえない、ときた。

 そうですなあ、私はドラマのほうが少し好きかな。「愛情」なんて言葉では表現できない2人の生き様が強くイメージできるからかも。
 宿命とか運命とか因縁とか、そういうなんか大きなものに巻き込まれて、その通りにしか動けない「人間の業」みたいなものをドラマのほうが強烈に感じさせてくれるから・・・かも。

 そうそう、原作では素通りしてたのにドラマではあれっと感じたことがあんの。
 「インプリンティング効果」というものがあります。もち、これ、アヒルが生まれてすぐ、目の前で動くものを自分の親と勘違いしちゃうことから「刷り込み効果」と呼ばれるものだけど。幼い2人が幼いなりに恋をして、2人して強烈な事件の当事者となってしまう。この時、「彼を私が守らなきゃ」「彼女をボクが守らなきゃ」と頑なな使命感としてインプリンティングされることはあるわな・・・と思ったのね。

 あまりにも貧乏に育つと、貧乏なんてへっちゃうさと笑って過ごせる人と、猛烈に金銭に執着してしまう人が生まれますね。いずれも「人生哲学」なんだけど、これは幼い頃の「インブリンティング効果」が命令してることなのよ。
 だから、がりがり亡者はどんなに金持ちになろうと変わりません。どんなに持っていようと不安なのよ。持てば持つほど不安になり、疑心暗鬼になり、結果として、「財」しか信用しなくなってしまう。
 「三つ子の魂百まで」というでしょ。幼子の決心というのはそれほど強いんです。この心を解き放つのは一筋縄ではいきませんよ。なぜって、インプリンティングされちゃってるんだもの。

 まあ、そういう意味で原作とドラマそれぞれ別々に堪能できる作品です。いま、ちょうどTBSの深夜枠でドラマが再放送されてるからいいチャンス。まだ3合目くらいだからぜひチェックしてね。