2007年08月31日「複眼の映像」 橋本忍著 文藝春秋 2100円
副題は「私と黒澤明」とあります。著者と黒澤さんは切っても切れない仲ですもんね。
そういえば、いま、テレビで黒澤さんのリメイクが目白押しですね。「天国と地獄」「生きる」なんかもテレビでやるんでしょ。
著者は戦後ナンバー1の脚本家でしょうね。
で、いったいどんな脚本を書いたのか? 一部は製作まで手がけてますけど、ざっと代表的のものだけでも列挙すると・・・「砂の器」「八甲田山」「白い巨塔」「切腹」「日本のいちばん長い日」「私は貝になりたい」・・・。
黒澤作品では? 「羅生門」「生きる」「七人の侍」があります。
彼のデビューはいきなり「羅生門」ですからねぇ。このどれか1つの作品を書いただけでも十分なのに。いやはや、天才と言ってもいいんじゃないですか。
天才なんて言葉は本人に失礼? けど、天才、いや、天分を全うするべく生まれてきたのではないか、と見られる節があります。
そもそも、どうして脚本家になろうと思ったのか?
昭和17年、彼は岡山にできた傷痍軍人収容所にいたんです。結核でね。
入院する人はここが退屈きわまりない場所であることはよ〜くわかってる。だから、本をどっさり持ってきてる。けど、そんなこと知らないからね、この人は。
毎日、天井を見てぼんやり。すると、隣の人が1冊の本を投げてくれた。
「映画生活」という雑誌ね。これが1つの運命。
「つまんないなぁ。終わりのほうに掲載されてるやつはシナリオって言うの? こんなの、ボクだって書けるよ」
「難しいよ、シナリオは」
「いや、この程度ならすぐにでも書ける」
けど、書けないの、やっぱし。でも、自信満々に言っちゃった手前、なんとかかんとか書き上げるわけ。
さて、書いたはいいけど評価する人はいない・・・。
「日本でいちばんの脚本家といったら誰だろう?」
「伊丹万作だろうな」
これが2つめの運命。
ど素人が天下の伊丹さん(伊丹十三さんの父親)に脚本送っちゃうわけよ。ところが、伊丹さんは懇切丁寧にアドバイスして送り返してきちゃった。
これが3つめの運命。
「おお、来たぞ! しかも、こんなに丁重で律儀な文面だ」
退院していった彼に知らせなくちゃ。出身地の松江に連絡を取るんだけど、退院してしばらく後に、その人は亡くなってたんだよ。
師事した伊丹さんは「無法松の一生」という名作の脚本で知られる人ですね。
橋本さんへのアドバイスも「テーマは難解にしちゃいけない」。「無法松の一生」なら「ある人力車夫の未亡人に対する風変わりな恋愛映画」とシンプルにするという調子。
伊丹さんは彼にいろいろ指南するんだけど、40代の若さで亡くなっちゃう。
不思議なことに、この大家には脚本の弟子は1人もいなかった。あえて言うなら、橋本さんだけ。で、自分の死後、橋本さんが困らないように便宜を図るよう奥さんに遺してたのよ。きっと彼の天分を見抜いてたんだろうね。
「漱石や鴎外の映画はあるが、どうして芥川の作品がない?」
よし、「藪の中」で書いてみよう。この脚本が回り回って黒澤さんの目に留まるのね。
「あんたの『雌雄』だけど、これ、ちょっと短いんだよな」
「『羅生門』を入れたら?」
「ん? じゃ、『羅生門』を入れて書き直してくれる?」
直感で思わず吐いた言葉で七転八倒します。無理がある。どう考えても「藪の中」に「羅生門」を入れたらラストシーンに瑕瑾を残す。齟齬を来す。
「えらいこと言っちゃった」と悩みに悩むわけ。
黒澤さんはどんな改訂案を用意してたんだろう? おそらく完璧主義者だから話の脈絡が通った、矛盾のない、首尾一貫したものだったはず。
それを無責任なわたしのひと言で・・・。
「わかった。黒澤明という男が! 彼は閃きをつかむ男なんだ」
テコでも曲げない自分の意思や自己主張もさらりと捨てる。閃きを優先するためなら、その結果、生じる瑕瑾など問題にしない。
この作品「羅生門」はベネチア映画祭でグランプリをとります。日本が敗戦して6年目のことでしたね。
「シナリオにはやっぱり起承転結があるんだよな」
黒澤さんがこんな自嘲の言葉を吐いた。
原因は脚本のプロともいうべき2人が揃いも揃って大失敗の脚本を書いちゃったこと。
「日本剣豪列伝」という映画を撮ろうとしたんだよ。登場するのは有名な剣豪ばかり。で、剣豪たちのクライマックス・シーンをオムニバスで撮ろうってわけ。けどさ、いいとこ取りしたシーンの連続なんて薄っぺらで面白くないんだよ。
そこに気づかないほど、直前にある脚本で失敗してたわけ。
「ある侍の一日」という作品を撮ろうとしたの。
重要なシーンは、竹馬の友2人はいまやそれぞれ藩の仕事をしている。ある時、昼休みが一緒で、弁当を食べながら魚釣りの約束をしたり、お互いの子どもの行く末を語っていた。そこに不祥事が発生し、1人の武士が詰め腹を切らされることになる。で、彼は介錯人にこの友人を頼むわけ。
その後、「切腹」へと淡々と流れるシーン。ここからは台詞無しの音楽だけ。クライマックスとのコントラストもあるから、絶対、のどかな弁当シーンが欲しいんだ。
けど、史実をいくら調べても、当時(徳川前期)は1日2食。昼食はとらない。学者や歴史物の作家に聞きまくり、書物を調べ尽してもわからない。代表作になる可能性が大きいだけに史実を曲げたくない。で、結局、突き止められなかった。
製作は決まってるのに脚本の段階でお蔵入りが決定!
もちろん、黒澤さんは顔を真っ赤にして怒りまくったことは言うまでもありませんよ。絵コンテもしっかりできてたと思うんだ。
こりゃがっくり来るわい。
不思議なことに、10年後、このシナリオはどういうわけか蘇ってくるわけ。「切腹」という作品になってね(この映画、先日、ご紹介しましたよね)。
脚本段階でボツとなったショックが尾を引いて、起承転結のない脚本を天才2人してせっせとまとめていたわけよ。焦燥感が天才の判断を誤らせたんだろうね。
いつまで悔やんでもしょうがない。気まずくなって、黒澤さんが話題を変えたのね。
「ところで橋本君、武者修行ってなんだったんだろう?」
「?」
「昔の兵法者はプロ野球選手みたいなもんじゃないか。剣1本で高禄にありつける。大名になる者もいる。だから、大多数が剣の道へ殺到したと思うんだ。けど、武者修行するのに路銀無しに全国を回るなんて、どうしてできたのかね?」
「調べてみます」
東宝の文芸部員に調査を依頼。ある日、プロデューサーがやってきた。
「武者修行は室町末期から戦国への現象でして、兵法者は金などなくても全国を動き回れたんですよ」
「・・・」
「ある道場に行き、一手手合わせすれば、晩飯を食わせてもらえ、朝には乾飯を持たせてくれる」
「道場がなかったら?」
「寺に行けばいい。飯を食わせてくれ、宿もある。朝には乾飯をもたせてくれる」
「道場も寺もなければどうするんだ?」
「当時は、全国的に治安が悪くて盗賊や山賊がたむろしていた時代です。だから、どこかの村に入り、ひと晩寝ずにいつ襲ってくるかもしれない夜盗の番さえすりゃ、百姓が腹一杯飯を食わし、朝には乾飯をくれる」
「えっ、百姓が侍を雇う!?」
橋本さんは黒澤さんを見る。黒澤さんも強い衝撃で見つめる。そして、2人してうなづくわけ。
「七人の侍」ができた瞬間ですよ。400円高。
そういえば、いま、テレビで黒澤さんのリメイクが目白押しですね。「天国と地獄」「生きる」なんかもテレビでやるんでしょ。
著者は戦後ナンバー1の脚本家でしょうね。
で、いったいどんな脚本を書いたのか? 一部は製作まで手がけてますけど、ざっと代表的のものだけでも列挙すると・・・「砂の器」「八甲田山」「白い巨塔」「切腹」「日本のいちばん長い日」「私は貝になりたい」・・・。
黒澤作品では? 「羅生門」「生きる」「七人の侍」があります。
彼のデビューはいきなり「羅生門」ですからねぇ。このどれか1つの作品を書いただけでも十分なのに。いやはや、天才と言ってもいいんじゃないですか。
天才なんて言葉は本人に失礼? けど、天才、いや、天分を全うするべく生まれてきたのではないか、と見られる節があります。
そもそも、どうして脚本家になろうと思ったのか?
昭和17年、彼は岡山にできた傷痍軍人収容所にいたんです。結核でね。
入院する人はここが退屈きわまりない場所であることはよ〜くわかってる。だから、本をどっさり持ってきてる。けど、そんなこと知らないからね、この人は。
毎日、天井を見てぼんやり。すると、隣の人が1冊の本を投げてくれた。
「映画生活」という雑誌ね。これが1つの運命。
「つまんないなぁ。終わりのほうに掲載されてるやつはシナリオって言うの? こんなの、ボクだって書けるよ」
「難しいよ、シナリオは」
「いや、この程度ならすぐにでも書ける」
けど、書けないの、やっぱし。でも、自信満々に言っちゃった手前、なんとかかんとか書き上げるわけ。
さて、書いたはいいけど評価する人はいない・・・。
「日本でいちばんの脚本家といったら誰だろう?」
「伊丹万作だろうな」
これが2つめの運命。
ど素人が天下の伊丹さん(伊丹十三さんの父親)に脚本送っちゃうわけよ。ところが、伊丹さんは懇切丁寧にアドバイスして送り返してきちゃった。
これが3つめの運命。
「おお、来たぞ! しかも、こんなに丁重で律儀な文面だ」
退院していった彼に知らせなくちゃ。出身地の松江に連絡を取るんだけど、退院してしばらく後に、その人は亡くなってたんだよ。
師事した伊丹さんは「無法松の一生」という名作の脚本で知られる人ですね。
橋本さんへのアドバイスも「テーマは難解にしちゃいけない」。「無法松の一生」なら「ある人力車夫の未亡人に対する風変わりな恋愛映画」とシンプルにするという調子。
伊丹さんは彼にいろいろ指南するんだけど、40代の若さで亡くなっちゃう。
不思議なことに、この大家には脚本の弟子は1人もいなかった。あえて言うなら、橋本さんだけ。で、自分の死後、橋本さんが困らないように便宜を図るよう奥さんに遺してたのよ。きっと彼の天分を見抜いてたんだろうね。
「漱石や鴎外の映画はあるが、どうして芥川の作品がない?」
よし、「藪の中」で書いてみよう。この脚本が回り回って黒澤さんの目に留まるのね。
「あんたの『雌雄』だけど、これ、ちょっと短いんだよな」
「『羅生門』を入れたら?」
「ん? じゃ、『羅生門』を入れて書き直してくれる?」
直感で思わず吐いた言葉で七転八倒します。無理がある。どう考えても「藪の中」に「羅生門」を入れたらラストシーンに瑕瑾を残す。齟齬を来す。
「えらいこと言っちゃった」と悩みに悩むわけ。
黒澤さんはどんな改訂案を用意してたんだろう? おそらく完璧主義者だから話の脈絡が通った、矛盾のない、首尾一貫したものだったはず。
それを無責任なわたしのひと言で・・・。
「わかった。黒澤明という男が! 彼は閃きをつかむ男なんだ」
テコでも曲げない自分の意思や自己主張もさらりと捨てる。閃きを優先するためなら、その結果、生じる瑕瑾など問題にしない。
この作品「羅生門」はベネチア映画祭でグランプリをとります。日本が敗戦して6年目のことでしたね。
「シナリオにはやっぱり起承転結があるんだよな」
黒澤さんがこんな自嘲の言葉を吐いた。
原因は脚本のプロともいうべき2人が揃いも揃って大失敗の脚本を書いちゃったこと。
「日本剣豪列伝」という映画を撮ろうとしたんだよ。登場するのは有名な剣豪ばかり。で、剣豪たちのクライマックス・シーンをオムニバスで撮ろうってわけ。けどさ、いいとこ取りしたシーンの連続なんて薄っぺらで面白くないんだよ。
そこに気づかないほど、直前にある脚本で失敗してたわけ。
「ある侍の一日」という作品を撮ろうとしたの。
重要なシーンは、竹馬の友2人はいまやそれぞれ藩の仕事をしている。ある時、昼休みが一緒で、弁当を食べながら魚釣りの約束をしたり、お互いの子どもの行く末を語っていた。そこに不祥事が発生し、1人の武士が詰め腹を切らされることになる。で、彼は介錯人にこの友人を頼むわけ。
その後、「切腹」へと淡々と流れるシーン。ここからは台詞無しの音楽だけ。クライマックスとのコントラストもあるから、絶対、のどかな弁当シーンが欲しいんだ。
けど、史実をいくら調べても、当時(徳川前期)は1日2食。昼食はとらない。学者や歴史物の作家に聞きまくり、書物を調べ尽してもわからない。代表作になる可能性が大きいだけに史実を曲げたくない。で、結局、突き止められなかった。
製作は決まってるのに脚本の段階でお蔵入りが決定!
もちろん、黒澤さんは顔を真っ赤にして怒りまくったことは言うまでもありませんよ。絵コンテもしっかりできてたと思うんだ。
こりゃがっくり来るわい。
不思議なことに、10年後、このシナリオはどういうわけか蘇ってくるわけ。「切腹」という作品になってね(この映画、先日、ご紹介しましたよね)。
脚本段階でボツとなったショックが尾を引いて、起承転結のない脚本を天才2人してせっせとまとめていたわけよ。焦燥感が天才の判断を誤らせたんだろうね。
いつまで悔やんでもしょうがない。気まずくなって、黒澤さんが話題を変えたのね。
「ところで橋本君、武者修行ってなんだったんだろう?」
「?」
「昔の兵法者はプロ野球選手みたいなもんじゃないか。剣1本で高禄にありつける。大名になる者もいる。だから、大多数が剣の道へ殺到したと思うんだ。けど、武者修行するのに路銀無しに全国を回るなんて、どうしてできたのかね?」
「調べてみます」
東宝の文芸部員に調査を依頼。ある日、プロデューサーがやってきた。
「武者修行は室町末期から戦国への現象でして、兵法者は金などなくても全国を動き回れたんですよ」
「・・・」
「ある道場に行き、一手手合わせすれば、晩飯を食わせてもらえ、朝には乾飯を持たせてくれる」
「道場がなかったら?」
「寺に行けばいい。飯を食わせてくれ、宿もある。朝には乾飯をもたせてくれる」
「道場も寺もなければどうするんだ?」
「当時は、全国的に治安が悪くて盗賊や山賊がたむろしていた時代です。だから、どこかの村に入り、ひと晩寝ずにいつ襲ってくるかもしれない夜盗の番さえすりゃ、百姓が腹一杯飯を食わし、朝には乾飯をくれる」
「えっ、百姓が侍を雇う!?」
橋本さんは黒澤さんを見る。黒澤さんも強い衝撃で見つめる。そして、2人してうなづくわけ。
「七人の侍」ができた瞬間ですよ。400円高。