2016年01月07日初代に名門なし。。。
カテゴリー中島孝志の不良オヤジ日記」
いま原理原則研究会では、博多と出雲が切り替えでそれぞれ第4期、第3期となっております。
まあ、博多は九州一の大都市ですからメンバーが集まるのは当たり前と考える向きもありますが、そんなに甘いものではありません。
黙っていても集まるのは東京だけです。
それはひとえに私が都市型だからではないか、と思うのです。つうか、メディアとか単行本を契機にブログ愛読者となり、通勤快読その他いろいろの勉強会に関心を持ち・・・という工程で原原に参加されるパターンが主流なのです。
出雲という「辺境(かつては日本の中心地)」で原原なんぞをしようにも、私の名前を聞いたことのない人ばかり。本など読んだこともない。ブログは知らない。そんな地で勉強会をしようというのがどだい無理な話なのです。
ところが・・・「札幌でやるなら出雲でやってよ。出雲の若手経営者に勉強させたいんです」
「・・・」
「何人集めたらできますか?」
「とりあえず10人くらいかな」
二次会の立ち話でいい加減に答えたら、1週間で10人集めてしまったのです。
やるっきゃないんかな〜。
張本人は出雲から東京原原に参加している経営者(常務は大阪原原に参加)。ふつう、価値ある情報は価値があればあるほど人には教えたくないものです。ところが、この人は、この話は彼に聞かせてやりたい、彼女にも教えてやりたい、と考えるタチなのです。つまり、お節介。
この偉大なる「お節介」のおかげで10人のメンバーが集まってしまいました。
ところが問題はこれからです。集まったのはいいですが、勉強会当日になると半分くらいしか集まらないのです。なんのことはない、言い出しっぺの顔を立ててメンバーになっただけなのです。
「幽霊会員はいらない!」とメンバーに伝えました。そして、言い出しっぺには「動かないでいい。集まらなければそれでいい」とお伝えしたのです。
ところが、さすがに全国でも平均年齢が若いだけありまして、彼らは即動きました。知人友人に話をし、なおかつ勉強意欲のある人だけを集めたのです。
今月は第3期。出雲は20名を超えるメンバーで勉強することになります。20名超。たいしたものです。熱心なメンバーばかりです。楽しみです。
私の名前も本もブログも、もちろん、原原もな〜んも知らない人ばかり。まさにゼロからのスタートでした。しかしゼロでも怖れることはありません。ゼロとは、可能性が無なのではなく無尽蔵だ、ということです。下手に2〜3人いるほうが厳しいのです。
ゼロ。いいっすねえ。な〜んもない。なんでもできる。どれだけ広がるかわからん、つうことです。無一物中無尽蔵。最高です。な〜んもない処から始める。なんと面白いことでしょうか。かなり大げさですが、釈迦もイエスも親鸞も日蓮もゼロから始めたのです。
もう一つ学んだことがあります。それは、人のご縁のありがたさです。一人ではなにもできないのです。補佐役というか話し相手、相談役が必要です。プランをきっちりオペしてくれる人がいなければな〜んもできません。偉大なるお節介様々です。
「やめる」などということはおこがましいのです。1人でも聞いてくれる人がいれば話さなければいけないんです。だれも聞いてくれなくとも壁に向かってでも話をする、というくらいでなければいけないのです。
10人かな、とよくのたまったと思います。思い上がりも甚だしいと思います。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず、万物は陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す」とは『老子』にあります。嬉しい言葉です。
「花は年々に開くれども、皆得悟するに非ず。竹は時々に響けども、聴く物ことごとく証道するにあらず。ただ、久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て、悟道明心するなり。是れ、竹の声の独り利なるおのずかにあらず。また花の色のことに深きにあらず。
竹の響き妙なりと云へども、自らの縁を待って声をなす。花の色美なりと云へども、独り開くるにあらず。春の時を得て光を見る。
学道の縁もまた是のごとし。人々皆な道を得る事は、衆縁による。人々自ら利なれども、道を行ずる事は、衆力を以てするが故に。今、心を一つにして、参窮尋覓すべし。
玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。いずれ何の玉かはじめより光有る。誰人か初心より利なる。必ずみがくべし。須らく練るべし。自ら卑下して、学道をゆるくする事なかれ。」と『正法眼蔵随聞記』にあります。励まされる言葉です。
出雲原原だけは私がつくったものではありません。完璧に他力本願で生まれ育まれた勉強会です。「やめる!」のひと言で本気になった賜かもしれません。
東京も大阪も1〜2年くらい休憩してもいいのかもしれませんね。
さて今日のメルマガでご紹介する本は「大世界史 前編」( 池上彰&佐藤優著・文藝春秋・896円)です。
まあ、博多は九州一の大都市ですからメンバーが集まるのは当たり前と考える向きもありますが、そんなに甘いものではありません。
黙っていても集まるのは東京だけです。
それはひとえに私が都市型だからではないか、と思うのです。つうか、メディアとか単行本を契機にブログ愛読者となり、通勤快読その他いろいろの勉強会に関心を持ち・・・という工程で原原に参加されるパターンが主流なのです。
出雲という「辺境(かつては日本の中心地)」で原原なんぞをしようにも、私の名前を聞いたことのない人ばかり。本など読んだこともない。ブログは知らない。そんな地で勉強会をしようというのがどだい無理な話なのです。
ところが・・・「札幌でやるなら出雲でやってよ。出雲の若手経営者に勉強させたいんです」
「・・・」
「何人集めたらできますか?」
「とりあえず10人くらいかな」
二次会の立ち話でいい加減に答えたら、1週間で10人集めてしまったのです。
やるっきゃないんかな〜。
張本人は出雲から東京原原に参加している経営者(常務は大阪原原に参加)。ふつう、価値ある情報は価値があればあるほど人には教えたくないものです。ところが、この人は、この話は彼に聞かせてやりたい、彼女にも教えてやりたい、と考えるタチなのです。つまり、お節介。
この偉大なる「お節介」のおかげで10人のメンバーが集まってしまいました。
ところが問題はこれからです。集まったのはいいですが、勉強会当日になると半分くらいしか集まらないのです。なんのことはない、言い出しっぺの顔を立ててメンバーになっただけなのです。
「幽霊会員はいらない!」とメンバーに伝えました。そして、言い出しっぺには「動かないでいい。集まらなければそれでいい」とお伝えしたのです。
ところが、さすがに全国でも平均年齢が若いだけありまして、彼らは即動きました。知人友人に話をし、なおかつ勉強意欲のある人だけを集めたのです。
今月は第3期。出雲は20名を超えるメンバーで勉強することになります。20名超。たいしたものです。熱心なメンバーばかりです。楽しみです。
私の名前も本もブログも、もちろん、原原もな〜んも知らない人ばかり。まさにゼロからのスタートでした。しかしゼロでも怖れることはありません。ゼロとは、可能性が無なのではなく無尽蔵だ、ということです。下手に2〜3人いるほうが厳しいのです。
ゼロ。いいっすねえ。な〜んもない。なんでもできる。どれだけ広がるかわからん、つうことです。無一物中無尽蔵。最高です。な〜んもない処から始める。なんと面白いことでしょうか。かなり大げさですが、釈迦もイエスも親鸞も日蓮もゼロから始めたのです。
もう一つ学んだことがあります。それは、人のご縁のありがたさです。一人ではなにもできないのです。補佐役というか話し相手、相談役が必要です。プランをきっちりオペしてくれる人がいなければな〜んもできません。偉大なるお節介様々です。
「やめる」などということはおこがましいのです。1人でも聞いてくれる人がいれば話さなければいけないんです。だれも聞いてくれなくとも壁に向かってでも話をする、というくらいでなければいけないのです。
10人かな、とよくのたまったと思います。思い上がりも甚だしいと思います。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず、万物は陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す」とは『老子』にあります。嬉しい言葉です。
「花は年々に開くれども、皆得悟するに非ず。竹は時々に響けども、聴く物ことごとく証道するにあらず。ただ、久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て、悟道明心するなり。是れ、竹の声の独り利なるおのずかにあらず。また花の色のことに深きにあらず。
竹の響き妙なりと云へども、自らの縁を待って声をなす。花の色美なりと云へども、独り開くるにあらず。春の時を得て光を見る。
学道の縁もまた是のごとし。人々皆な道を得る事は、衆縁による。人々自ら利なれども、道を行ずる事は、衆力を以てするが故に。今、心を一つにして、参窮尋覓すべし。
玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。いずれ何の玉かはじめより光有る。誰人か初心より利なる。必ずみがくべし。須らく練るべし。自ら卑下して、学道をゆるくする事なかれ。」と『正法眼蔵随聞記』にあります。励まされる言葉です。
出雲原原だけは私がつくったものではありません。完璧に他力本願で生まれ育まれた勉強会です。「やめる!」のひと言で本気になった賜かもしれません。
東京も大阪も1〜2年くらい休憩してもいいのかもしれませんね。
さて今日のメルマガでご紹介する本は「大世界史 前編」( 池上彰&佐藤優著・文藝春秋・896円)です。