2016年03月18日弘文天皇の御陵に詣りました。。。
カテゴリー中島孝志の「日本伝統文化研究会」」
新潟から大阪は近いねえ。正味50分ちゃう。大阪城も眼下に見えましたよ。意外に広いですね。
伊丹空港は関西どこに行くにも便利ですね。京都まで50分。あっという間です。八条口までダイレクトでした。
さて、ランチも食べずにどこに行くか? 実は明日14日がメインでして、今日は部屋で原稿書いててもいいわけ。編集者は喜びますからね。けど、チェックインまで時間があるしぃ。。。
弘文天皇の陵を参拝したかったんです。長等山前陵ですね。ウィキペディアにあるように、大友皇子が伊賀皇子であるはずがないじゃありませんか。『日本書紀』は不比等が天武天皇の謀略を正当化し、天武帝を正統とするためにわざわざ作り上げたものですよね。
すでに天皇として即位していた大友皇子を引きずりおろすために起こしたのが「壬申の乱」でしょ。
敗北した大友皇子は自裁するしかなかったわけで。。。
当時の人はみなわかってたでしょうね。で、生まれ育った母親の里。大津京に埋葬したわけですね。この人こそ大津皇子なんですよ。
いまの陵はもちろん当時の園城寺(三井寺)の境内にあります。
園城寺の開基(創立者)は大友与多王。皇子の子息ですな。開祖は円珍(智証大師)です。円珍は空海の甥っ子。ただし真言宗ではなく天台宗。
この寺は大友皇子のためにつくられたものです。よく天武が許しましたね? もちろん、狙いがあったし、条件付きだったと思いますよ。
狙いは、殺した大友皇子の鎮魂です。当時の人々の噂もあったでしょうしね。条件は、大友皇子の魂の封殺。そのために用意されたのがこの陵を目の前で見張っている「新羅明神」を祀る新羅神社ですよ。これ、国宝になってるわりには境内はあまりにも鬱蒼としてますね。
新羅善神堂。新羅明神を祀ってます。善神でないとあかんのですな。
新羅明神は三井寺の守護神、ということになってます。なぜ新羅なの? 天武天皇が新羅を過剰に重視してたからでしょ。
天智天皇と対立したのも、半島、大陸との外交路線。言い換えれば、日本の国防路線の違いですよ。現代に当てはめると、日本独立の際に全面講和か単独講和か(どこが単独よ。ソ連と講和しないだけだわな)のちがい。
聖徳太子は国際派。八方美人。天智天皇は欽明天皇からの遺志を尊重した百済派であり、任那日本府、伽耶国復興派ですよ。ここが復興されたら困るのが新羅派ですわな。
白村江の戦いでも、当時、唐を中心に、高句麗、新羅、百済の半島が海の向こうの日本を巻き込んだ、というより、半島はそもそも日本(倭国)が支配してました。4〜6世紀のことです。
『三国史記』には、「脱解(新羅第4代)が王位についたとき、その年は62歳。姓は昔氏。王妃は阿考夫人。多婆邦国(たばなこく)で生まれた。その国は倭国の東北一千里にある。彼らはみな倭種である。」とあります。新羅の王はもともと日本人なんです。
円珍は権力者天武天皇のご機嫌を損ねないよう、また大友皇子の鎮魂のためにも硬軟交えて交渉したんでしょうな。
それが園城寺。。。
大門です。
金堂。
塔婆三重塔です。大和から移築したものらしいっす。
園城寺は桜や紅葉の頃はなかなかいいですよ。ライトアップもありますしね。
とてもいいのが境内の茶店。といったら怒られるくらい立派です。去年改築したのでぴかぴか。座敷に椅子ですかららくちん。1時間くらいゆったり。。。お茶は鉄瓶に何回も持ってきてくれます。
広いですよ。ずっと上に上がりますと琵琶湖が一望できます。
観音堂。
ここまで来ると琵琶湖も大津の街もよく見えます。さてと、これから日吉大社に行きましょう。
ちょうど時間となりました。続きは明日また。
名古屋原原、大阪原原、新潟原原は来月スタートです。ユニークな新入生が続々と参加してます。ぜひ一緒に勉強しましょう。
さて、今日のメルマガでご紹介する本は「イギリスの首相に学ぶ!反論の伝え方」(信夫梨花著・ 主婦の友インフォス情報社・1,404円)です。
伊丹空港は関西どこに行くにも便利ですね。京都まで50分。あっという間です。八条口までダイレクトでした。
さて、ランチも食べずにどこに行くか? 実は明日14日がメインでして、今日は部屋で原稿書いててもいいわけ。編集者は喜びますからね。けど、チェックインまで時間があるしぃ。。。
弘文天皇の陵を参拝したかったんです。長等山前陵ですね。ウィキペディアにあるように、大友皇子が伊賀皇子であるはずがないじゃありませんか。『日本書紀』は不比等が天武天皇の謀略を正当化し、天武帝を正統とするためにわざわざ作り上げたものですよね。
すでに天皇として即位していた大友皇子を引きずりおろすために起こしたのが「壬申の乱」でしょ。
敗北した大友皇子は自裁するしかなかったわけで。。。
当時の人はみなわかってたでしょうね。で、生まれ育った母親の里。大津京に埋葬したわけですね。この人こそ大津皇子なんですよ。
いまの陵はもちろん当時の園城寺(三井寺)の境内にあります。
園城寺の開基(創立者)は大友与多王。皇子の子息ですな。開祖は円珍(智証大師)です。円珍は空海の甥っ子。ただし真言宗ではなく天台宗。
この寺は大友皇子のためにつくられたものです。よく天武が許しましたね? もちろん、狙いがあったし、条件付きだったと思いますよ。
狙いは、殺した大友皇子の鎮魂です。当時の人々の噂もあったでしょうしね。条件は、大友皇子の魂の封殺。そのために用意されたのがこの陵を目の前で見張っている「新羅明神」を祀る新羅神社ですよ。これ、国宝になってるわりには境内はあまりにも鬱蒼としてますね。
新羅善神堂。新羅明神を祀ってます。善神でないとあかんのですな。
新羅明神は三井寺の守護神、ということになってます。なぜ新羅なの? 天武天皇が新羅を過剰に重視してたからでしょ。
天智天皇と対立したのも、半島、大陸との外交路線。言い換えれば、日本の国防路線の違いですよ。現代に当てはめると、日本独立の際に全面講和か単独講和か(どこが単独よ。ソ連と講和しないだけだわな)のちがい。
聖徳太子は国際派。八方美人。天智天皇は欽明天皇からの遺志を尊重した百済派であり、任那日本府、伽耶国復興派ですよ。ここが復興されたら困るのが新羅派ですわな。
白村江の戦いでも、当時、唐を中心に、高句麗、新羅、百済の半島が海の向こうの日本を巻き込んだ、というより、半島はそもそも日本(倭国)が支配してました。4〜6世紀のことです。
『三国史記』には、「脱解(新羅第4代)が王位についたとき、その年は62歳。姓は昔氏。王妃は阿考夫人。多婆邦国(たばなこく)で生まれた。その国は倭国の東北一千里にある。彼らはみな倭種である。」とあります。新羅の王はもともと日本人なんです。
円珍は権力者天武天皇のご機嫌を損ねないよう、また大友皇子の鎮魂のためにも硬軟交えて交渉したんでしょうな。
それが園城寺。。。
大門です。
金堂。
塔婆三重塔です。大和から移築したものらしいっす。
園城寺は桜や紅葉の頃はなかなかいいですよ。ライトアップもありますしね。
とてもいいのが境内の茶店。といったら怒られるくらい立派です。去年改築したのでぴかぴか。座敷に椅子ですかららくちん。1時間くらいゆったり。。。お茶は鉄瓶に何回も持ってきてくれます。
広いですよ。ずっと上に上がりますと琵琶湖が一望できます。
観音堂。
ここまで来ると琵琶湖も大津の街もよく見えます。さてと、これから日吉大社に行きましょう。
ちょうど時間となりました。続きは明日また。
名古屋原原、大阪原原、新潟原原は来月スタートです。ユニークな新入生が続々と参加してます。ぜひ一緒に勉強しましょう。
さて、今日のメルマガでご紹介する本は「イギリスの首相に学ぶ!反論の伝え方」(信夫梨花著・ 主婦の友インフォス情報社・1,404円)です。