2020年03月02日パンデミック直前、いまこそ読むべき「通勤快読」をオープンします。
忘れないうちに・・・本日深夜に 「3分でわかる!チャートたっぷり!中島孝志の『経済教室』 を配信しています。
タイトルは 『『パンデミック真っ最中!タリバンとの和平を水面下で進めてきたトランプ!「インド訪問は成果なし」と報じるメディアの無知!』 です。ご期待ください。
さーて、新型コロナのおかげで社会も相場もわやですな。
視聴率ダイイチ、ご商売熱心な「ワイドショー」は朝もはよから「あおり情報」の垂れ流し。統計知識すらない東大医学部出身の医学者を繰り出して、あおることあおること。で、これまた無知なブンヤが輪をかけて拡散。
ワイドショーの某司会者なんぞ、「ディズニーランド休園で子供たちはどこに行けばいいんですか!」とほざく始末。休校になってるのは遊ぶためではありません。ま、この人ならしょうがない。
日本のメディアしか知らない、自分の頭で考えない人たちはいちいち踊らされ、今朝もトイレットペーパーとカップ麺の買い占めに走る日々だとか。
ご苦労様です。
新型コロナウイルス騒ぎを少し冷静になってとらえなおしてみませんか。格好のサイト「勤務医開業つれづれ日記(https://kaigyou-turezure.hatenablog.jp/)」をご覧ください。
チャートはいずれも同サイトから引用させて頂きました。
テレビ出演医学者の中にはワイドショー受けを狙った「まず目的ありき」の偏向解説をしている人も少なくありません。無知な司会者、コメンテーターは輪をかけてあおりますから始末に困ります。
日本政府も日本人も、いかに「公衆衛生」という分野が重要か思い知ったと思います。
けどね、この分野を志す医学者・医学生なんてほとんどいませんよ。名誉とも金とも無縁の分野ですからね。
神仏は人のいちばん弱点を突く。これ、私の持論。人でなくても国や地域、民族でも同じです。
今回のコロナ騒ぎにしても、いかにも中国らしいですよ。そしてあとから韓国が追いかける。そのうち日本が追い越すかもしれません。
それが嫌なんで、全校休学・自宅待機・宴会休止等々を政府は要請したわけでね。いまや待機児童ならぬ待機サラリーマンがわんさか。
バカ言ってちゃいかんわけでね。
このコロナ騒ぎで1冊の本を思い出しました。『維新前夜』(鈴木明著)。原原では15年くらい前に講義したことあるかも。『毒書会』で鈴木さんの本をオンパしたことありましたよね。あの時の1冊ですよ。
超長くなりますけど重要なので、当時の「通勤快読」を引っ張り出します。
・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・
1864年4月4日。日本の暦でいうと、元治元年2月28日、エジプト現地時間で午後2時から2時半の間。
通信網のなかったエジプトにいた34人の日本武士たち(池田使節団一行)は、この日のことを「文久4年2月28日」と思っていたらしい。
この写真を見て、ある種の感動に打たれない日本人はいないと思う。傑作です。量感溢れる力作といってもいいでしょう。
人によってはスフィンクスの前で日本刀を差し、ちょんまげ姿で映された日本武士の写真を単純に「珍妙」と受け取ったかもしれません。
元治元年と言えば、「明治維新」と時代が変わった1868年のわずか4年前。徳川家の家臣だった一行は、このヨーロッパ旅行から帰ると、すぐに天地がさかさまになったような激動の渦の中に巻き込まれます。
一行の中には政治家もいたし、国際法を学んだ法律家もいました。科学者、医者、それに両手で2つのそろばんをこなす男や兵学の大家もいました。一行の中でフランス語をほぼ完全に解した者1人、そのほかに7人の男が英語を読むばかりか、かなりの実力で英会話を行うこともできたんです。
身分、年齢も大名から小使いまで、44歳から17歳まで実に多彩。
使節団一行の間で一つ共通する意識があった。それは、「これからの日本はいったいどうなっていくのか?」という危機感と「われわれはどこに行っても間違いなく日本人である」という強い自負心です。
「34人のサムライ」のうち、実に10人もの男が「日記」ないし「思い出話」を後世に残していました。
三宅秀という人物も登場します。
世渡り上手で立身出世タイプとは対極にある人で、「みなは私を医学博士と呼ぶが、風邪ひとつ治せないんだ」と語り、生涯を「公衆衛生」の研究に捧げた人でした。
この三宅が、時代を読み過ぎて事業に失敗して零落していた名倉予可人(なくら・あなと)を訪ねます。
「たった17年間で、パリ行きの33人のうち、ある者は大金持ちになり、ある者は立身出世し、ある者は維新の世に随いていけなくなった。その中であなたは右顧左眄することなく、あのとき私に言った通りの道を歩んだ。私は嬉しいです」
「いえ、不器用なだけです」
名倉も偉大な魂の人物でした。生まれて初めてのパリでの洞察力。
「木を見ればその国の富がわかる。パリの木は痩せている。フランスは貧しいから強国になったのだ。日本の参考にはならん」
年は21歳でも三宅は英語、数学の教師として人の上に立つだけの力量と人柄を身に着けていた。明治3年10月、三宅は「東京大学校」の「中教授」に任命されます。多くの友人が、政治に、実業にと走る中、三宅だけは学問から目をそらせませんでした。
明治14年、三宅は東京大学医学部長になりますが、その時、まだ34歳。明治21年、日本で「博士号」が誕生すると、三宅は「医学博士1号」となります。
貴族院議員として法案もたくさん提出しています。しかし意外なことに、医学に関することは貧民のための医療施設、学校の保健衛生などを除いては、あまり積極的にはやらなかったようです。
・・・・・・・・引用・・・・・・・
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は 『ヒマつぶしの作法』(東海林さだお著・957円・SBクリエイティブ) です。とてもいい本です。
タイトルは 『『パンデミック真っ最中!タリバンとの和平を水面下で進めてきたトランプ!「インド訪問は成果なし」と報じるメディアの無知!』 です。ご期待ください。
さーて、新型コロナのおかげで社会も相場もわやですな。
視聴率ダイイチ、ご商売熱心な「ワイドショー」は朝もはよから「あおり情報」の垂れ流し。統計知識すらない東大医学部出身の医学者を繰り出して、あおることあおること。で、これまた無知なブンヤが輪をかけて拡散。
ワイドショーの某司会者なんぞ、「ディズニーランド休園で子供たちはどこに行けばいいんですか!」とほざく始末。休校になってるのは遊ぶためではありません。ま、この人ならしょうがない。
日本のメディアしか知らない、自分の頭で考えない人たちはいちいち踊らされ、今朝もトイレットペーパーとカップ麺の買い占めに走る日々だとか。
ご苦労様です。
新型コロナウイルス騒ぎを少し冷静になってとらえなおしてみませんか。格好のサイト「勤務医開業つれづれ日記(https://kaigyou-turezure.hatenablog.jp/)」をご覧ください。
チャートはいずれも同サイトから引用させて頂きました。
テレビ出演医学者の中にはワイドショー受けを狙った「まず目的ありき」の偏向解説をしている人も少なくありません。無知な司会者、コメンテーターは輪をかけてあおりますから始末に困ります。
日本政府も日本人も、いかに「公衆衛生」という分野が重要か思い知ったと思います。
けどね、この分野を志す医学者・医学生なんてほとんどいませんよ。名誉とも金とも無縁の分野ですからね。
神仏は人のいちばん弱点を突く。これ、私の持論。人でなくても国や地域、民族でも同じです。
今回のコロナ騒ぎにしても、いかにも中国らしいですよ。そしてあとから韓国が追いかける。そのうち日本が追い越すかもしれません。
それが嫌なんで、全校休学・自宅待機・宴会休止等々を政府は要請したわけでね。いまや待機児童ならぬ待機サラリーマンがわんさか。
バカ言ってちゃいかんわけでね。
このコロナ騒ぎで1冊の本を思い出しました。『維新前夜』(鈴木明著)。原原では15年くらい前に講義したことあるかも。『毒書会』で鈴木さんの本をオンパしたことありましたよね。あの時の1冊ですよ。
超長くなりますけど重要なので、当時の「通勤快読」を引っ張り出します。
・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・
1864年4月4日。日本の暦でいうと、元治元年2月28日、エジプト現地時間で午後2時から2時半の間。
通信網のなかったエジプトにいた34人の日本武士たち(池田使節団一行)は、この日のことを「文久4年2月28日」と思っていたらしい。
この写真を見て、ある種の感動に打たれない日本人はいないと思う。傑作です。量感溢れる力作といってもいいでしょう。
人によってはスフィンクスの前で日本刀を差し、ちょんまげ姿で映された日本武士の写真を単純に「珍妙」と受け取ったかもしれません。
元治元年と言えば、「明治維新」と時代が変わった1868年のわずか4年前。徳川家の家臣だった一行は、このヨーロッパ旅行から帰ると、すぐに天地がさかさまになったような激動の渦の中に巻き込まれます。
一行の中には政治家もいたし、国際法を学んだ法律家もいました。科学者、医者、それに両手で2つのそろばんをこなす男や兵学の大家もいました。一行の中でフランス語をほぼ完全に解した者1人、そのほかに7人の男が英語を読むばかりか、かなりの実力で英会話を行うこともできたんです。
身分、年齢も大名から小使いまで、44歳から17歳まで実に多彩。
使節団一行の間で一つ共通する意識があった。それは、「これからの日本はいったいどうなっていくのか?」という危機感と「われわれはどこに行っても間違いなく日本人である」という強い自負心です。
「34人のサムライ」のうち、実に10人もの男が「日記」ないし「思い出話」を後世に残していました。
三宅秀という人物も登場します。
世渡り上手で立身出世タイプとは対極にある人で、「みなは私を医学博士と呼ぶが、風邪ひとつ治せないんだ」と語り、生涯を「公衆衛生」の研究に捧げた人でした。
この三宅が、時代を読み過ぎて事業に失敗して零落していた名倉予可人(なくら・あなと)を訪ねます。
「たった17年間で、パリ行きの33人のうち、ある者は大金持ちになり、ある者は立身出世し、ある者は維新の世に随いていけなくなった。その中であなたは右顧左眄することなく、あのとき私に言った通りの道を歩んだ。私は嬉しいです」
「いえ、不器用なだけです」
名倉も偉大な魂の人物でした。生まれて初めてのパリでの洞察力。
「木を見ればその国の富がわかる。パリの木は痩せている。フランスは貧しいから強国になったのだ。日本の参考にはならん」
年は21歳でも三宅は英語、数学の教師として人の上に立つだけの力量と人柄を身に着けていた。明治3年10月、三宅は「東京大学校」の「中教授」に任命されます。多くの友人が、政治に、実業にと走る中、三宅だけは学問から目をそらせませんでした。
明治14年、三宅は東京大学医学部長になりますが、その時、まだ34歳。明治21年、日本で「博士号」が誕生すると、三宅は「医学博士1号」となります。
貴族院議員として法案もたくさん提出しています。しかし意外なことに、医学に関することは貧民のための医療施設、学校の保健衛生などを除いては、あまり積極的にはやらなかったようです。
・・・・・・・・引用・・・・・・・
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は 『ヒマつぶしの作法』(東海林さだお著・957円・SBクリエイティブ) です。とてもいい本です。