2007年09月30日「絆」 石ノ森章太郎著 鳥影社 2100円
「自分には才能がない、と諦めてしまう人をたくさん見てきたが、天与の才など技術でかなりカバーできるのに、と思っていた。
でも、いまは違う。才能の8割は体力である。間違いない」
な〜るほど。おもろいやんけ。この本、古本屋でゲット。稀覯本じゃないけど、価値ある1冊だったなぁ。400ページくらいあるからかなり分厚いけど、読み始めたら止まらない。かっぱえびせん状態です。
世の中には、一貫して1つの世界を追いかける人と、あれこれ冒険しては新大陸を発見しようというタイプがいますね。
著者は典型的な後者。漫画の世界でもあちこち展開してますな。
えっ、どういうこと? 作品を見れば一目瞭然でんがな。
「サイボーグ009」「快傑ハリマオ」「仮面ライダー」「幻魔大戦」「佐武と市捕物控」「HOTEL」「マンガ日本経済入門(300万部突破!)」「マンガ日本の歴史(全45巻)」・・・。
こんだけ量産してれば、たしかに体力勝負ですな。
けどね、ただ多いだけじゃありまへん。幅が広い。奥が深い。いい加減じゃない。口先三寸のやっつけ仕事とはぜんぜん違う。
こりゃ、体力勝負になりますな。体力という意味の中には知力も含まれることは言うまでもありませんな。脳の皺1つ1つに汗をかいてることがよ〜くわかります。
「ボクがはじめて漫画を描いて原稿料をもらったのは、高校2年のときだった」
当時、学童社という出版社があってね、「漫画少年」という雑誌に「二級天使」という漫画を連載したのがきっかけ(この雑誌、手塚治虫さんが「ジャングル大帝」や「火の鳥」を連載してた)。
これ、「漫画版スター誕生」みたいなところがあって、全国の漫画ファンから作品を公募しては毎月、入選作品を横綱、大関、関脇、小結と格付けしてたの。もちろん、著者は常連。
伝説の「トキワ荘(漫画家の卵、ひよこ、売れっ子まで住んでいた梁山泊!)」で無二の親友になる赤塚不二夫さんも投稿してたし、後年、友達になる「ゴルゴ13」のさいとうたかをさんも投稿してた。
これ、全国の漫画少年、漫画少女にとっては、憧れの雑誌であり、また、登竜門でもあったわけよ。
瞠目すべきことは、漫画家にならなかった人たちもせっせと投稿してたこと。たとえば、作家の眉村卓、筒井康隆、カメラマンの篠山紀信、グラフィックデザイナーの横尾忠則などの各氏も常連だったんだよね。
「トキワ荘」といえば、市川準さんの映画「トキワ荘の青春」で見ると、薄汚くて、いまで言えば、売れない芸人の吹きだまりみたいに見えるよね。
事実、「デビューしてからずっとお忙しかったのに、どうしてトキワ荘みたいな小さなアパートにいらしたんですか?」って、若い編集者たちからしょっちゅう質問されたらしい。
「とんでもない! あの頃、トキワ荘というのはとてつもないほどリッチな生活だったんだ。玄関、炊事場、トイレ共同、風呂無し、四畳半の木造アパート。いまなら、売れない芸人しか住まないかもしれない。昭和30年代初頭、20歳になるかならないかでアパートに暮らすのは贅沢なことだった。大卒の初任給が13000円。トキワ荘の家賃は3〜4000円もした」
へぇ、すごいもんだ。
著者は宮城県の石森出身。だから、ペンネームを石森(いしのもり)にしたわけ。手塚治虫さんから手伝ってくれ、と誘われて上京したらしい。
でもね、昭和36年、「怪傑ハリマオ」の連載が好評の内に終了。23歳。ほかにも連載が何本も続いていたけど、「漫画家はもういいや」という気分ですっかり固まってしまった。けど、いきなり、漫画が嫌になったんでやめます・・・では迷惑をかけてしまう。
「外国にでも行くしかないか」
子どもの頃から外国は憧れだった。でもね、当時はいまとちがって1ドル=360円。感覚的には1ドル=2500円でちょうどいい。日本は経済的にも実力がなかったから、ドルを使えるのは公務やビジネスでどうしても外国に行く人間だけに限られてたわけ。
そこで考えた。ちょうどシアトルで世界SF大会が開催される。で、「視察」「研究」という名目で行っちゃおう。
でもさ、肝心の資金がないのよ。で、借りられるところから借りまくり、最後はつき合いのある出版社に事情を話して前借り。「漫画家をやめるくせに前借りしちゃう」
3カ月も帰らないから、その分の仕事を先に終わらせなくちゃ。けど、終わるわけがない。空港でギリギリまで描いてもダメ。結局、「あとはよろしく!」って、仲良しの赤塚不二夫さんにすべて任せちゃう。
赤塚さんが売れなくてねえ。デビューもできない。もち、連載なんて無理。
「個性がないんだよ。君の描くの、み〜んな、だれかの作品に似てるの。もうやめたら? 才能ないよ」
編集者もあきらめ顔。本人もやめようと決めた。石森さんの手伝いをしてなんとか暮らしてたんだもん。だけど、ひょんなことから風向きが変わるのよ(詳しくは本、読んでね)。
石森さんにしても、海外で自分を見つめ続けた3カ月間はムダではなかったようですな。ひと皮むけたというか、本気になったというか、とにかく取り組み方が変わった。
渡航前までは、商業誌に発表していながら、読者がどう読むかなんてほとんど意識せずに描いてた。わかりやすく伝えようなんてさらさら考えちゃいなかった。単純でわかりやすいより、複雑で難解な方がエライと思ってた。
「わかってくれないと拗ねてるくらいなら、面白くてみんなにわかるものを描こう。なおかつ、ボクのメッセージが少しでも伝わればそれで御の字じゃないか」
肩の力が抜けたら、漫画というメディアに筋違いの失望をしなくなった。ようやく自分の意志で漫画という道を選ぶわけさ。
晩年、来し方を振り返って赤裸々にまとめた貴重な1冊です。ホントに肩の力が抜けてて小気味がいいのよ。
さてと、トキワ荘つながりで、明日は。「トキワ荘の青春」という映画をご紹介しましょう。
この映画、最初観たとき、「なんて陰気でつまんねぇんだ」と思ったの。ところが、石森さんの本を読み、赤塚さんの本を読み、少年マガジンの編集長の本を読み、長谷邦夫さんの本を読み・・・いま、観直すとなんて素敵な世界がそこにはあったんだ。どうして気づかなかったんだ、って反省することしきり。
ガキを受け付けてくれない作品だったんだね。
ところで、冒頭の才能論だけど、あるのかないのか、だれにもわかんない。本人にはもっとわかんねぇ。それが才能だと思うんだ。
けど、この才能をどう開かせるか、捨てるか。実力もあるだろうけど、運とか縁が大きいよな。悲しくて、やがて哀しき・・・才能ってつくづく残酷だよな。300円高。
でも、いまは違う。才能の8割は体力である。間違いない」
な〜るほど。おもろいやんけ。この本、古本屋でゲット。稀覯本じゃないけど、価値ある1冊だったなぁ。400ページくらいあるからかなり分厚いけど、読み始めたら止まらない。かっぱえびせん状態です。
世の中には、一貫して1つの世界を追いかける人と、あれこれ冒険しては新大陸を発見しようというタイプがいますね。
著者は典型的な後者。漫画の世界でもあちこち展開してますな。
えっ、どういうこと? 作品を見れば一目瞭然でんがな。
「サイボーグ009」「快傑ハリマオ」「仮面ライダー」「幻魔大戦」「佐武と市捕物控」「HOTEL」「マンガ日本経済入門(300万部突破!)」「マンガ日本の歴史(全45巻)」・・・。
こんだけ量産してれば、たしかに体力勝負ですな。
けどね、ただ多いだけじゃありまへん。幅が広い。奥が深い。いい加減じゃない。口先三寸のやっつけ仕事とはぜんぜん違う。
こりゃ、体力勝負になりますな。体力という意味の中には知力も含まれることは言うまでもありませんな。脳の皺1つ1つに汗をかいてることがよ〜くわかります。
「ボクがはじめて漫画を描いて原稿料をもらったのは、高校2年のときだった」
当時、学童社という出版社があってね、「漫画少年」という雑誌に「二級天使」という漫画を連載したのがきっかけ(この雑誌、手塚治虫さんが「ジャングル大帝」や「火の鳥」を連載してた)。
これ、「漫画版スター誕生」みたいなところがあって、全国の漫画ファンから作品を公募しては毎月、入選作品を横綱、大関、関脇、小結と格付けしてたの。もちろん、著者は常連。
伝説の「トキワ荘(漫画家の卵、ひよこ、売れっ子まで住んでいた梁山泊!)」で無二の親友になる赤塚不二夫さんも投稿してたし、後年、友達になる「ゴルゴ13」のさいとうたかをさんも投稿してた。
これ、全国の漫画少年、漫画少女にとっては、憧れの雑誌であり、また、登竜門でもあったわけよ。
瞠目すべきことは、漫画家にならなかった人たちもせっせと投稿してたこと。たとえば、作家の眉村卓、筒井康隆、カメラマンの篠山紀信、グラフィックデザイナーの横尾忠則などの各氏も常連だったんだよね。
「トキワ荘」といえば、市川準さんの映画「トキワ荘の青春」で見ると、薄汚くて、いまで言えば、売れない芸人の吹きだまりみたいに見えるよね。
事実、「デビューしてからずっとお忙しかったのに、どうしてトキワ荘みたいな小さなアパートにいらしたんですか?」って、若い編集者たちからしょっちゅう質問されたらしい。
「とんでもない! あの頃、トキワ荘というのはとてつもないほどリッチな生活だったんだ。玄関、炊事場、トイレ共同、風呂無し、四畳半の木造アパート。いまなら、売れない芸人しか住まないかもしれない。昭和30年代初頭、20歳になるかならないかでアパートに暮らすのは贅沢なことだった。大卒の初任給が13000円。トキワ荘の家賃は3〜4000円もした」
へぇ、すごいもんだ。
著者は宮城県の石森出身。だから、ペンネームを石森(いしのもり)にしたわけ。手塚治虫さんから手伝ってくれ、と誘われて上京したらしい。
でもね、昭和36年、「怪傑ハリマオ」の連載が好評の内に終了。23歳。ほかにも連載が何本も続いていたけど、「漫画家はもういいや」という気分ですっかり固まってしまった。けど、いきなり、漫画が嫌になったんでやめます・・・では迷惑をかけてしまう。
「外国にでも行くしかないか」
子どもの頃から外国は憧れだった。でもね、当時はいまとちがって1ドル=360円。感覚的には1ドル=2500円でちょうどいい。日本は経済的にも実力がなかったから、ドルを使えるのは公務やビジネスでどうしても外国に行く人間だけに限られてたわけ。
そこで考えた。ちょうどシアトルで世界SF大会が開催される。で、「視察」「研究」という名目で行っちゃおう。
でもさ、肝心の資金がないのよ。で、借りられるところから借りまくり、最後はつき合いのある出版社に事情を話して前借り。「漫画家をやめるくせに前借りしちゃう」
3カ月も帰らないから、その分の仕事を先に終わらせなくちゃ。けど、終わるわけがない。空港でギリギリまで描いてもダメ。結局、「あとはよろしく!」って、仲良しの赤塚不二夫さんにすべて任せちゃう。
赤塚さんが売れなくてねえ。デビューもできない。もち、連載なんて無理。
「個性がないんだよ。君の描くの、み〜んな、だれかの作品に似てるの。もうやめたら? 才能ないよ」
編集者もあきらめ顔。本人もやめようと決めた。石森さんの手伝いをしてなんとか暮らしてたんだもん。だけど、ひょんなことから風向きが変わるのよ(詳しくは本、読んでね)。
石森さんにしても、海外で自分を見つめ続けた3カ月間はムダではなかったようですな。ひと皮むけたというか、本気になったというか、とにかく取り組み方が変わった。
渡航前までは、商業誌に発表していながら、読者がどう読むかなんてほとんど意識せずに描いてた。わかりやすく伝えようなんてさらさら考えちゃいなかった。単純でわかりやすいより、複雑で難解な方がエライと思ってた。
「わかってくれないと拗ねてるくらいなら、面白くてみんなにわかるものを描こう。なおかつ、ボクのメッセージが少しでも伝わればそれで御の字じゃないか」
肩の力が抜けたら、漫画というメディアに筋違いの失望をしなくなった。ようやく自分の意志で漫画という道を選ぶわけさ。
晩年、来し方を振り返って赤裸々にまとめた貴重な1冊です。ホントに肩の力が抜けてて小気味がいいのよ。
さてと、トキワ荘つながりで、明日は。「トキワ荘の青春」という映画をご紹介しましょう。
この映画、最初観たとき、「なんて陰気でつまんねぇんだ」と思ったの。ところが、石森さんの本を読み、赤塚さんの本を読み、少年マガジンの編集長の本を読み、長谷邦夫さんの本を読み・・・いま、観直すとなんて素敵な世界がそこにはあったんだ。どうして気づかなかったんだ、って反省することしきり。
ガキを受け付けてくれない作品だったんだね。
ところで、冒頭の才能論だけど、あるのかないのか、だれにもわかんない。本人にはもっとわかんねぇ。それが才能だと思うんだ。
けど、この才能をどう開かせるか、捨てるか。実力もあるだろうけど、運とか縁が大きいよな。悲しくて、やがて哀しき・・・才能ってつくづく残酷だよな。300円高。