2008年03月27日「トランクの中の日本」 写真・ジョー・オダネル 小学館 2625円
1945年、23才の米国兵士が佐世保に降り立った。
カメラマンとして日本の惨状、とくにヒロシマ、ナガサキの原爆跡をつぶさに記録することになる著者である。
軍から支給されたカメラとは別に、佐世保の写真館で煙草の山と交換して手に入れたカメラを使ってそっと写真を撮りまくった。
翌年、帰還命令が出た時には没収されることを怖れ、「開封厳禁」のフィルムの中に混ぜて持ち帰ることができた。
ただし、ネガの中身は現像せず永遠に心の中に封じ込めてしまおうと決意した。
帰国後しばらくして、原因不明の体調不良に見舞われた。病院で調べると「原爆病」と判明。ヒロシマ、ナガサキの被爆跡を何日も歩き回って撮っていたときに放射能に被爆したというわけだ。
ネガを詰め込んだトランクを45年ぶりに開けてみると、湿気にもネズミにも囓られずにそこにそのまま残っていた。
現像するとまさしくあの頃の日本があった。
サイパンから日本に向かう途上、「ただいま、広島に新型爆弾が投下され、10万人以上の死者が出たと思われる」とスピーカーから流れた。
1発で10万人? そんな爆弾があるわけない。3日後、今度は長崎で8万人? 士気を高めるための作戦だな・・・。日本に上陸した驚いた。広島、長崎を見てさらに驚いた。すべてが灰燼に帰していた。
ヒロシマで、ナガサキで、被爆者を撮影した。身体が焼けただれ、「殺してくれ!」と何度も泣き叫ぶ子どもがいた。皮膚から湧いてくるウジをとってやり、「助けて欲しい」「痛まないよう」と祈りを捧げた。
翌朝、その祈りがようやく通じた・・・死んだのだ。
もう2度と被爆者は撮らない、と決めた。
福岡で老人の写真を撮らせてもらった。
「若い人よ、日本でなにが行われたか、アメリカに戻ってみなに知らせなさい」
だが、45年間も封印した。23歳の若者にとって、あまりにもショッキングなことばかりだった。
佐世保で日本人の市長に歓待されたことがある。ご馳走がたくさん出た。
「これをつくったのはだれですか?」
「・・・」
「市長は結婚しているのですか?」
「・・・35年間一緒にいました」
あまりの歓待にはしゃいだ著者が、奥様にぜひお会いしたいと通訳に聞いてもらった。市長の答えを聞くや、通訳がかたい顔を向けた。
「半年前の爆撃で亡くなられたそうです」
「・・・バカなアメリカ人が失礼なことを聞いてしまった、と伝えてください」
今度は、嫌悪感で自分が嫌になる番だった。
1990年からアメリカで、92年から日本で、著者の写真展が始まった。95年からはヨーロッパ展もハンブルグを皮切りにウィーン、ベルリンなど各地で開かれるようになった。
残念ながら、95年から半年間、スミソニアンで写真展を計画していたところ、「エノラ・ゲイ」以外のものはすべて在郷軍人の圧力でキャンセルされてしまった。
だれでも都合の悪いことは隠したいものだ。それは中国だろうとアメリカだろうと変わらないと思う。
だが・・・。
「これで終わりじゃない。これからがスタートだと思う」
すべての日本人にぜひ見ていただきたい写真集。目は口ほどにモノを言う。いろんな声が聞こえてくると思いますよ。400円高。
カメラマンとして日本の惨状、とくにヒロシマ、ナガサキの原爆跡をつぶさに記録することになる著者である。
軍から支給されたカメラとは別に、佐世保の写真館で煙草の山と交換して手に入れたカメラを使ってそっと写真を撮りまくった。
翌年、帰還命令が出た時には没収されることを怖れ、「開封厳禁」のフィルムの中に混ぜて持ち帰ることができた。
ただし、ネガの中身は現像せず永遠に心の中に封じ込めてしまおうと決意した。
帰国後しばらくして、原因不明の体調不良に見舞われた。病院で調べると「原爆病」と判明。ヒロシマ、ナガサキの被爆跡を何日も歩き回って撮っていたときに放射能に被爆したというわけだ。
ネガを詰め込んだトランクを45年ぶりに開けてみると、湿気にもネズミにも囓られずにそこにそのまま残っていた。
現像するとまさしくあの頃の日本があった。
サイパンから日本に向かう途上、「ただいま、広島に新型爆弾が投下され、10万人以上の死者が出たと思われる」とスピーカーから流れた。
1発で10万人? そんな爆弾があるわけない。3日後、今度は長崎で8万人? 士気を高めるための作戦だな・・・。日本に上陸した驚いた。広島、長崎を見てさらに驚いた。すべてが灰燼に帰していた。
ヒロシマで、ナガサキで、被爆者を撮影した。身体が焼けただれ、「殺してくれ!」と何度も泣き叫ぶ子どもがいた。皮膚から湧いてくるウジをとってやり、「助けて欲しい」「痛まないよう」と祈りを捧げた。
翌朝、その祈りがようやく通じた・・・死んだのだ。
もう2度と被爆者は撮らない、と決めた。
福岡で老人の写真を撮らせてもらった。
「若い人よ、日本でなにが行われたか、アメリカに戻ってみなに知らせなさい」
だが、45年間も封印した。23歳の若者にとって、あまりにもショッキングなことばかりだった。
佐世保で日本人の市長に歓待されたことがある。ご馳走がたくさん出た。
「これをつくったのはだれですか?」
「・・・」
「市長は結婚しているのですか?」
「・・・35年間一緒にいました」
あまりの歓待にはしゃいだ著者が、奥様にぜひお会いしたいと通訳に聞いてもらった。市長の答えを聞くや、通訳がかたい顔を向けた。
「半年前の爆撃で亡くなられたそうです」
「・・・バカなアメリカ人が失礼なことを聞いてしまった、と伝えてください」
今度は、嫌悪感で自分が嫌になる番だった。
1990年からアメリカで、92年から日本で、著者の写真展が始まった。95年からはヨーロッパ展もハンブルグを皮切りにウィーン、ベルリンなど各地で開かれるようになった。
残念ながら、95年から半年間、スミソニアンで写真展を計画していたところ、「エノラ・ゲイ」以外のものはすべて在郷軍人の圧力でキャンセルされてしまった。
だれでも都合の悪いことは隠したいものだ。それは中国だろうとアメリカだろうと変わらないと思う。
だが・・・。
「これで終わりじゃない。これからがスタートだと思う」
すべての日本人にぜひ見ていただきたい写真集。目は口ほどにモノを言う。いろんな声が聞こえてくると思いますよ。400円高。