2009年02月07日「禅 ZEN」
カテゴリー中島孝志の不良映画日記」
教祖、宗祖ものの映画って好きなのよね。キリストさん、お釈迦さん、それに空海、日蓮、親鸞さんとかね。
たとえば、空海さん1人とっても、北大路欣也さん主演の「空海」も、永島敏行さん主演の「MANDARA曼陀羅ー若き日の弘法大師・空海」も良かった。けど、三國蓮太郎さん原作・監督の「親鸞 白い道」は映画としてはいまいちだったなあ。演じること、演じさせることはやっぱちがいますな。
さて、この映画。あまり評判よくありませんな。勘太郎さんはともかく、内田有紀さん出演の必然性がないとか、あの時代、こんな女性はいなかっただとか、ま、ほとんどいいがかりかという評価ですけどね。
私ゃ面白かったですな。映画館もめちゃ混み。毎月1日はサービスデーで半額だからかな。
「正法眼蔵」とか「随聞記」を読むとわかりますが、道元さんの一途さ、生真面目さが伝わってきます。
宗教家の強さは、迷わないということでしょうな。絶対に迷わない。この強さこそ、現代のように「軸」がぶれて根こそぎ失われるような時代にはより燦然と輝くんでしょうな。
ええっと、道元さんは鎌倉時代の人。ええとこのボンボンなのよ。
父は源(久我)通親。母は伊子。1200年正月2日。時は源頼朝が没した翌年ね。母親は絶世の美女で、元々は木曽義仲の妻だった人。映画ではここまでは説明してないけどね。
幼い頃から聡明かつ学問熱心で、4歳にして唐詩を諳らんじ、7歳にして「詩経」「左氏伝」をひもといたと言われてます。
道元さんの性格をひと言でいうと、「懸命の人」と私は思ってます。いま目の前にあるテーマに懸命に取り組む。その集中力と執念はちと凄い。やっぱ、どんな世界でも極める人にはこの2つが必ずありますな。
ところが、道元さん、3歳の時に父親が死ぬのね。以来、鎌倉幕府のライバルとして一族郎党の期待を一身に背負うんだけど、母親は夫や自分の父親(実父は藤原基房という摂政、関白、太政大臣などを歴任した)の人生を顧みると「虚無感」でいっぱいなのよ。
どうも、この母親の素質を受け継いだようですな。
「政治の世界は敵はもちろん、親兄弟をも裏切り、殺し、一時も精神の休まるときはない。権力に登り詰めても、その子や孫の時代には皆殺しに遭う運命」
「阿弥陀様におすがりすれば、人は浄土に行けるという教えが流行っているけれども、浄土などというものが本当にあるのか?」
母親の疑問がそのまま道元さんの疑問にもなるわけ。
12歳にして母をも喪い、その葬儀の際、香煙の立ち上がる中、世の生滅無常を悟って発心した、ともいわれます。臨終に際し「出家してわが後世を弔いたまえ」という言葉に出塵の志を決したわけさ。
夜半、人の寝静まる時間を待って伯父である叡山の良観法眼を訪れて出塵の志を打ち明け、そのとりなしで翌年1213年、天台座主公円僧正について剃髪出家の本懐を遂げます。
ま、当時のエリートコースですな。けど、当時、ここは僧兵で有名なほど武装化してまともに修行などしてる様子は0。で、生真面目な道元さんは絶望するわけ。
入山以来、1つの大きな疑問に突き当たってたのね。
「人間は本来仏性を持って生まれたと聞くが、三世の諸仏は、なぜ、さらに進んで発心し、修行を重ねて正覚に達したのであろうか。人が本来、生まれながらの仏ならば、刻苦勉励して仏となるのは、一つの矛盾ではないか?」
だれに聞いてもわからない。なかなか解けない。しかも消えないどころか、だんだん心の中に大きくクローズアップされてくる。そのうち、公円が天台座主の職を辞することになる。道元さんもこの機会をとらえて山を下りようと決心するわけ。
「そうだ、宋に行こう。宋に行けば、本当の仏教に出会えるに違いない」
道元さんは2度の入宋経験を持ち、臨済宗を起こした栄西禅師の門を叩くのね。このシーン、どうしてシナリオに入れなかったのか、不思議なんだけどね。道元さんと栄西の年齢差はなんと60歳。で、道元さんを自分の弟子の明全とともに入宋できるように計らってくれるわけ。
栄西の目には、たぶん60年前の自分の姿が映ってたのかもしれませんな。
1223年2月に出発。時に明全40歳、道元さん24歳。
天童山景徳寺に着いても、道元さんだけは入山しない。というのも、あれほど勉強した中国語がまったく通じないの。宋は広くてね、南と北では言葉が違ってたの。道元さん、通訳を雇って徹底的に再勉強するわけ。その間、3カ月。
さすがに日本仏教に無かった「戒律」はきちんとしていたけど、道元さんの目から見ると本当の師と呼べるべき人物には出会えなかった。
「宋にも本当の人物はいない。俗物だらけだ」
栄西ゆかりの寺を歩く旅に出るわけ。道元さんは法嗣=達磨大師から続く法灯を嗣ぐべき人物、を探してた。行けども行けどもそんな人はいなかった。結果、7つの寺を歩いた。
最後の最後に行った寺で、「今度、天童山では住職が代わったぞ。それこそおまえが求めている師ではないのか」と言われる。
急ぎ戻って一目見るなり感激するのよ。まさに地位や財産、権力におもねず、仏の教えに順応して生きる人物がそこにいたわけ。
諸所に名僧を訪ねること3年。ようやく天童山は中国曹洞宗の正嫡、古仏如浄と出会うわけ。
これは道元さんにとって幸運だったと思うね。同時に如浄にとっても道元さんという弟子を得たことは幸運だったと思う。
如浄は越州の人で、19歳の時から座禅に明け暮れ、60歳にいたるまでそれ以外のことに時間を費やさなかった。それだけに、弟子に対しても峻厳極まりなく、とりわけ禅堂での教育は想像
を絶するものがあったらしいですな。
けど、道元さんにはこの厳しい修行こそ求めてたものだったからね。玉はこうしてさらに磨かれていくわけよ。
この2人の間でどんな対話が繰り広げられたか・・・「正法眼蔵」を読むとわかりますよ。
「ある人はすべての人は生まれながらに仏なのだと言う。ある人は生まれながらに備わる自覚の智慧の働きが仏である、と知る人は仏だが、知らない人は仏ではないと言う。このような説が仏教の教説だと言えるでしょうか?」
「生まれながらに仏であるなら、すべては自然の計らいで修行などする必要はない。それは自然外道と同じである。自分の考えから類推して、仏もそうだろう、そう考えたに違いないと想像することは、本当は何一つ悟ってもいないにもかかわらず、悟った、悟ったと錯覚するのと同じだ」
如浄は道元さんに対して全幅の信任を寄せてたようです。もはや身心脱落(身心の束縛から自由になること、すなわち、悟りの状態をさす)の印可を与え、さらに自分の後嗣としたいという考えさえ抱いてた。
けど、道元さんは素志を貫くわけ。日本に戻って仏法を世に広めるという素志ね。
如浄もやむなくこれを許します。時に道元さん28歳、如浄65歳。入宋から5年。
道元さんが帰国の途に着いた翌年、如浄は亡くなります。ともに入宋した明全はすでに宋に骨を埋めていました。
道元さんは如浄から法嗣を受け継ぎで日本に戻ります。帰国第一声の言葉が痺れますな。
「空手にして還る」
この言葉こそ、道元さんの自負が伺えますな。
さて、さて、それからどうなるか。当時、権力を持ってた比叡山の妨害は甚だしく、道元さんは宇治深草安養院に移り、さらに興聖寺を開く。その間、「正法眼蔵」95巻を選述。妨害、迫害はそれでも止まず、越前に向かうわけ。
「深山幽谷に住み、仏祖の教えを守る」というのは先師如浄の言葉にあります、この修行道場こそが大仏寺。後の大本山永平寺ですな。
「人間は生まれながらにして豊かな仏性が備わっているが、それは修行せずに現成できるものではない。また修行によって悟ってもそれで終わりというものではない」
「悟りも無限であり、修行も無限である。修を離れて証はありえない。修行と悟りの連環は果てしなく繰り返されるのだ」
「悟りは修行を行う者が自然にわかることである。あたかも、それは水を使う人がその冷たさ、温かさを知るようなものだ」
「薪は燃えて灰となるが、燃えた灰が薪に戻ることはない。灰は後、薪は先と見てはならない。薪は薪として、はじめから終わりまで薪だ。その前後はあるがその前後は断ち切られているのだ」
「人は死んだ後、もう一度、生き返ることはできない。ゆえに、生が死に移り変わるとは言わないのが仏法の習いで、これを不生という。死が生に移り変わらないとするのも同様で、これを不滅と表現する。生も死も一時のありようなのである」
この複眼的・多角的・飛躍的なものの見方、考え方が、私が道元さんに魅かれる理由ですな。
たとえば、空海さん1人とっても、北大路欣也さん主演の「空海」も、永島敏行さん主演の「MANDARA曼陀羅ー若き日の弘法大師・空海」も良かった。けど、三國蓮太郎さん原作・監督の「親鸞 白い道」は映画としてはいまいちだったなあ。演じること、演じさせることはやっぱちがいますな。
さて、この映画。あまり評判よくありませんな。勘太郎さんはともかく、内田有紀さん出演の必然性がないとか、あの時代、こんな女性はいなかっただとか、ま、ほとんどいいがかりかという評価ですけどね。
私ゃ面白かったですな。映画館もめちゃ混み。毎月1日はサービスデーで半額だからかな。
「正法眼蔵」とか「随聞記」を読むとわかりますが、道元さんの一途さ、生真面目さが伝わってきます。
宗教家の強さは、迷わないということでしょうな。絶対に迷わない。この強さこそ、現代のように「軸」がぶれて根こそぎ失われるような時代にはより燦然と輝くんでしょうな。
ええっと、道元さんは鎌倉時代の人。ええとこのボンボンなのよ。
父は源(久我)通親。母は伊子。1200年正月2日。時は源頼朝が没した翌年ね。母親は絶世の美女で、元々は木曽義仲の妻だった人。映画ではここまでは説明してないけどね。
幼い頃から聡明かつ学問熱心で、4歳にして唐詩を諳らんじ、7歳にして「詩経」「左氏伝」をひもといたと言われてます。
道元さんの性格をひと言でいうと、「懸命の人」と私は思ってます。いま目の前にあるテーマに懸命に取り組む。その集中力と執念はちと凄い。やっぱ、どんな世界でも極める人にはこの2つが必ずありますな。
ところが、道元さん、3歳の時に父親が死ぬのね。以来、鎌倉幕府のライバルとして一族郎党の期待を一身に背負うんだけど、母親は夫や自分の父親(実父は藤原基房という摂政、関白、太政大臣などを歴任した)の人生を顧みると「虚無感」でいっぱいなのよ。
どうも、この母親の素質を受け継いだようですな。
「政治の世界は敵はもちろん、親兄弟をも裏切り、殺し、一時も精神の休まるときはない。権力に登り詰めても、その子や孫の時代には皆殺しに遭う運命」
「阿弥陀様におすがりすれば、人は浄土に行けるという教えが流行っているけれども、浄土などというものが本当にあるのか?」
母親の疑問がそのまま道元さんの疑問にもなるわけ。
12歳にして母をも喪い、その葬儀の際、香煙の立ち上がる中、世の生滅無常を悟って発心した、ともいわれます。臨終に際し「出家してわが後世を弔いたまえ」という言葉に出塵の志を決したわけさ。
夜半、人の寝静まる時間を待って伯父である叡山の良観法眼を訪れて出塵の志を打ち明け、そのとりなしで翌年1213年、天台座主公円僧正について剃髪出家の本懐を遂げます。
ま、当時のエリートコースですな。けど、当時、ここは僧兵で有名なほど武装化してまともに修行などしてる様子は0。で、生真面目な道元さんは絶望するわけ。
入山以来、1つの大きな疑問に突き当たってたのね。
「人間は本来仏性を持って生まれたと聞くが、三世の諸仏は、なぜ、さらに進んで発心し、修行を重ねて正覚に達したのであろうか。人が本来、生まれながらの仏ならば、刻苦勉励して仏となるのは、一つの矛盾ではないか?」
だれに聞いてもわからない。なかなか解けない。しかも消えないどころか、だんだん心の中に大きくクローズアップされてくる。そのうち、公円が天台座主の職を辞することになる。道元さんもこの機会をとらえて山を下りようと決心するわけ。
「そうだ、宋に行こう。宋に行けば、本当の仏教に出会えるに違いない」
道元さんは2度の入宋経験を持ち、臨済宗を起こした栄西禅師の門を叩くのね。このシーン、どうしてシナリオに入れなかったのか、不思議なんだけどね。道元さんと栄西の年齢差はなんと60歳。で、道元さんを自分の弟子の明全とともに入宋できるように計らってくれるわけ。
栄西の目には、たぶん60年前の自分の姿が映ってたのかもしれませんな。
1223年2月に出発。時に明全40歳、道元さん24歳。
天童山景徳寺に着いても、道元さんだけは入山しない。というのも、あれほど勉強した中国語がまったく通じないの。宋は広くてね、南と北では言葉が違ってたの。道元さん、通訳を雇って徹底的に再勉強するわけ。その間、3カ月。
さすがに日本仏教に無かった「戒律」はきちんとしていたけど、道元さんの目から見ると本当の師と呼べるべき人物には出会えなかった。
「宋にも本当の人物はいない。俗物だらけだ」
栄西ゆかりの寺を歩く旅に出るわけ。道元さんは法嗣=達磨大師から続く法灯を嗣ぐべき人物、を探してた。行けども行けどもそんな人はいなかった。結果、7つの寺を歩いた。
最後の最後に行った寺で、「今度、天童山では住職が代わったぞ。それこそおまえが求めている師ではないのか」と言われる。
急ぎ戻って一目見るなり感激するのよ。まさに地位や財産、権力におもねず、仏の教えに順応して生きる人物がそこにいたわけ。
諸所に名僧を訪ねること3年。ようやく天童山は中国曹洞宗の正嫡、古仏如浄と出会うわけ。
これは道元さんにとって幸運だったと思うね。同時に如浄にとっても道元さんという弟子を得たことは幸運だったと思う。
如浄は越州の人で、19歳の時から座禅に明け暮れ、60歳にいたるまでそれ以外のことに時間を費やさなかった。それだけに、弟子に対しても峻厳極まりなく、とりわけ禅堂での教育は想像
を絶するものがあったらしいですな。
けど、道元さんにはこの厳しい修行こそ求めてたものだったからね。玉はこうしてさらに磨かれていくわけよ。
この2人の間でどんな対話が繰り広げられたか・・・「正法眼蔵」を読むとわかりますよ。
「ある人はすべての人は生まれながらに仏なのだと言う。ある人は生まれながらに備わる自覚の智慧の働きが仏である、と知る人は仏だが、知らない人は仏ではないと言う。このような説が仏教の教説だと言えるでしょうか?」
「生まれながらに仏であるなら、すべては自然の計らいで修行などする必要はない。それは自然外道と同じである。自分の考えから類推して、仏もそうだろう、そう考えたに違いないと想像することは、本当は何一つ悟ってもいないにもかかわらず、悟った、悟ったと錯覚するのと同じだ」
如浄は道元さんに対して全幅の信任を寄せてたようです。もはや身心脱落(身心の束縛から自由になること、すなわち、悟りの状態をさす)の印可を与え、さらに自分の後嗣としたいという考えさえ抱いてた。
けど、道元さんは素志を貫くわけ。日本に戻って仏法を世に広めるという素志ね。
如浄もやむなくこれを許します。時に道元さん28歳、如浄65歳。入宋から5年。
道元さんが帰国の途に着いた翌年、如浄は亡くなります。ともに入宋した明全はすでに宋に骨を埋めていました。
道元さんは如浄から法嗣を受け継ぎで日本に戻ります。帰国第一声の言葉が痺れますな。
「空手にして還る」
この言葉こそ、道元さんの自負が伺えますな。
さて、さて、それからどうなるか。当時、権力を持ってた比叡山の妨害は甚だしく、道元さんは宇治深草安養院に移り、さらに興聖寺を開く。その間、「正法眼蔵」95巻を選述。妨害、迫害はそれでも止まず、越前に向かうわけ。
「深山幽谷に住み、仏祖の教えを守る」というのは先師如浄の言葉にあります、この修行道場こそが大仏寺。後の大本山永平寺ですな。
「人間は生まれながらにして豊かな仏性が備わっているが、それは修行せずに現成できるものではない。また修行によって悟ってもそれで終わりというものではない」
「悟りも無限であり、修行も無限である。修を離れて証はありえない。修行と悟りの連環は果てしなく繰り返されるのだ」
「悟りは修行を行う者が自然にわかることである。あたかも、それは水を使う人がその冷たさ、温かさを知るようなものだ」
「薪は燃えて灰となるが、燃えた灰が薪に戻ることはない。灰は後、薪は先と見てはならない。薪は薪として、はじめから終わりまで薪だ。その前後はあるがその前後は断ち切られているのだ」
「人は死んだ後、もう一度、生き返ることはできない。ゆえに、生が死に移り変わるとは言わないのが仏法の習いで、これを不生という。死が生に移り変わらないとするのも同様で、これを不滅と表現する。生も死も一時のありようなのである」
この複眼的・多角的・飛躍的なものの見方、考え方が、私が道元さんに魅かれる理由ですな。