2009年02月28日「カレー」(中之島公会堂)
カテゴリー中島孝志のB級グルメ探検隊」
「B級グルメ」とは「格安の値段で超一級の味を提供する料理、すなわち、お買い得、お食べ得の料理」という意味です。
高くて美味いのは当たり前。安くても、「こんなに美味いの? こんな値段で食べちゃっていいの?」と腰を抜かしてしまう店。それを紹介するのが本ブログの使命です(ちょっとオーバーか)。
昨日のブログで中央公会堂でのイベントについてご紹介しました。
今回は番外編というか、実は2時間も前に会場に先乗りしたんで、ちょいと地下のレストランでも覗こうかと食いしん坊が寄ったわけよ。そしたら意外と美味いじゃん。で、このレストランを紹介しようと思うわけ。
都庁にも東京タワーにも行ったことがない、という都民が少なくないのと同様、中之島の中央公会堂にも行ったことない。行ったけど、地下のレストランは知らんよ、という人がいるかもしれません。
ま、ここ、プロレス興業から結婚披露宴まで手広く商売してるから、めったにいないかもしれませんけどね。
しっかし、今日びの午餐ともなると、おばちゃんばかりですな。ここもおばちゃんばかり。あまり視線を合わさんようにしてたんですけど、豹柄はあまりいなかったですな。
朝から何も食べてないしね。夜9時頃まで長丁場になるから、少しお腹に入れとこうと思ったわけ。
なににしようかな? あっカレーがいいや。カレーとアイスティ宜しく。そうガムシロはいらないからね。
(PCでメールチェックしてるとカレーとアイスティが届く)
ん? んんん? なんじゃこりゃあ、めちゃ辛いやんけ。たまらんのう。こんな辛いの。お嫌いですか? お好きです。1人でのり突っ込みしてると隣のおばちゃんたちにウケるのウケないの(はいウケませんでした)
それにしてもええ度胸しとるのう。この辛さは癖になりまっせ。このくらい辛くないと記憶には残りませんな。
このカレーいけまっせ(ごめんねピンが甘くて。N社のケータイはあかんな)。
名物は200食限定のオムライスなんだって。最近、カレーのことばかり書いてたから目に入らなかったんだろうね。ま、今度食べるからいいや。
北浜の姉妹店「中之島グリル」にはこんなのあるよ!美味そう!
なんとも美味しそうじゃあ〜りませんか。大阪の客は味にうるさい。美味しくて当たり前、安くて当たり前。食べもんにうるさい。長続きしてるっちゅうことは名店ということよ。
店名:中之島倶楽部
場所:中央公会堂の地下(淀屋橋下車)。
価格:アイスティとカレーで1030円でした。なんか変な価格。
※姉妹店「中之島グリル」は日生本社の向かいにあるらしいね。
中之島の中央公会堂でイベントやったんですけど、実は愉しみにしてたことが1つあったのね。それはあの天才相場師、岩本栄之助さんの記念室を拝見すること。
私が小学生の頃、たしかフジテレビ、つまり、関西テレビの制作だと思うんだけど、「船場」という浪花のド根性ものドラマやってたのよ。夜9時半開始。小西酒造提供の白雪劇場ね(「♪山が富士ならぁ、酒はぁ白雪ぃ」つう、あの渋いCM好きでしたなあ)。脚本はたぶん花登筺さん(星由里子さんのご主人でしたなあ)。
で、その中にこの岩本栄之助さんが出てくるのよ。もち本人ではなく役者さんですけどね。
この人物があまりにも印象的でね。そのドラマ(本郷功治郎・扇千景さん出演の内容は忘れてしまったんだけど、この岩本栄之助さんのラストシーンだけが記憶に残ってるんです。
今回愉しみにしてたんですがね、記念室であって記念館ではない。大阪市の彼に対する顕彰はこんなもんかいな。妙なとこにつまらん税金つかわんと、もっと立派な記念館こしらえてあげたらどやねん。北浜の証券界あげて寄付金集めたらどやねん。こらあ。とまあ変な関西弁を使ってしまいました。
何度見てもいい建物ですな。今時こんなの建てられませんよ。
大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)つうのは、1911年(明治44年)、「北浜の風雲児」と呼ばれた相場師、岩本栄之助さんがポンと100万円(当時)を寄付して建設計画が始まったんです。
偉い人でね。日露戦争では中尉。渋沢栄一団長の渡米実業団に参加して、富豪つうのは慈善事業や寄付をするんやで、と知って共鳴するわけ。で、100万円を寄付するわけ。
使い道はいろいろあったんでしょうが、市民がだれでも使えるもものにしようってんで公会堂を建てることになったのね。
元々、彼は船場の両替商「岩本商店」の次男坊。市立大阪商業学校、大阪清語学校、明星外国語学校でそれぞれ商いと語学を勉強。で、夭折した兄に代わって家督を相続するわけ。
1907年の株式大暴落時には、野村徳七(野村證券創業者)と大阪株式取引所(現大阪証券取引所)の仲買人らの訴えに全財産を投じて市場を買い支えて救うのよ。「学問せなあかん」が口癖で、取引所の少年たちに私財を投じて塾を作ったりね。大阪電燈株式会社(関西電力)の常務取締役も務めてました。
ところが、1914年、第1次世界大戦の異常景気で大衆買いが殺到すると逆張りに回ったんだけど、相場は動かず大損失。1916年、岩本商店の使用人と家族を宇治へ松茸狩りに出したあと、自宅の離れで短銃自殺するわけ。享年39。公会堂の完成を待たずにね。
この秋を またでちりゆく 紅葉哉
その後しばらく経つと相場は彼の言ったとおりに動きます。もう少し待てば大儲けできたんですけどね・・・。投資の世界は待ったが利かないからね。
いい建物でした。岩本さんのおかげです。
高くて美味いのは当たり前。安くても、「こんなに美味いの? こんな値段で食べちゃっていいの?」と腰を抜かしてしまう店。それを紹介するのが本ブログの使命です(ちょっとオーバーか)。
昨日のブログで中央公会堂でのイベントについてご紹介しました。
今回は番外編というか、実は2時間も前に会場に先乗りしたんで、ちょいと地下のレストランでも覗こうかと食いしん坊が寄ったわけよ。そしたら意外と美味いじゃん。で、このレストランを紹介しようと思うわけ。
都庁にも東京タワーにも行ったことがない、という都民が少なくないのと同様、中之島の中央公会堂にも行ったことない。行ったけど、地下のレストランは知らんよ、という人がいるかもしれません。
ま、ここ、プロレス興業から結婚披露宴まで手広く商売してるから、めったにいないかもしれませんけどね。
しっかし、今日びの午餐ともなると、おばちゃんばかりですな。ここもおばちゃんばかり。あまり視線を合わさんようにしてたんですけど、豹柄はあまりいなかったですな。
朝から何も食べてないしね。夜9時頃まで長丁場になるから、少しお腹に入れとこうと思ったわけ。
なににしようかな? あっカレーがいいや。カレーとアイスティ宜しく。そうガムシロはいらないからね。
(PCでメールチェックしてるとカレーとアイスティが届く)
ん? んんん? なんじゃこりゃあ、めちゃ辛いやんけ。たまらんのう。こんな辛いの。お嫌いですか? お好きです。1人でのり突っ込みしてると隣のおばちゃんたちにウケるのウケないの(はいウケませんでした)
それにしてもええ度胸しとるのう。この辛さは癖になりまっせ。このくらい辛くないと記憶には残りませんな。
このカレーいけまっせ(ごめんねピンが甘くて。N社のケータイはあかんな)。
名物は200食限定のオムライスなんだって。最近、カレーのことばかり書いてたから目に入らなかったんだろうね。ま、今度食べるからいいや。
北浜の姉妹店「中之島グリル」にはこんなのあるよ!美味そう!
なんとも美味しそうじゃあ〜りませんか。大阪の客は味にうるさい。美味しくて当たり前、安くて当たり前。食べもんにうるさい。長続きしてるっちゅうことは名店ということよ。
店名:中之島倶楽部
場所:中央公会堂の地下(淀屋橋下車)。
価格:アイスティとカレーで1030円でした。なんか変な価格。
※姉妹店「中之島グリル」は日生本社の向かいにあるらしいね。
中之島の中央公会堂でイベントやったんですけど、実は愉しみにしてたことが1つあったのね。それはあの天才相場師、岩本栄之助さんの記念室を拝見すること。
私が小学生の頃、たしかフジテレビ、つまり、関西テレビの制作だと思うんだけど、「船場」という浪花のド根性ものドラマやってたのよ。夜9時半開始。小西酒造提供の白雪劇場ね(「♪山が富士ならぁ、酒はぁ白雪ぃ」つう、あの渋いCM好きでしたなあ)。脚本はたぶん花登筺さん(星由里子さんのご主人でしたなあ)。
で、その中にこの岩本栄之助さんが出てくるのよ。もち本人ではなく役者さんですけどね。
この人物があまりにも印象的でね。そのドラマ(本郷功治郎・扇千景さん出演の内容は忘れてしまったんだけど、この岩本栄之助さんのラストシーンだけが記憶に残ってるんです。
今回愉しみにしてたんですがね、記念室であって記念館ではない。大阪市の彼に対する顕彰はこんなもんかいな。妙なとこにつまらん税金つかわんと、もっと立派な記念館こしらえてあげたらどやねん。北浜の証券界あげて寄付金集めたらどやねん。こらあ。とまあ変な関西弁を使ってしまいました。
何度見てもいい建物ですな。今時こんなの建てられませんよ。
大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)つうのは、1911年(明治44年)、「北浜の風雲児」と呼ばれた相場師、岩本栄之助さんがポンと100万円(当時)を寄付して建設計画が始まったんです。
偉い人でね。日露戦争では中尉。渋沢栄一団長の渡米実業団に参加して、富豪つうのは慈善事業や寄付をするんやで、と知って共鳴するわけ。で、100万円を寄付するわけ。
使い道はいろいろあったんでしょうが、市民がだれでも使えるもものにしようってんで公会堂を建てることになったのね。
元々、彼は船場の両替商「岩本商店」の次男坊。市立大阪商業学校、大阪清語学校、明星外国語学校でそれぞれ商いと語学を勉強。で、夭折した兄に代わって家督を相続するわけ。
1907年の株式大暴落時には、野村徳七(野村證券創業者)と大阪株式取引所(現大阪証券取引所)の仲買人らの訴えに全財産を投じて市場を買い支えて救うのよ。「学問せなあかん」が口癖で、取引所の少年たちに私財を投じて塾を作ったりね。大阪電燈株式会社(関西電力)の常務取締役も務めてました。
ところが、1914年、第1次世界大戦の異常景気で大衆買いが殺到すると逆張りに回ったんだけど、相場は動かず大損失。1916年、岩本商店の使用人と家族を宇治へ松茸狩りに出したあと、自宅の離れで短銃自殺するわけ。享年39。公会堂の完成を待たずにね。
この秋を またでちりゆく 紅葉哉
その後しばらく経つと相場は彼の言ったとおりに動きます。もう少し待てば大儲けできたんですけどね・・・。投資の世界は待ったが利かないからね。
いい建物でした。岩本さんのおかげです。