2009年03月31日見参!高野山金剛峯寺
カテゴリー中島孝志の不良オヤジ日記」
やははだのあつき血潮に ふれもみで
さびしからずや 道を説く君(与謝野晶子)
父母の しきりに戀し 雉子の声(松尾芭蕉)
古の歌人・俳人はこんな風に詠んでいたようですな。人を引きつけてやまない魅力があるんでしょうな、ここには。
というわけで、久方ぶりに高野山に登りました。ホント、久しぶり。
朝も早よからお山に登る。といっても、歩いて登るわけではありません。南海電車で極楽橋まで行き、そこからケーブルカーで高野山駅。で、バスで終点の「奥の院」まで一気に行ってしまいました。
昔は電車もバスもありません。にもかかわらず、この聖地を目指して天皇も上皇もやってきたのですから凄いものです。いや、歩けませんよ。電車の窓から下を見ればほとんど崖ですからね。切り立った峰とは高野山のことを指しますな。
ところが、ケーブルカーで高野山駅まで登ると、平地に早変わり。そこには真言宗の大本山金剛峯寺があります。夏でも涼しい。冬は・・・まあ、たいへんなところです。
金剛峯寺とは高野山真言宗のいろいろなお寺さんの総称と考えたほうがいいようですな。広い広い。果てしなく広い。庭がいくつもありますが、きれいですな。
あらゆるところに竜神さんがおわしますな。
防火用の貯水漕が屋根にあるの。よく考えられてますよ。
讃岐の霊石。京都白川の白砂。
1つの釜で98キロの米が炊けます。3個で2000人分の米が炊ける。
後に統合された1つ。青巌寺にはいろんな部屋があんの。たとえば金箔が敷き詰められたゴージャスなのもあります。すべて拝観できるんです。ただ、ふすまに描かれた絵を撮影したり模写したリすることは禁止(外人さんは懸命に撮ってたけど)。
ここには柳の間というのがあんだけど、えっ、わざわざここまできて自刃したの? びっくりですな。
だれがって、秀次ですよ。日本史を思い出してください。子供がいない秀吉の後継者。関白まで賜り、秀吉に代わって聚楽第で政務を執っていたほどの人物です。
けどね。1593年、秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれると運命が変わります。
次第に秀吉から疎まれるようになる。で、お決まりの謀反の疑いをかけられちゃう。秀次は即、伏見に弁明に出かけるんだけど、秀吉は完全にシカト。で、1595年7月8日、秀吉の命令で高野山に追放されます。出家したんだけど、1週間後に切腹を命じられちゃう。享年28歳。
首は京都三条河原にさらされ、一族郎党皆殺しにあうわけ。秀次と親しい大名たちも処罰。疑心暗鬼の秀吉に徹底的に干されるわけね。
家康台頭の流れ、優勢のはずの西軍が関ヶ原であっという間に負けた理由も、この秀次自刃に因がありそうですな。
奥の院には空海さんの御廟があります。弘法大師様は亡くなっていない。それが証拠に、毎朝、食事を奉っているのだとか。その場所まで見学できますよ。
それにしても、奥の院はめちゃいい氣が流れてますな。檜と杉の大木。流水。神宮とどことなく似てますな。
企業墓もたくさん。日産自動車とかキリンビールとかね。UCC上島珈琲はコーヒーカップの形。けどさ、M&Aならまだいいけど、倒産したらどうなんだろ。無縁仏になるわけ? ま、企業墓を作るような会社はそんな目には遭わんでしょうな。
キーマンネットワークや原理原則研究会でいつもお世話になってる石川洋先生。先生の心の母ともいうべき大石順教尼さんのお墓もここにあります。堀江六人斬り事件で両腕を亡くし、日本人としてはじめて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれた方ですな。
それにしても不思議ですなあ。順教尼は京都山科勧修寺(かじゅうじ)・仏光院の住職でした。で、ここで亡くなるわけですけど、実は2日前たまたまここに行ってるんですよね。合掌。
奥の院。ここから先は撮影禁止。
弘法大師といえばお遍路さん。同行二人とは弘法さんと一緒だからですね。高野山には四国88カ所の霊場巡りをしてきたお遍路さんもたくさん登ってきます。関西では小学生の林間学校でもおなじみですな。
それにしても心が落ち着きますな。時間が止まりますな。喧噪とは無縁。緊張とも無縁。
しかしまあ、足が棒になりますな。レンタサイクルで回れば良かった。今度はそうしようっと。
さびしからずや 道を説く君(与謝野晶子)
父母の しきりに戀し 雉子の声(松尾芭蕉)
古の歌人・俳人はこんな風に詠んでいたようですな。人を引きつけてやまない魅力があるんでしょうな、ここには。
というわけで、久方ぶりに高野山に登りました。ホント、久しぶり。
朝も早よからお山に登る。といっても、歩いて登るわけではありません。南海電車で極楽橋まで行き、そこからケーブルカーで高野山駅。で、バスで終点の「奥の院」まで一気に行ってしまいました。
昔は電車もバスもありません。にもかかわらず、この聖地を目指して天皇も上皇もやってきたのですから凄いものです。いや、歩けませんよ。電車の窓から下を見ればほとんど崖ですからね。切り立った峰とは高野山のことを指しますな。
ところが、ケーブルカーで高野山駅まで登ると、平地に早変わり。そこには真言宗の大本山金剛峯寺があります。夏でも涼しい。冬は・・・まあ、たいへんなところです。
金剛峯寺とは高野山真言宗のいろいろなお寺さんの総称と考えたほうがいいようですな。広い広い。果てしなく広い。庭がいくつもありますが、きれいですな。
あらゆるところに竜神さんがおわしますな。
防火用の貯水漕が屋根にあるの。よく考えられてますよ。
讃岐の霊石。京都白川の白砂。
1つの釜で98キロの米が炊けます。3個で2000人分の米が炊ける。
後に統合された1つ。青巌寺にはいろんな部屋があんの。たとえば金箔が敷き詰められたゴージャスなのもあります。すべて拝観できるんです。ただ、ふすまに描かれた絵を撮影したり模写したリすることは禁止(外人さんは懸命に撮ってたけど)。
ここには柳の間というのがあんだけど、えっ、わざわざここまできて自刃したの? びっくりですな。
だれがって、秀次ですよ。日本史を思い出してください。子供がいない秀吉の後継者。関白まで賜り、秀吉に代わって聚楽第で政務を執っていたほどの人物です。
けどね。1593年、秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれると運命が変わります。
次第に秀吉から疎まれるようになる。で、お決まりの謀反の疑いをかけられちゃう。秀次は即、伏見に弁明に出かけるんだけど、秀吉は完全にシカト。で、1595年7月8日、秀吉の命令で高野山に追放されます。出家したんだけど、1週間後に切腹を命じられちゃう。享年28歳。
首は京都三条河原にさらされ、一族郎党皆殺しにあうわけ。秀次と親しい大名たちも処罰。疑心暗鬼の秀吉に徹底的に干されるわけね。
家康台頭の流れ、優勢のはずの西軍が関ヶ原であっという間に負けた理由も、この秀次自刃に因がありそうですな。
奥の院には空海さんの御廟があります。弘法大師様は亡くなっていない。それが証拠に、毎朝、食事を奉っているのだとか。その場所まで見学できますよ。
それにしても、奥の院はめちゃいい氣が流れてますな。檜と杉の大木。流水。神宮とどことなく似てますな。
企業墓もたくさん。日産自動車とかキリンビールとかね。UCC上島珈琲はコーヒーカップの形。けどさ、M&Aならまだいいけど、倒産したらどうなんだろ。無縁仏になるわけ? ま、企業墓を作るような会社はそんな目には遭わんでしょうな。
キーマンネットワークや原理原則研究会でいつもお世話になってる石川洋先生。先生の心の母ともいうべき大石順教尼さんのお墓もここにあります。堀江六人斬り事件で両腕を亡くし、日本人としてはじめて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれた方ですな。
それにしても不思議ですなあ。順教尼は京都山科勧修寺(かじゅうじ)・仏光院の住職でした。で、ここで亡くなるわけですけど、実は2日前たまたまここに行ってるんですよね。合掌。
奥の院。ここから先は撮影禁止。
弘法大師といえばお遍路さん。同行二人とは弘法さんと一緒だからですね。高野山には四国88カ所の霊場巡りをしてきたお遍路さんもたくさん登ってきます。関西では小学生の林間学校でもおなじみですな。
それにしても心が落ち着きますな。時間が止まりますな。喧噪とは無縁。緊張とも無縁。
しかしまあ、足が棒になりますな。レンタサイクルで回れば良かった。今度はそうしようっと。