2009年05月11日「ま、いっか。」 浅田次郎著 集英社 1470円
伊勢佐木モールにある有隣堂本店で見つけちゃった。ここ、漫画本が豊富なんでしょっちゅう来てんのよ。
あと、近くに天ぷらの美味い「登良屋」があるからね。ここの刺身だけは生魚大嫌いの私でも食べられるんだよね。
あれ、これ、読んだよな? 読んでない? 読んだと思うんだけど。奥付をチェック。09年2月26日初版。じゃ、読んでるな。いや、読んでないかも。ま、いっか。ダブったら売ればいいんだし。つうことで購入。
読んでませんでした。『MAQUIA』つう雑誌の連載分+単行本未発表エッセーでした。
しかし、「ま、いっか」という言葉。どこかで読んだんだけどなあ・・・と考えてたら、テレビに『失楽園』の渡辺淳一さん。あっ、この人のエッセーか(週刊誌の連載よ)。一件落着。
考え出すと眠れなくなるから、ホント、助かりました。
さてと、これ、平均3〜5ページのお話が順繰りに延々と続くんです。ま、一応、編集してんのよ。男の本音、ふるさとと旅、ことばについて、星と口笛という具合にね。全体で61話。で、ことばについて、はたった6話。
もちろん、どこをとっても面白い。
「男の正装には十一のポケットがあることをご存じであろうか。知らぬ女性にはまずこれが驚きであろう」
男の人は持ち物が少なくていいですね、と何度か言われたことへの反論。
たしかに男は持ち物が少ない。新聞しか持たずに出勤してるビジネスマンは少なくないもんね。けど、意外とポケットには入ってるのよ。私ゃポケットになにも入れたくないから鞄を提げてるほど。
「ポッケが11個ある」というのは、さすがにアパレル業界30年の著者だけのことはあります。こんなこと、たいていの人は知りません。とくに男の背広を脱ぎ着させたことのない女性にはわからんだろうね。
「毎年のならいで十月の第一週はパリで過ごす。」
著者は名だたる競馬狂。凱旋門賞があるからね。でも、元々、婦人服業界に長くいたから、パリコレともまんざら縁がないわけではない、とのこと。
で、初めて凱旋門賞に行ったとき、寄り集まる人々、とくに女性の優雅さに舌を巻いた。レースの記憶がなくなるほど、マダムばかりを見ていた。
そんなに「いい女」がいたのか? いたわけ。
日本人のミセス・ファッションのテーマは「いかに若く見せるか」。これが永遠不朽のテーマ。販売の現場もこれに徹してるわけ。根底にあるのは、アメリカ的発想。すなわち、「若さは美しく、老いは醜い」ということ。
ところが、ロンシャンの芝生で見事に宗旨替えしちゃう。まず周囲を見渡しても年齢にふさわしからぬ若作りの女性がいない。若く見せようと頑張らず、それぞれの年齢を誇っている。
「女性の魅力は二十歳よりも三十歳が断然。三十歳よりも四十歳、さらに五十代のマダムを見ればそれ以下の女性には眼が向かない・・・これほど魅力的だった。」
年齢を引き合いに出すこと自体がナンセンスで、そもそも彼女たちは年齢なんてまったく意識せず、今、このときにもっとも美しく映える姿を演出してるわけ。
「多くの女性にとってはまことに意外な話であろうが、世の男どもは女性の年齢を実はほとんど意識していない。鑑賞する美の対象としても、恋愛の相手としても、である。」
「大人の男は大人の女にしか魅力を感じぬのである。そう考えると、いかに若く見せるかというテーマは誤りであろうと思う。」
男と女の視点はこうも違うのかと思うね。
もちろん、女性の名誉のために断っておけば、男の目を気にして生きているわけではない。けど、まったく意識せずに若作りに精を出してるわけでもなかろう。
ところが、錯覚というか誤解があんだねえ。以前書いたけど、なまじスタイルがいい女性ほど、三十代、なかには四十代になってもミニスカートにしちゃう。条件反射なんだね。
これ、男の目からすると、「頑張ってるなあ」「昔、褒められたんだろうな」と感じちゃうわけ。そんな女性とたまたま出会っちゃうと、「やっぱひと言褒めといたほうがええんかな?」「でも、これセクハラ?」「どっちにすべえ?」と迷っちゃうのよね。
前にも言ったけど、女性の脚がいちばん綺麗に見えるのは膝丈と決まってるのよ。
ま、こんな話があと60もあるわけ。だけどね、自分の小説に関する楽屋話が実に面白い。こういう種明かしはなんか得しちゃった感があんだよなあ。
「ただのいっぺんもあらしまへん。わては何べん生まれ変わろうと、おなごがよろしおす。」
『輪違屋糸里』の主人公、糸里は十六歳の娘。幼い頃に女衒に買われて島原にやってきた。唄、舞、琴、三味線や、その他ありとあらゆる教養を詰め込まれて育つ。島原の太夫たるもの、姿かたちの美しさだけでなく、大名公家までも得心させる文化人でなければならなかったからですね。
幕末の京都島原を舞台に、時代の傍観者であり犠牲者であるはずの女たちが、愚かな男どもを凝視し続けて、しまいには歴史そのものを造り出してしまう・・・というテーマを抱いていたが筆が進まない。
「女心をつゆとも理解しない典型的日本人オヤジが女性の視点のみで長編小説をものにしようというのだから、その難しさは同じ新撰組を素材とした『壬生義士伝』の比ではなかった。」
連載開始も迫ったある日、糸里が育った島原の置屋「輪違屋」を取材した。かつて太夫が起居したという二階座敷の鴨居に古い扁額がかかっていた。
そこには・・・「花實雙美」とあった。
「花も実もふたつとも美し。この言葉を読んだとたん小説ができ上がった」
「ただのいっぺんもあらしまへん。」とは、「おまえ、男を羨んだことはないのか。」という愚かな男の問いかけに対する糸里の答え。
「その声を聞いたとたん、私は糸里に恋をした。」
こういう文章に出会えるから読書は止められんわな。300円高。
あと、近くに天ぷらの美味い「登良屋」があるからね。ここの刺身だけは生魚大嫌いの私でも食べられるんだよね。
あれ、これ、読んだよな? 読んでない? 読んだと思うんだけど。奥付をチェック。09年2月26日初版。じゃ、読んでるな。いや、読んでないかも。ま、いっか。ダブったら売ればいいんだし。つうことで購入。
読んでませんでした。『MAQUIA』つう雑誌の連載分+単行本未発表エッセーでした。
しかし、「ま、いっか」という言葉。どこかで読んだんだけどなあ・・・と考えてたら、テレビに『失楽園』の渡辺淳一さん。あっ、この人のエッセーか(週刊誌の連載よ)。一件落着。
考え出すと眠れなくなるから、ホント、助かりました。
さてと、これ、平均3〜5ページのお話が順繰りに延々と続くんです。ま、一応、編集してんのよ。男の本音、ふるさとと旅、ことばについて、星と口笛という具合にね。全体で61話。で、ことばについて、はたった6話。
もちろん、どこをとっても面白い。
「男の正装には十一のポケットがあることをご存じであろうか。知らぬ女性にはまずこれが驚きであろう」
男の人は持ち物が少なくていいですね、と何度か言われたことへの反論。
たしかに男は持ち物が少ない。新聞しか持たずに出勤してるビジネスマンは少なくないもんね。けど、意外とポケットには入ってるのよ。私ゃポケットになにも入れたくないから鞄を提げてるほど。
「ポッケが11個ある」というのは、さすがにアパレル業界30年の著者だけのことはあります。こんなこと、たいていの人は知りません。とくに男の背広を脱ぎ着させたことのない女性にはわからんだろうね。
「毎年のならいで十月の第一週はパリで過ごす。」
著者は名だたる競馬狂。凱旋門賞があるからね。でも、元々、婦人服業界に長くいたから、パリコレともまんざら縁がないわけではない、とのこと。
で、初めて凱旋門賞に行ったとき、寄り集まる人々、とくに女性の優雅さに舌を巻いた。レースの記憶がなくなるほど、マダムばかりを見ていた。
そんなに「いい女」がいたのか? いたわけ。
日本人のミセス・ファッションのテーマは「いかに若く見せるか」。これが永遠不朽のテーマ。販売の現場もこれに徹してるわけ。根底にあるのは、アメリカ的発想。すなわち、「若さは美しく、老いは醜い」ということ。
ところが、ロンシャンの芝生で見事に宗旨替えしちゃう。まず周囲を見渡しても年齢にふさわしからぬ若作りの女性がいない。若く見せようと頑張らず、それぞれの年齢を誇っている。
「女性の魅力は二十歳よりも三十歳が断然。三十歳よりも四十歳、さらに五十代のマダムを見ればそれ以下の女性には眼が向かない・・・これほど魅力的だった。」
年齢を引き合いに出すこと自体がナンセンスで、そもそも彼女たちは年齢なんてまったく意識せず、今、このときにもっとも美しく映える姿を演出してるわけ。
「多くの女性にとってはまことに意外な話であろうが、世の男どもは女性の年齢を実はほとんど意識していない。鑑賞する美の対象としても、恋愛の相手としても、である。」
「大人の男は大人の女にしか魅力を感じぬのである。そう考えると、いかに若く見せるかというテーマは誤りであろうと思う。」
男と女の視点はこうも違うのかと思うね。
もちろん、女性の名誉のために断っておけば、男の目を気にして生きているわけではない。けど、まったく意識せずに若作りに精を出してるわけでもなかろう。
ところが、錯覚というか誤解があんだねえ。以前書いたけど、なまじスタイルがいい女性ほど、三十代、なかには四十代になってもミニスカートにしちゃう。条件反射なんだね。
これ、男の目からすると、「頑張ってるなあ」「昔、褒められたんだろうな」と感じちゃうわけ。そんな女性とたまたま出会っちゃうと、「やっぱひと言褒めといたほうがええんかな?」「でも、これセクハラ?」「どっちにすべえ?」と迷っちゃうのよね。
前にも言ったけど、女性の脚がいちばん綺麗に見えるのは膝丈と決まってるのよ。
ま、こんな話があと60もあるわけ。だけどね、自分の小説に関する楽屋話が実に面白い。こういう種明かしはなんか得しちゃった感があんだよなあ。
「ただのいっぺんもあらしまへん。わては何べん生まれ変わろうと、おなごがよろしおす。」
『輪違屋糸里』の主人公、糸里は十六歳の娘。幼い頃に女衒に買われて島原にやってきた。唄、舞、琴、三味線や、その他ありとあらゆる教養を詰め込まれて育つ。島原の太夫たるもの、姿かたちの美しさだけでなく、大名公家までも得心させる文化人でなければならなかったからですね。
幕末の京都島原を舞台に、時代の傍観者であり犠牲者であるはずの女たちが、愚かな男どもを凝視し続けて、しまいには歴史そのものを造り出してしまう・・・というテーマを抱いていたが筆が進まない。
「女心をつゆとも理解しない典型的日本人オヤジが女性の視点のみで長編小説をものにしようというのだから、その難しさは同じ新撰組を素材とした『壬生義士伝』の比ではなかった。」
連載開始も迫ったある日、糸里が育った島原の置屋「輪違屋」を取材した。かつて太夫が起居したという二階座敷の鴨居に古い扁額がかかっていた。
そこには・・・「花實雙美」とあった。
「花も実もふたつとも美し。この言葉を読んだとたん小説ができ上がった」
「ただのいっぺんもあらしまへん。」とは、「おまえ、男を羨んだことはないのか。」という愚かな男の問いかけに対する糸里の答え。
「その声を聞いたとたん、私は糸里に恋をした。」
こういう文章に出会えるから読書は止められんわな。300円高。