2009年06月22日「松下幸之助は生きている」 岩谷英昭著 新潮社 714円
著者は米国松下電器の会長だった人。幸之助さんから直々に薫陶を受けたわけではありませんけど、中村会長や松下寿電子の稲井隆義さんのエピソードは勉強になる、と思いますよ。
せっかくですから、本書には書かれていない内容も含めて、思うままにつらつらとまとめてみましょうか(私の場合、いつも紹介する本はとっかかりにすぎなくて、結局、自分の話のオンパレードでごめんなさいね)。
幸之助さんがはじめて外国に旅立ったのは1951年1月なのよね。つまり、終戦の5〜6年後くらい。
この時代がいったいどうだったかと言えば、敗戦後、混乱してた日本もようやく落ち着きを見せ始めていて、「明日は今日より良くなってる・・・」と少なくとも感じられる時代だったと思います。「三丁目の夕日」はもう少し後だけどね。
1949年がドッジ・ライン。ようやく立ち直りかけてたけど、猛烈なインフレが日本を襲い、その対処方法が手ぬるいとアメリカさんが怒って、ドッジという人が超・緊縮財政ほ強いたわけ。おかげで設備投資をしようとしてた会社も中止。
金がないから金利が上がる。物価はそりゃ下がりますよ。けど、不景気になったら誰も買わなくなりますよ。ということは、在庫が大幅に余り出す。企業の売上は激減。資金繰りにも困る。
となれば、いまの派遣切りにも匹敵する首切りがありますわな。
そういえば、あのトヨタの労働争議が発生したのもこの年でしたな。なにしろ7000台ものトラックが在庫の山。いまの7000台ではありませんからね。結局、トヨタの自動車事業の産みの親である豊田喜一郎社長の辞任と引き替えにして、ようやく争議が片付くというわけ。
で、1950年の朝鮮戦争の特別需要で日本経済はなんとか息を吹き返します。その翌年に渡米したというわけですな。
当時のビデオを拝見しますとね(私、持ってますから)、5分刈りですよ、幸之助さんの頭。でも、3か月後に帰日すると、ポマードを使って整髪してましたからね。少し垢抜けたんとちゃいますか。
私、この時の幸之助さんの心境を考えますと、髪の毛を伸ばそう。ポマードつけようと考えたのも、1つの演出のように思えてなりませんな。これ、メッセージですな。
すなわち、「チェンジ!」というメッセージですよ。日本も変わらなくちゃいかん。松下も変わらなくちゃいかん。そういうメッセージですよ、きっと。「一目見て従業員が驚いていた」と著者も述べてますもんね。たぶん、いや、きっと、幸之助さん流のメッセージですよ。
そうさせた原因は「感動」でしょうな。ハワイ、ロス、そしてニューヨーク。車を見て、デパートを歩いて、ファッションを見て、摩天楼を見て、街並みを見て、高速道路を見て、「!!!」と感じたはずですよ。
なにより、このとき、幸之助さんが見ていたものは「10年後の松下電器の姿」だと思います。
当時、米国の女性工員は月給230ドルでしたからね。当時のレートなら8万円ちょい。だけど、これ、日本では社長クラスですな。あまりぴんと来ないと思うけど、いまで言えば、大卒初任給が新興国では社長の年収と同じくらい、という感覚ですな。
日本国民の年収をあげれば、自分たちがつくる電気製品も売れるはず、と考えていたでしょうが、生産に次ぐ生産で国を豊かにし、国民生活を豊かにするしか日本の再建はないと考えていたでしょうな。
さて、著者は米国一本槍のようですが、その関係もあって、とくに松下寿電子工業(現パナソニック四国エレクトロニクス)とは取引が多く、結果として、寿の経営幹部とのコミュニケーションが多かったようです。
本書に登場する、寿の稲井さんという社長は私もお会いしたことがあります。仕事の関係で、若造の時からパナソニックの役員クラスと会う機会が少なくなかったんですね。この方は幸之助さんの車の運転手をしながら「耳学問」で経営のイロハを覚え、戦時中には、松下造船の経営を任されるほどの人材でした。
寿という会社はビデオのベータシステム、VHSシステムが競争していた時にも、独自システムを開発していたくらい、研究開発、製造技術には定評のある会社としてパナソニック内部では有名でしたね。
後に、稲井さんはパナソニックのテレビ部門の責任者になりますが、それはテレビのチャンネルに不具合が発生したとき、直ちに全品回収、部品交換。そして再出荷。この誠実さと素早さに幸之助さんが感心したからですね。
この寿で製造していたのがテレビデオ(1987年発売)。テレビとビデオが一体化した商品ですけれど、これが日本ではさっぱりでしたけど、米国ではバカ売れだったそうです。目標75万台をダブルスコアで達成したんですね。
「テレビとビデオの両方の機能がついているにもかかわらず、テレビ単体のコストと同じ」という点が成功のポイントでした。
「豆電球は部品も少なく分解できない。もし不良品が出れば修理不能。全品回収とはすべて損を意味するから、とにかく品質管理に心砕いた」
稲井さんはよくこんなことを言ってましたけど、では、そもそも、不良品を発生させないコツはどこにあるのか? それは設計にあるんです。
だれでも簡単に組み立てられれば不良品なんて出でませんわな。昨日まで農作業してたおばさんでもすぐにできる作業。こういう設計さえできれば、品質は管理できるんですね。稲井さんは仕事の達人ですね。
努力なんてしなくてもすんなりできる。いま盛んに言われてる「仕組み」で仕事をするということですよ。
ところで、ビデオデッキの方式ですけど、パナソニックはご存じのようにビクターが開発したVHS方式を選択します。
ソニーの盛田昭夫さんは京都の真々庵(パナソニックの迎賓館)に何度も来て幸之助さんをベータ陣営に誘っていました。たしかに、幸之助さん自身もベータに決めかけていたほどです。
けど、最後の最後、米国マーケットを調査した稲井さんの報告でVHS方式を決断するんですね。決め手はこれまたご存じのように、アメフトが完全に録画できる「長さ」です。長時間録画できるVHS方式を採用するわけです。
幸之助さんがどれほど米国市場を重視していたか。たとえば、このビデオデッキにしても、パナソニックブランドで売ればいいものを、そうはしませんでした。最初からRCAの販売網に乗せるためにいきなりOEM供給したんです。
ビデオデッキは「世紀の大発明」ともいうべき製品ですよ。にもかかわらず、名を捨てて実を取った。その判断理由は、とにかくベータよりも先にマーケットを押さえてしまうこと。ここに勝機がある。「時間」がポイントだ、と知っていたからですね。そのためには名誉なんていらない、と考えたんでしょうな。
1台1000ドル。飛ぶように売れた。結果、家庭用ビデオデッキはVHS方式が独占します。250円高。
せっかくですから、本書には書かれていない内容も含めて、思うままにつらつらとまとめてみましょうか(私の場合、いつも紹介する本はとっかかりにすぎなくて、結局、自分の話のオンパレードでごめんなさいね)。
幸之助さんがはじめて外国に旅立ったのは1951年1月なのよね。つまり、終戦の5〜6年後くらい。
この時代がいったいどうだったかと言えば、敗戦後、混乱してた日本もようやく落ち着きを見せ始めていて、「明日は今日より良くなってる・・・」と少なくとも感じられる時代だったと思います。「三丁目の夕日」はもう少し後だけどね。
1949年がドッジ・ライン。ようやく立ち直りかけてたけど、猛烈なインフレが日本を襲い、その対処方法が手ぬるいとアメリカさんが怒って、ドッジという人が超・緊縮財政ほ強いたわけ。おかげで設備投資をしようとしてた会社も中止。
金がないから金利が上がる。物価はそりゃ下がりますよ。けど、不景気になったら誰も買わなくなりますよ。ということは、在庫が大幅に余り出す。企業の売上は激減。資金繰りにも困る。
となれば、いまの派遣切りにも匹敵する首切りがありますわな。
そういえば、あのトヨタの労働争議が発生したのもこの年でしたな。なにしろ7000台ものトラックが在庫の山。いまの7000台ではありませんからね。結局、トヨタの自動車事業の産みの親である豊田喜一郎社長の辞任と引き替えにして、ようやく争議が片付くというわけ。
で、1950年の朝鮮戦争の特別需要で日本経済はなんとか息を吹き返します。その翌年に渡米したというわけですな。
当時のビデオを拝見しますとね(私、持ってますから)、5分刈りですよ、幸之助さんの頭。でも、3か月後に帰日すると、ポマードを使って整髪してましたからね。少し垢抜けたんとちゃいますか。
私、この時の幸之助さんの心境を考えますと、髪の毛を伸ばそう。ポマードつけようと考えたのも、1つの演出のように思えてなりませんな。これ、メッセージですな。
すなわち、「チェンジ!」というメッセージですよ。日本も変わらなくちゃいかん。松下も変わらなくちゃいかん。そういうメッセージですよ、きっと。「一目見て従業員が驚いていた」と著者も述べてますもんね。たぶん、いや、きっと、幸之助さん流のメッセージですよ。
そうさせた原因は「感動」でしょうな。ハワイ、ロス、そしてニューヨーク。車を見て、デパートを歩いて、ファッションを見て、摩天楼を見て、街並みを見て、高速道路を見て、「!!!」と感じたはずですよ。
なにより、このとき、幸之助さんが見ていたものは「10年後の松下電器の姿」だと思います。
当時、米国の女性工員は月給230ドルでしたからね。当時のレートなら8万円ちょい。だけど、これ、日本では社長クラスですな。あまりぴんと来ないと思うけど、いまで言えば、大卒初任給が新興国では社長の年収と同じくらい、という感覚ですな。
日本国民の年収をあげれば、自分たちがつくる電気製品も売れるはず、と考えていたでしょうが、生産に次ぐ生産で国を豊かにし、国民生活を豊かにするしか日本の再建はないと考えていたでしょうな。
さて、著者は米国一本槍のようですが、その関係もあって、とくに松下寿電子工業(現パナソニック四国エレクトロニクス)とは取引が多く、結果として、寿の経営幹部とのコミュニケーションが多かったようです。
本書に登場する、寿の稲井さんという社長は私もお会いしたことがあります。仕事の関係で、若造の時からパナソニックの役員クラスと会う機会が少なくなかったんですね。この方は幸之助さんの車の運転手をしながら「耳学問」で経営のイロハを覚え、戦時中には、松下造船の経営を任されるほどの人材でした。
寿という会社はビデオのベータシステム、VHSシステムが競争していた時にも、独自システムを開発していたくらい、研究開発、製造技術には定評のある会社としてパナソニック内部では有名でしたね。
後に、稲井さんはパナソニックのテレビ部門の責任者になりますが、それはテレビのチャンネルに不具合が発生したとき、直ちに全品回収、部品交換。そして再出荷。この誠実さと素早さに幸之助さんが感心したからですね。
この寿で製造していたのがテレビデオ(1987年発売)。テレビとビデオが一体化した商品ですけれど、これが日本ではさっぱりでしたけど、米国ではバカ売れだったそうです。目標75万台をダブルスコアで達成したんですね。
「テレビとビデオの両方の機能がついているにもかかわらず、テレビ単体のコストと同じ」という点が成功のポイントでした。
「豆電球は部品も少なく分解できない。もし不良品が出れば修理不能。全品回収とはすべて損を意味するから、とにかく品質管理に心砕いた」
稲井さんはよくこんなことを言ってましたけど、では、そもそも、不良品を発生させないコツはどこにあるのか? それは設計にあるんです。
だれでも簡単に組み立てられれば不良品なんて出でませんわな。昨日まで農作業してたおばさんでもすぐにできる作業。こういう設計さえできれば、品質は管理できるんですね。稲井さんは仕事の達人ですね。
努力なんてしなくてもすんなりできる。いま盛んに言われてる「仕組み」で仕事をするということですよ。
ところで、ビデオデッキの方式ですけど、パナソニックはご存じのようにビクターが開発したVHS方式を選択します。
ソニーの盛田昭夫さんは京都の真々庵(パナソニックの迎賓館)に何度も来て幸之助さんをベータ陣営に誘っていました。たしかに、幸之助さん自身もベータに決めかけていたほどです。
けど、最後の最後、米国マーケットを調査した稲井さんの報告でVHS方式を決断するんですね。決め手はこれまたご存じのように、アメフトが完全に録画できる「長さ」です。長時間録画できるVHS方式を採用するわけです。
幸之助さんがどれほど米国市場を重視していたか。たとえば、このビデオデッキにしても、パナソニックブランドで売ればいいものを、そうはしませんでした。最初からRCAの販売網に乗せるためにいきなりOEM供給したんです。
ビデオデッキは「世紀の大発明」ともいうべき製品ですよ。にもかかわらず、名を捨てて実を取った。その判断理由は、とにかくベータよりも先にマーケットを押さえてしまうこと。ここに勝機がある。「時間」がポイントだ、と知っていたからですね。そのためには名誉なんていらない、と考えたんでしょうな。
1台1000ドル。飛ぶように売れた。結果、家庭用ビデオデッキはVHS方式が独占します。250円高。