2003年10月06日「先着順採用、会議自由参加で世界一の小企業をつくった」「大阪あほ学」「横濱物語」

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」


1 「先着順採用、会議自由参加で世界一の小企業をつくった」
 松浦元男著 講談社 1500円

 前回、本欄で紹介した岡野工業の岡野雅行さんと著者は、品川の産業会館で会ったことがあるそうです。 
 その時、岡野さんはポケットから小さなものを取り出してチリチリチリッと鳴らすや、「この鈴をあげるよ」と著者だけではなく、周囲の一人一人にくれたそうです。
 響きがとてもいい。ところが、周囲の人がまったく無頓着。
 「どうして、鈴をくれるんだろう?」
 著者は自問自答したそうです。いたずらっぽい顔をしている岡野さんの顔を見ながら、もう一度、音を聞く・・・。
 「ノイズがない!」
 なぜか?
 一枚板でプレスして作ったからですね。溶接やハンダづけがないから、音が澄んでいるわけです。この音の秘密が何なのか、ここに気づかない感性では開発なんて無理なんです。

 さて、著者は豊橋の樹研工業の創業者ですが、この会社を有名にしたのは、世界最小の百万分の一グラムのプラスティック歯車を完成させたことでしょう。

 どうも、十万分の一グラム、直径0.245ミリを発表した時から取り巻く環境が変わったようですね。一万分の一グラムの時には、話題を提供しただけで具体的なビジネスにはまったくつながらなかった。
 「極限ではない。よくやってるけど、まだアマチュア」という気持ちだったんでしょう。
 この時、「おかしい。どうして、みんな、もっと注目しないんだ」と腐ったら何にもなりません。
 「よし、わかった。今度は十万分の一だ」と気持ちを入れ直したから、いまがあるんですね。
 ユニークなのは、社長自身は、「百万分の五グラムを作ろう」と言ったら、「それでは極限ではない。作るなら、百万分の一をやろう」と部下に一蹴されたところ。
 ただでさえ高いハードルをさらに自分で高める。こんなことはなかなかできません。
 しかも、それを成し遂げるために、朝四時には工場に来て仕事してたというんですから、半端ではありません。
 やはり、熱意、執念は不可能を可能に変えますよ。

 「こんなすごいものを作ろうというアイデアはどこから生まれるか?」
 これが社長のアイデアではないのです。
 ローランドという楽器会社が静岡にあります。梯(かけはし)さんという社長がいます。
 実はわたしも数年前に会ったことがあります。ものすごい音楽施設をもってるんですね。電子楽器のメーカーですよ。
 著者が梯さんと話していると、たまたま腕時計に使う歯車を持っていた。直径二ミリ。千分の二グラムくらい。
 当時としてはもっとも小さいメカ部品。
 「これ、見せてやりたい人間かいるんで、少しつき合ってください」と言われて行ったのが、研究所。会ったのが研究所長の菊本さん。じっと見て一言。
 「こんなので小さいなんて満足していたらダメですよ。血管の中にでも入って仕事ができるくらいのものを作ってはどうですか?」
 これで一念発起。注文というのは、人を育てますね。

 「刃物で加工できる世界最小のパーツ」を合い言葉に、二十数年、国内トップメーカーとして成長してきたわけです。
 年商三十億円の世界一の小企業になりました。

 ところで、友人の中国人とこの二十五年間について話し合っていると、お互いにこの間、経常利益で四十五億円あげていたことがわかりました。
 彼の場合、香港法人ですから法人税は二十五パーセント。そこで個人財産として二十億円。最終残金十四億円で中国に二十三の工場、社員は五千六百人、大企業の経営者であると同時にお金持ちになっていた。
 自分はどうか?
 税金、社会保険などで六十パーセント。配当もせず、役員賞与もとらず、企業の自己資本比率を高めるために内部留保を繰り返してきた。自己資本比率は四十二パーセント。しかし、個人の財産はほとんど無い。
 彼は真剣に見つめて言います。
 「松浦さん、あなた、中国人になりなさい。あなたなら立派な中国人になれます。日本人、もうやめませんか。国民の働いた成果から、そんなに重税を課す政府に、とう゛して、そんなに忠誠を尽くすんですか? 中国人になりなさい、、。中国政府にはわたしから話してあげます。もう日本人、やめなさいよ」
 たしかに、そうかもしれません。

 契約書は作らない。すべて口約束。採用も先着順。履歴書をもってくる人間もいるけれども、結局、見ない。
 中卒、高卒、高校中退、日本人、韓国人、中国人、男、女、いろいろいろけれども、共通するのは、初任給は年齢給。後は本人の努力次第ということです。
 タイトルになってる先着順うんぬんという話題よりも、開発者のベースに流れている魂のようなものをつかみとるべきでしょう。
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2 「大阪あほ学」
 読売新聞大阪本社篇 講談社 780円

 大阪文化とほかの文化の違い。とくに東京都の対比が面白いまとめられた一冊でんな。
 大阪の好きなところ? 
 気取りがないところ、美味いモン屋が多いところ、あとは・・・。
 東京の好きなところ?
 いちばん好きなのは、ほっといてくれるところかな。

 大阪での最高の誉め言葉。
 それは「おもろい」ということですね。子どもの頃からおもろいがいちばん。頭がいい、スポーツができるというのは、二の次、三の次。とにかく、おもろくなければ、人間じゃないという文化です。
 だから、各局のアナウンサーも大阪圏はのりが違います。
 いま、日テレで朝のズームインで解説委員みたいな仕事してる辛坊さんなんて、昔、読売テレビのアナだったんですからね。よく見てましたよ、わたし。京都に四年ほど住んでたんで、「関西はテレビ(番組)に金かけないなぁ」と感心してましたもの。だから、男性アナがなにかというと、番組の中に「その他大勢の芸能人」として登場するんです。で、それがまたおもろい。
 いまの女子アナどころの話ではありまへん。

 大阪人のアイデア豊富なことは有名です。
 たとえば、モーニングサービス。これは大阪難波の喫茶店「桟橋」が1956年、コーヒーにタバコのピースを二本サービスしたことから発展。トースト、ゆで卵へと多様化していったんですね。
 神戸のジュンク堂は「座り読み」コーナーを設けてたり、引っ越し業では運搬の際の消毒、衣類・食器の梱包なども、それぞれ松本引っ越しセンター、サカイ引越センター、アートコーポレーションのサービスですものね。

 立ち飲み屋となると、東京では焼き鳥、大阪では串カツからたこ焼き、イカ焼き、お好み焼きと、まぁ豊富ですな。
 ところで、これらに共通するのが「ソース」です。
 コロッケ食べる時、どうします?
 ソース、それとも醤油?
 子どもの頃はソースなんて知らないから、醤油だけ。それが小学生高学年になる頃にはソースになり、三十代後半からはまた醤油です。コロッケに醤油を付けて、ご飯を食べる。これがいちばん。

 あと、落語ですな。
 わたし、実は落語大好きで、ほとんど毎週に近いくらいの頻度で通ってます。たとえば、今週はにぎわい座に歌丸さん(五回通しの「真景重ねが淵」の最終回)、来週からは柳家喬太郎さんの「落語作家への道」が始まるし、月末はまたまた歌丸さんの独演会が横浜三吉演芸場であります。

 元々、落語というのは東西ともに徳川五代将軍綱吉の時代にスタートしています。
 江戸は鹿野武左衛門が諸家に招かれて話す「座敷噺」、京都は露の五郎兵衛が軽妙に語る「軽口噺」、そして大阪は米沢彦八が屋外で話す「仕方噺」。
 大阪落語の場合は、講談と同じように台がつきます。そこに拍子木みたいなタンタン音を鳴らして噺をするんです。
 なぜか?
 屋外ですから、にぎやかにやらないと客が入らない。タンタン大きな音を出して客を吸い寄せる。客が入ってきたら、巧いのに代わる。こういう知恵がありました。客が集まるまでは何をしても、どんなことをしても、笑わせてつなぎ止めないといけない。ハングリースポーツです。
 一方、江戸の場合は木戸銭を前もって払わせる。だから、一度、入った客はつまらなくても出て行かない。自然と、じっくり聞かせる噺ができるというわけです。
 笑福亭鶴光という人は東京の席亭にもよく出てます。落語協会に所属してるんですね。
 で、東京と大阪の客の違いをいろいろ話しています。
 「おもろないと、大阪の客は『やめ、やめ』と叫ぶけど、東京はシーンとして、冷たい視線を浴びせる。これ、たまりまへんで」
 たしかに・・・。
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3 「横濱物語」
 松葉好市著 ホーム社 1800円

 いわゆる、聞き書きです。けど、こういう書き方は好きです。文章のプロなら別にして、なまじ、本人が書くより聞いたままをまとめたほうが面白いことが少なくありません。
 アマチュアが書くとどうしても構えてしまうでしょ。すると、格好つけちゃうから、話題が出てこない。「あれは書いても面白くないし・・・」「あれはちょっとうろ覚えだし」と自己規制しちゃう。ひどいのは、まったく書けない人もいますからね。

 著者は昔、ワルで喧嘩ばかりしていたらしいです。で、いまは伊勢佐木町でスナックをやっている。そこには地元の大親分たちもやってくるとか・・・。みんな、おとなしく飲んでるとか。もう、六十七歳くらいの人ですからね、古き良き横浜をよく知ってるんです。何しろ、歌丸さんと小学、中学時代の同級生。美空ひばりさんは一級下。そんな年齢の人です。
 高校中退後、米軍の食堂に勤務。そのうち、「ナイト・アンド・デイ」というナイトクラブの支配人になります。

 横浜というところはナイトクラブが盛んで、銀座、赤坂で飲んでたお客がホステスにに「これから横浜に行くか?」と言えば、百人が百人とも付いてきた、と言います。「グランドパレス」「バンドホテル」なんかもね。それくらい、人気スポットでした。
 「ちゃぶ屋」で有名なのが横浜でしょ。わたしの仕事場のある本牧ですよ。昔、淡谷のり子という歌手が「別れのブルース」というヒット曲を出しましたが、これは元々「本牧ブルース」だったんです。
 「窓を開ければ港が見える メリケン波止場の灯が見える・・・腕に碇の入れ墨彫って やくざに強いマドロスの・・」と唄われたんです。
 実際、アメリカ兵は進駐軍といわれた時代から横浜を接収していました。本牧には有名な「オフィサーズ・クラブ」があり、バンドやダンス、ジャズに料理。楽しむ場所がそこかしこにありました。

 もっと前には、日本が開国すると、イギリス人が横浜に大挙して来ました。ですから、ゴルフ、テニス、野球、競馬はすべて横浜が発祥の地です。
 「ゴルフは六甲だろ?」
 あそこは9ホールしかありません。18ホールの本格的なホールは程ヶ谷(保土ヶ谷ではなく)カントリーが最初なんです。
 パンも内木パンが日本で最初。いま、元町にありますよ。競馬場なんか、本格的なのが中華街にあったんですからね。
 一言で言えば、異国情緒豊かでハイカラな街。それが横浜でした。

 戦後、そのもっともいい時代を満喫したのが著者の世代でしょうね。 
 だって、いまの横浜、しかも伊勢佐木町なんて、日本人の街じゃないもの。どんどん老舗が無くなり、ここはいったいどこの国になのかわからなくなってます。歌舞伎町をもっと猥雑にして貧乏たらしくした場所。
 それが伊勢佐木町じゃないかな。伊勢佐木町ってのは、日本でいちばん長い商店街なんですよ。その入り口には有隣堂という本屋があるんだけど、いまにどこかほかに移ると思う。隣にあった丸井はとっくの昔になくなり、 いまやパチンコ屋。そのパチンコ屋も閉まって、上のカレーミュージアムとスロット屋だけが開いてます。もう文化なんて何にもない地域になってしまたのかなぁ。

 でも、戦後すぐの時もどうやらそんなものだったらしいですよ。
 「米軍が接収した横浜港の岸壁から軍艦や駆逐艦、輸送船なんかが出たり入ったりするわけですよ。そこにはたくさんのアメリカ兵が乗っている。朝早くからパイラーって呼ばれる、いわゆる。日本人のポン引きたちが港に行って、マイクロバスで待ち受けていて、休暇で戻ってきた兵隊を次々とこの中華街に連れてくるわけです。それで店に送り込んではマージンをもらって、また港に米兵を拾いに行っては、別の店に連れて行く」
 いまよりずっととんでもない街だったんです。
 でも、それが活気を作っていたことも事実。「オンリー(専属愛人)」と言われる女たちもたくさん生まれました。
 けど、どうしていまの伊勢佐木町よりも猥雑さを感じないのか。
 やっぱり、曲がりなりにもアメリカという文化がそこにはあったからでしょうね。日本よりもずっと先進国で、食べるもの、遊ぶもの、着るものが何よりも洗練されていました。

 いまでも元町の代官坂をあがるとありますけど、「クリフサイド」というダンスホールがあります。ここは映画の舞台によく使われましたよ。
 そういえば、伊勢佐木町には先に述べたようにたくさんのナイトクラブがありました。銀座から芸能人が大挙して押しかけてきたんです。
 サム・テイラーが演奏したのは「ブルースカイ」というナイトクラブですよ。いま、脚本家になってるジェームス三木さんは「ナイト・アンド・デイ」の専属でした。もちろん、歌のです。芝居の台本書いてたわけではありません。
 バンドホテルにはダンススペースがありました。ここのホステスは店が雇っているのではありません。プロのホステスとして、ここで商売するんです。
 どんな商売かというと、お酒の相手、話し相手、ダンスの相手なんですね。
 いまの銀座のホステスさんのようにOLがバイトで出てるといったレベルではありません。容姿端麗の上に、ファッションも上から下までビシッと決めた社交のプロなんです。毎日、美容院に通う。服も同じものは着ない。当然、ホステスが付くと客はホステスにサービス料を払わないといけないんです。
 これはナイトクラブでも同じ。いわば、サービスのプロ。「はい、カラオケ、カラオケ。次は何の歌?」なんて座ってれば済む商売ではないんです。

 ついでに言うと、駐車場のボーイのプロです。店が雇っているのでありません。お客からキーを預かって駐車し、帰る時にはまたキーを預かって車を玄関まで持ってきてチップをもらう。そのチップで食べてるんです。
 けど、これがバカにならないほど大きな金額なんですね。家が建っちゃうんですから。

 いま、そのバンドホテルはドン・キホーテになってますからね、時代の流れなんでしょうな。
 わたしはダメになる最後の頃によく行ってました。
 お客はホールでハマ・ジル(横浜ジルバ)なんかを盛んに踊ってましたよ。歌はデニー白川さんとウィリー沖山さん。ウイリーさんは「笑っていいとも」でヨーデルのウイリーさんとして有名になっちゃったけどね。
 この人、山手にあるセント・ジョセフというアメリカンスクール出身なんですね。岡田真澄さんもそうです。
 わたしがいちばん最初にバンドホテルのクラブに行った時、トイレに行きたいんで入り口に立ってる恰幅のいい支配人みたいな人に、「トイレ、どこですか?」って聞いたんですが、その人が実はウイリーさんでした。とんだ失礼なこと、しちゃったな。自分のステージを前にして、どんな客が来てるかチェックしてたんですよね。
 デニーさんとは、彼が休憩の時にやってくるおにぎり屋でよく会いましたよ。そこで一緒になって、そのまま、バンドホテルに行っちゃう。いつも、得意の「モナリサ」「枯れ葉」なんかを唄ってくれました。なにしろ、和製ナット・キング・コールと言われた人ですからね。
 といっても、若い人は知らないだろうな。団塊の世代でも知らないかも。やっぱり、著者くらいの世代じゃないと、知らないかな。そういえば、バンドホテルの客の中でもわたしが飛びっきりの最年少でしたよ。昔なら入れてくれなかったでしょうね。

 伊勢佐木町といえば、「伊勢佐木町ブルース」ですね。商店街に歌碑があるんですよ。ボタンを押すと、歌が流れ出すの。元々、青江美奈さんはここのナイトクラブの専属でしたからね。でも、この歌はデニーさんが最初に唄ってたの。もちろん、歌詞も曲も違うけどね。

 関係ない話だけど、わたしがよく唄うのは「マンションの前で」という曲。これ、カラオケにはなかなかありません。今まで見たこと無い。
 この歌、作ったのがジョージ山下という人。よく、彼の店に行くから自然と口ずさんでしまうんだな。いい歌だけどね。
 カラオケにないのに、どうして唄えるか?
 カラじゃないからです。中華街に北京飯店がありますが、この横にジョージの城という店があります。ピアノ、サックス、ベース、クラリネット、ドラムス。ここで生で唄っちゃうのよ。

 伊勢佐木町だけではなく、ちょっと足をのばした思い出も語ってます。
 たとえば、「リキシャルーム」「イタリアンガーテン」「ゴールデンカップ」・・。これ、ぜんぶ、本牧です。リキシャルームはマンションに建て替えられ、その一階に入りました。そうなってから、一度も行ってないな。あとの店もオーナーが代わりました。
 なんと、横浜橋商店街の話までしてます。しかも、「ほていや」という小さな小さなコロッケ屋さんの話までしてます。ここ、よく行きます。
 著者はポテトフライ(じゃがいもの揚げたもの。当たり前か)を推薦してますが、わたしは断然、コロッケです。いつも十個買うんです。で、歩きながら全部食べちゃう。熱々が最高。ここのは繋ぎに肉なんて入れてないから、冷めると芋っぽくて(これも当たり前か)食べられません。
 
 読んでて、なぜか懐かしさを感じます。わたしなど、まったく経験したことがない世界の話でも、疑似体験させてもらえるからかな。
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