2010年01月29日「中島孝志の 聴く!通勤快読」全文掲載! 「不幸な国の幸福論」 加賀乙彦著 光文社 756円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

※今回は「聴く!通勤快読」をすべて掲載しちゃいましょう※

 リーマン・ショック破綻直後の新幹線での風景。後ろの席に座ったご婦人たちの声の大きいこと。

 「ご主人、部長になられたんですって? さすがねえ」
 「さすがどころか、やっとなのよ。○○さんはもう役員待遇なのに」
 「でも同期の中では2番目に早い出世だって聞いてるわよ。羨ましいわ。息子さんも○○大だし、お嬢さんもご結婚が決まったそうで」
 「主人の母校に行かせたかったのに落ちちゃって。義姉のところの子供たちが○○大出て外務省だから肩身が狭いのよ。娘の相手は専門学校しか出てないの。フリーだから不安定だし、ご実家も借家住まいで・・・」

 やがて話題はこれから向かう京都の有名料亭や老舗旅館に。

 「今回は露天風呂付きのお部屋がとれなくてがっかりねえ」
 「○○亭のまつたけ懐石を予約しておいたわ。去年の○○楼よりおいしいって評判のよ」

 京都駅で降りていく3人組は、それぞれ高級ブランドのバッグを持ち、やはりブランドものらしい服やアクセサリーで着飾っていた。

 世間一般から見れば勝ち組のおば様がた。恵まれた幸福な人たちと自認しているのでしょう・・・

※ここまでが会員以外の人も読めるページです。今回は全文披露させていただきます※

 が、むしろ気の毒な方々なんですね。

 どうやら幸福にはモデル=理想の型があって、それにあてはめなければいけないという強迫観念。そして、ずれたら幸福からも離れてしまう、という不安感。この2つにいつも苛まれているからですね。いわば、「幸福にならなくちゃ」という監獄の囚人なんですな。

 これ、心理学者のいうところの「快楽のトレッドミル」「満足度のトレッドミル」というメカニズムなんですね。満たされれば満たされるほどゴールラインはどんどん遠のいていく・・・これでは永遠に飢餓状態ですわな。

 考えてみれば、いまの時代、ちょいと旅行できるだけでも恵まれてるのにね。露天風呂付きでないと不幸を感じてしまう。贅沢といえば贅沢。けど、心的には貧困ですなあ。

 「このレストランは1年先まで予約がとれないんだよ」
 美味しいかどうか、サービスがいいかどうかではなく、「予約が取れない」ということにいちばん価値がある。そんな店がありますし、そんな店を評価するお客がやっぱりいるんですね。

 そこにあるのは自分の舌ではなく「評判」という他人の物差し。もっと突っ込んで言えば、ものを考えなくなった弊害のようなものがあります。

 けど、だれも彼女たちを笑うことはできません。自分はなにが好きなのか、なにを望んでいるのか、どんな人生をおくりたいのか・・・しかとわかっている人なんて少ないもんです。

 ここ数年、自殺者の数が年間3万人を超えています。これ、WHOの統計では101カ国中ワースト8位なんですね。日本より悪いのは旧ソ連などの不安定な国ばかり。しかも、実は10万人を軽く超えているだろう、というのが真相のようです。
 というのも、不慮の死(病院や医師に看取られなかったもの)はすべて変死扱いになるんですけど、WHOでは変死者の半数は自殺である、と判断してるんですね。で、ほかの国では統計にその数字を反映しています。ところが、日本はそうではないんです。

 だから、10万人なんです。ダントツの世界一。しかも自殺未遂者は既遂者の10倍はいるはずです。100万人。

 08年春。「英エコノミスト」がこの理由を分析しました。それによると、「恥の文化」が浸透する日本では、仕事や学業での失敗、失業、借金などによる貧窮を恥と考え、自分を追い詰めがちだ。社会全体も不寛容だから立ち直るのは困難。キリスト教者でないから自殺を罪悪と感じない。武士道では恥をさらすより死を崇高なものとしてする・・・とかなんか。

 「死にたい」と考えるのも無理ありませんよ。ギリギリのギリギリ。1本の糸にすがって生きている人は少なくないと思います。
 高齢者の殺人も激増してます。老老介護で疲れ果てた末の殺人、心中、自殺。障害を抱える子供を殺して後を追うパターン・・・。
 2006年は過去最高です。

 この年、小泉内閣は介護保険法を改正しました。改善ではなく改悪です。サービスを受けられなくなったご家庭が急増したんですね。02年に3000億円の社会保障費を削減し、翌年から毎年2200億円ずつカットし続けました。
 「後期高齢者医療制度」も閣議決定した張本人ですね。介護サービスの自己負担増、配偶者控除、老年者控除の廃止。
 診療報酬改定で、リハビリに日数制限が設けられました。「回復の見込みがないから」と治療を打ち切れば、リハビリでなんとか維持していた機能まで衰えるのは当然でしょう。リハビリは最悪、改善しなくたっていいんです。現状維持、後退、悪化を止められればそれでOKなんですね。だから、続けることに意義があるんです。

 ギリギリのギリギリとはそういうことです。けど、その1本の糸を切ってしまった。「聖域無き構造改革」「聖域無き財政再建」の現実がこれです。一方、米国型市場原理主義を導入して、株式配当、役員報酬を増やしてきました。

 その結果、どうなったか? いま、日本中のだれもが実感していることでしょう。
 
 中学生の2人に1人、高校生の3人に1人が、「自分はダメな人間だ」と考えています。不幸な国・・・なのかもしれません。

 さて、Nさんは20代半ば。ずっと、「私は不幸だ、不幸に生まれついたのだ」と思いこんでいました。小児麻痺のため全身の筋力が低下し、四肢もごくわずかしか動かない。特別支援学校を出てからもほとんど家に引きこもり。
 そんな彼女が恋をします。相手は往診に来る医師。もちろん、医師は恋愛の対象として見てはいません。患者ですからね。失恋し、彼女の絶望はさらに深まっていくわけです。両親を恨み、自分を恨み、世の中を恨む・・・。壁に頭を打ち付ける。興奮が冷めると自己嫌悪に落ち込んでいく・・・。その後、自殺未遂を繰り返しました。

 ボランティアの若者たちに誘われ、断り切れずに加わったのがインド旅行。もちろん、すべてサポートしてもらうわけですけどね。
 この旅行の予定表には「ハンセン病療養所訪問」が組み込まれていました。日本にはもうほとんどいない新規患者がインドではいまでも年間10数万人という単位で増えてんですね。
 指がかけ、顔が崩れた女性、知覚神経が麻痺し、熱さも痛みも感じない女性。失明し両足を切断した青年・・・。
 そんな人々を目の当たりにすると、握り拳のように変形した手でお絵かきをする少年の元に、彼女は車いすで駆け寄り、一緒に絵を描き始めたんです。
 絵を描き終えて顔を上げると、大勢の患者さんに囲まれていて、みな涙を流して喜び、拍手してくれたそうです。
 
 帰国した彼女に出会った著者は目を見張ります。いつも暗かったのに、心からの笑顔で今後の計画と夢を語り出したからです。
 彼女の置かれている状況はなに1つ変わっていません。これまで同様、誰かの手を借りなければなにもできません。外出すれば好奇の目でじろじろ見られる。ときには心ない言葉も浴びせられる。恋人ができたわけでもない。 

 1つ変わったのは、「わたしでも人を感動させたり、励ましたり、慰めたりすることができる。わたしはけっして不幸じゃない」と感じ始めたことなんですね。

 ハンセン病患者と比べたら不幸じゃない? いえいえ、だれかと比べて不幸じゃないと思った瞬間、だれかと比べて幸福じゃない・・・と簡単に変わるんです。相対的なものではなく、もっと絶対的なものなんですね。

 美智子様がとっても愛された神谷美恵子さんの本に、「連チャン」という青年の話があります。彼もまたハンセン病を病み、結核を病み、知的障害があり、ほんとうの年齢も名前も身元も不明。子供の頃にゴミ箱を漁っていたところを警察に保護されたんですね。
 12歳くらいだろうと、年齢と名前を与えられ、彼女が精神科医として勤務する愛生園に引き取られてきたわけです。

 この園には、重症の老人患者がいまして、5分間に3回の頻度で「溲瓶をもってきてくれ」と叫ぶので看護婦さんもほとほと手を焼いていたんです。
 ところが、この仕事を連チャンが買って出たんです。いかにも嬉しそうに、いかにも誇らしげに・・・運んでるのは溲瓶ですよ。けど、この仕事が生き甲斐になったんです。

 自分はなにかの役に立っている・・・。

 人は1人では生きてはいけません。山奥にこもって仙人のような生活をしても生きてはいけます。けど、生きるエネルギーというのは、人のお役に立っているという実感あればこそ生まれるんですね。

 ボクなんて家族のお荷物だよ、私なんかいないほうがみな喜ぶに決まってる・・・絶対にそんなことはありません。あなたの存在それだけでほんとうに喜んでいるんです。本人は気づいていないかもしれませんが、光そのものなんです。
 世話ばかり焼かせる、面倒ばかり起こす、トラブルばかり持ち込む・・・だから生きているんです。人間、生きていればだれかに迷惑をかけたりかけられたりするんです。

 いまは迷惑かけるけど、いつか迷惑かけられてもそのときは笑顔で引き受けるよ。それでいいじゃないですか。

 人の世は、どこまでいってももちつもたれつなんだと思いますよ。