2013年08月09日やられたらやり返す!10倍返しだ!!
カテゴリー中島孝志の不良オヤジ日記」
暑いですね。とっても暑いです。あの日はもっと暑かった、いや熱かったでしょうね。
長崎に投下された原爆は広島ウラン型原爆とは異なり、プルトニウム型原爆でした。2種類の原爆をわざわざアメリカはこしらえたのですから、科学者は凄いというか、政治家はあくどいというか・・・執念深さに寒くなります。
作家であり医師であった加賀乙彦さんはかつてこんなことを言ってました。
「学生時代、被爆者の脳研究をしたことがある。爆心地に近い場所にいた10歳男子の脳は、被爆直後はなんともなかったものの、9月になって突然喀血して亡くなった。脳細胞自体がすべて溶けていた」
そういう脳をたくさん見た、とのことです。
戦後、民主化の一環として、「新聞・出版の自由」「検閲禁止」という大義名分を掲げながらも、GHQは自分たちに都合が悪いことは、もちろん封印。1949年、原爆の事実公表は禁止されました。
「原爆は1発で20万人を殺せる世界一優秀な爆弾である」
「日本を敗戦に導いた2つの爆弾ほどアメリカの科学の勝利を示すものはない」
投下翌日、トルーマン大統領が世界に向けて発信した演説です。
オハイオ州デイトンに「エアフォース・ミュージアム(米空軍博物館)」がありますが、長崎に原爆を落としたB29が展示されています。コインを入れると映像が映ります。引率教師の「解説」というか洗脳が終わると、子供たちは一斉に拍手。
「原爆のおかげで戦争が終わったんだ。アメリカはいいことをしたんだ」と自尊心いっぱいで帰ったことでしょう。そういえば、先日、除幕式があった「韓国の従軍慰安婦像」もこの類のものにしたいのでしょう。
さてアメリカは原爆の威力には自信があったものの、放射能汚染の防護についてはまったく知識がありませんでした。
そこで、彼らは広島、長崎の被曝データを掻き集めたわけです。爆心地で日本人医学者がそれこそ命がけで収集したデータはすべてアメリカに持ち去られました。その後も日本には返還されずじまい。カルテまで奪われました。
日本政府は何の文句もつけませんでした。わかります、その気持ち。
「敗けちゃったんだもの。しょうがないわな」
日本人はいつもそうです。
もう少しで日本も原爆を開発できたと思います。仁科研究室が空爆され、1945年5月に研究を中止せざるをえなかったのです。
もっと早く降伏すれば原爆投下はなかった。いや、原爆開発が早かったら徹底抗戦していたでしょう。残念ながらアメリカ本土に持ち込むことは困難だったでしょうけどね。
ソ連参戦が致命的でしたが、それはソ連軍に朝鮮の原爆工場を接収されてしまったからです。
戦後、なぜか海軍首脳は戦犯に問われませんでした。鈴木貫太郎首相も米内光政も海軍大将でした。原爆データをもっていた海軍は取引したのでしょうか・・・。
広島と長崎の放射性物質による汚染は除染されたからではなく、原爆の1000倍もの放射能を出す水爆実験を米英中ソ仏が実施した結果です。
長崎でも放射性バリウムや放射性ストロンチウムなどの「死の灰」がたくさんありました。
9月2〜3日の大豪雨が長崎地方を襲って水浸しにしました。雨量は稀有なほどの桁違い。
当時、豪雨のあと、往診に出た医師はいつもとちがって、大きく空気を吸い込み、さわやかですがすがしいと感じています。秋晴れのせいではありません。胃部のむかつきがなくなった。
「これは世界が違うぞ」
ガイガーカウンターなどありません。この後、長崎を枕崎台風が襲います。70年間、生物が生きられないはずの被爆地に再び生命が胎動しはじめます。
9月10日、調査団は不眠不休の結果を発表します。詳細なデータをあげて、原爆の放射能は人間の居住を妨げる程度のものではない、と発表しました。
東大の嵯峨根教授(原子物理)の調査報告もほぼ同じでした。
「放射能は深く吸収され、徐々に放出されるので危険性は少ない」
九州大学学術調査団は全員のうち25%が白血球数1000以下という驚くべき数字でしたが、4日以降は3%に激減しました。
大雨と台風が除染に貢献したのです。ようやく神風が吹いてくれたのかもしれません。
10倍返しだ!
さて「中島孝志の 聴く!通勤快読」でご紹介する本は『反・自由貿易論』(中野剛志著・新潮社)です。詳細はこちらからどうぞ。
長崎に投下された原爆は広島ウラン型原爆とは異なり、プルトニウム型原爆でした。2種類の原爆をわざわざアメリカはこしらえたのですから、科学者は凄いというか、政治家はあくどいというか・・・執念深さに寒くなります。
作家であり医師であった加賀乙彦さんはかつてこんなことを言ってました。
「学生時代、被爆者の脳研究をしたことがある。爆心地に近い場所にいた10歳男子の脳は、被爆直後はなんともなかったものの、9月になって突然喀血して亡くなった。脳細胞自体がすべて溶けていた」
そういう脳をたくさん見た、とのことです。
戦後、民主化の一環として、「新聞・出版の自由」「検閲禁止」という大義名分を掲げながらも、GHQは自分たちに都合が悪いことは、もちろん封印。1949年、原爆の事実公表は禁止されました。
「原爆は1発で20万人を殺せる世界一優秀な爆弾である」
「日本を敗戦に導いた2つの爆弾ほどアメリカの科学の勝利を示すものはない」
投下翌日、トルーマン大統領が世界に向けて発信した演説です。
オハイオ州デイトンに「エアフォース・ミュージアム(米空軍博物館)」がありますが、長崎に原爆を落としたB29が展示されています。コインを入れると映像が映ります。引率教師の「解説」というか洗脳が終わると、子供たちは一斉に拍手。
「原爆のおかげで戦争が終わったんだ。アメリカはいいことをしたんだ」と自尊心いっぱいで帰ったことでしょう。そういえば、先日、除幕式があった「韓国の従軍慰安婦像」もこの類のものにしたいのでしょう。
さてアメリカは原爆の威力には自信があったものの、放射能汚染の防護についてはまったく知識がありませんでした。
そこで、彼らは広島、長崎の被曝データを掻き集めたわけです。爆心地で日本人医学者がそれこそ命がけで収集したデータはすべてアメリカに持ち去られました。その後も日本には返還されずじまい。カルテまで奪われました。
日本政府は何の文句もつけませんでした。わかります、その気持ち。
「敗けちゃったんだもの。しょうがないわな」
日本人はいつもそうです。
もう少しで日本も原爆を開発できたと思います。仁科研究室が空爆され、1945年5月に研究を中止せざるをえなかったのです。
もっと早く降伏すれば原爆投下はなかった。いや、原爆開発が早かったら徹底抗戦していたでしょう。残念ながらアメリカ本土に持ち込むことは困難だったでしょうけどね。
ソ連参戦が致命的でしたが、それはソ連軍に朝鮮の原爆工場を接収されてしまったからです。
戦後、なぜか海軍首脳は戦犯に問われませんでした。鈴木貫太郎首相も米内光政も海軍大将でした。原爆データをもっていた海軍は取引したのでしょうか・・・。
広島と長崎の放射性物質による汚染は除染されたからではなく、原爆の1000倍もの放射能を出す水爆実験を米英中ソ仏が実施した結果です。
長崎でも放射性バリウムや放射性ストロンチウムなどの「死の灰」がたくさんありました。
9月2〜3日の大豪雨が長崎地方を襲って水浸しにしました。雨量は稀有なほどの桁違い。
当時、豪雨のあと、往診に出た医師はいつもとちがって、大きく空気を吸い込み、さわやかですがすがしいと感じています。秋晴れのせいではありません。胃部のむかつきがなくなった。
「これは世界が違うぞ」
ガイガーカウンターなどありません。この後、長崎を枕崎台風が襲います。70年間、生物が生きられないはずの被爆地に再び生命が胎動しはじめます。
9月10日、調査団は不眠不休の結果を発表します。詳細なデータをあげて、原爆の放射能は人間の居住を妨げる程度のものではない、と発表しました。
東大の嵯峨根教授(原子物理)の調査報告もほぼ同じでした。
「放射能は深く吸収され、徐々に放出されるので危険性は少ない」
九州大学学術調査団は全員のうち25%が白血球数1000以下という驚くべき数字でしたが、4日以降は3%に激減しました。
大雨と台風が除染に貢献したのです。ようやく神風が吹いてくれたのかもしれません。
10倍返しだ!
さて「中島孝志の 聴く!通勤快読」でご紹介する本は『反・自由貿易論』(中野剛志著・新潮社)です。詳細はこちらからどうぞ。