2014年06月18日通勤快読全公開!「わたしの十牛図」(三田誠広著・佼成出版社)
大切な話なんでオープンします。通勤快読リスナーの皆さんはいつも通り音声でお聴きください。テキストよりも音声のほうがもっとしゃべってますので。。。
「僕ってなに?」で芥川賞をとってから何十年も経ちますねえ・・・。
「十牛図」ってご存じでしょうか? まあ、ほとんどの人は知らない世界だと思いますね。
坊さんとか一部の変わり者しかご存じないでしょう。
これ、画集なんです。といっても、禅の教科書です。禅宗とくに臨済宗のお寺では大切にされてきているものです。
十の牛の絵。だから、十牛図というわけですね。
では、中身はいったいどんなものなのか。これがなかなかなんですよ。自己発見つうか、ディスカバー・マイセルフつうか、新しい自分との遭遇というか、私、自分探しの旅してるんです、という絵なわけ。
それが十の絵の世界にすべてシンボライズされているわけです。
最初の絵は、牛を探しに山奥に入っていきます。つまり、奥深い禅の真理を求めていくわけ。で、若者が山の中で出会うのはなにか? 決まってますよね。
本当の自分です。つまり、牛とは真実の自分のことなんです。
失われるはずもないもの。それゆえ探す必要もないはず。けど、心の惑いによって疎遠になり、世間の塵に目が曇って見失ってしまう。それが自分というものでしょ? ちがいますか?
帰るべきところは遠く、にわかに道に迷ってしまう。喪失の思いがつのり、旅に出ずにはいられない。で、牛を求めて旅に出る。おもしろいですねえ。やっぱり禅はおもしろい。
なぜおもしろいかというと、解釈が無限にできる。正解がない世界。そこが魅力的ですね。
なるほど、そう解釈しますか? でも、こうも解釈できませんか? 最初から答えのない世界で答えを出そうとする。どうせ「空」なんです。そこには因果律なんてものは超越してるんです。とことんいけばそこには理屈なんてありません。そういう世界です。
空というつかめないものをつかもうとする。「自分探しの旅」なんてものはそもそも幻なんですよね。「青い鳥」のチルチルミチルが探していたモノも幸福ではなく本当の自分たちの姿でしたよ。
本を読むというのも一種の旅だと思います。
さて、次の「見跡」では若者は牛の足跡を発見します。
「見牛」では岩のかげに牛の尻尾を見つけます。
「得牛」では牛をつかまえて綱をつけます。
「牧牛」では牛を連れて散歩をします。
「見跡」では(本当の自分)のかすかな痕跡を見つけます。「見牛」では(本当の自分)を確認します。「得牛」では(本当の自分)に触れるようになります。「牧牛」では(本当の自分)を意のままに操ることができるようになります。
「騎牛帰家」では、若者は牛の背に乗っている絵が出てきます。もはや牛は綱から解放されて十分に飼いならされている。
次の「亡牛存人」になると、人の姿だけがあって牛は消え失せています。そして8枚目の「人牛倶牛」になると、絵そのものがなくなってしまいます。禅らしいですよね。
絵の縁にあたる大きな円が描かれているだけ。円の内部は空白です。まさに(空)の原理です。
「返本還源」では花をつけた樹木が描かれるだけ。牛はもとより、人の姿もありません。ただ自然だけがある世界です
そして最後の「入塵垂手」では、老人と若者が向かい合って立ち話をしています。最初の若者が年老いて老人になった。そして別の若者に説いているというわけです。
「廓庵十牛図」は鎌倉時代に中国から伝えられて普及しました。禅宗というのは、中国の宗の時代に興った比較的新しい宗派ですよ。
釈迦が出現する以前のバラモン教でも瞑想に耽る修行がありました。実は禅の方が仏教そのものよりも古いんです。
「マイトレーヤ」と「カルナ」を合わせて「慈悲」といいます。経典の大部分は鳩摩羅什が書きました。般若経典群だけは玄奘三蔵の翻訳です。『般若心経』も玄奘訳があります。
東棟と西棟の僧たちが猫をめぐって争っている。そこで南泉和尚が猫をとりあげて弟子たちに問います。
「返答できねば猫を斬るぞ」
猫を斬った話を南泉和尚が趙州に伝えます。彼は、履いていたワラジを頭に載せて出ていこうとしました。
「おまえがいたら猫は死なずにすんだものを・・・」
猫が可愛いから奪い合っていたのではなく、そもそも猫には仏性があるかないか議論していたわけです。そしてそれは無意味だと諭したのです。
正解があると思って議論する。しかし議論そのものが無意味であることが往々にしてあります。議論屋とか議論好きほどこの罠に陥ります。
「集団的自衛権」「個別的自衛権」なんてまさにそういうものです。こんなものを議論すること自体ナンセンスなんです。戦後、経済成長にかまけて置いてきたものです。こんなものを議論しなければならない現実を政治家も国民も恥じなければいけません。
「僕ってなに?」で芥川賞をとってから何十年も経ちますねえ・・・。
「十牛図」ってご存じでしょうか? まあ、ほとんどの人は知らない世界だと思いますね。
坊さんとか一部の変わり者しかご存じないでしょう。
これ、画集なんです。といっても、禅の教科書です。禅宗とくに臨済宗のお寺では大切にされてきているものです。
十の牛の絵。だから、十牛図というわけですね。
では、中身はいったいどんなものなのか。これがなかなかなんですよ。自己発見つうか、ディスカバー・マイセルフつうか、新しい自分との遭遇というか、私、自分探しの旅してるんです、という絵なわけ。
それが十の絵の世界にすべてシンボライズされているわけです。
最初の絵は、牛を探しに山奥に入っていきます。つまり、奥深い禅の真理を求めていくわけ。で、若者が山の中で出会うのはなにか? 決まってますよね。
本当の自分です。つまり、牛とは真実の自分のことなんです。
失われるはずもないもの。それゆえ探す必要もないはず。けど、心の惑いによって疎遠になり、世間の塵に目が曇って見失ってしまう。それが自分というものでしょ? ちがいますか?
帰るべきところは遠く、にわかに道に迷ってしまう。喪失の思いがつのり、旅に出ずにはいられない。で、牛を求めて旅に出る。おもしろいですねえ。やっぱり禅はおもしろい。
なぜおもしろいかというと、解釈が無限にできる。正解がない世界。そこが魅力的ですね。
なるほど、そう解釈しますか? でも、こうも解釈できませんか? 最初から答えのない世界で答えを出そうとする。どうせ「空」なんです。そこには因果律なんてものは超越してるんです。とことんいけばそこには理屈なんてありません。そういう世界です。
空というつかめないものをつかもうとする。「自分探しの旅」なんてものはそもそも幻なんですよね。「青い鳥」のチルチルミチルが探していたモノも幸福ではなく本当の自分たちの姿でしたよ。
本を読むというのも一種の旅だと思います。
さて、次の「見跡」では若者は牛の足跡を発見します。
「見牛」では岩のかげに牛の尻尾を見つけます。
「得牛」では牛をつかまえて綱をつけます。
「牧牛」では牛を連れて散歩をします。
「見跡」では(本当の自分)のかすかな痕跡を見つけます。「見牛」では(本当の自分)を確認します。「得牛」では(本当の自分)に触れるようになります。「牧牛」では(本当の自分)を意のままに操ることができるようになります。
「騎牛帰家」では、若者は牛の背に乗っている絵が出てきます。もはや牛は綱から解放されて十分に飼いならされている。
次の「亡牛存人」になると、人の姿だけがあって牛は消え失せています。そして8枚目の「人牛倶牛」になると、絵そのものがなくなってしまいます。禅らしいですよね。
絵の縁にあたる大きな円が描かれているだけ。円の内部は空白です。まさに(空)の原理です。
「返本還源」では花をつけた樹木が描かれるだけ。牛はもとより、人の姿もありません。ただ自然だけがある世界です
そして最後の「入塵垂手」では、老人と若者が向かい合って立ち話をしています。最初の若者が年老いて老人になった。そして別の若者に説いているというわけです。
「廓庵十牛図」は鎌倉時代に中国から伝えられて普及しました。禅宗というのは、中国の宗の時代に興った比較的新しい宗派ですよ。
釈迦が出現する以前のバラモン教でも瞑想に耽る修行がありました。実は禅の方が仏教そのものよりも古いんです。
「マイトレーヤ」と「カルナ」を合わせて「慈悲」といいます。経典の大部分は鳩摩羅什が書きました。般若経典群だけは玄奘三蔵の翻訳です。『般若心経』も玄奘訳があります。
東棟と西棟の僧たちが猫をめぐって争っている。そこで南泉和尚が猫をとりあげて弟子たちに問います。
「返答できねば猫を斬るぞ」
猫を斬った話を南泉和尚が趙州に伝えます。彼は、履いていたワラジを頭に載せて出ていこうとしました。
「おまえがいたら猫は死なずにすんだものを・・・」
猫が可愛いから奪い合っていたのではなく、そもそも猫には仏性があるかないか議論していたわけです。そしてそれは無意味だと諭したのです。
正解があると思って議論する。しかし議論そのものが無意味であることが往々にしてあります。議論屋とか議論好きほどこの罠に陥ります。
「集団的自衛権」「個別的自衛権」なんてまさにそういうものです。こんなものを議論すること自体ナンセンスなんです。戦後、経済成長にかまけて置いてきたものです。こんなものを議論しなければならない現実を政治家も国民も恥じなければいけません。