2015年07月25日「インサイド・ヘッド」

カテゴリー中島孝志の不良映画日記」

 今日は新潟原原です。メンバーはご参集のこと。。。

 「喜怒哀楽」といいますが、できることなら、嬉しくて、楽しくて、喜ばしいことばかりであってほしい、と思うけど、人生、意のままにはならんことばかりでね。
 怒りに打ち震えたり、憤ることばっかし。いえいえ、悲しくて、哀しくて、切ないことにもぶち当たることが少なくありません。

 たしかにねえ。そんなに調子いいことばかりありませんわな。

 お釈迦さんも生老病死、四苦八苦は必然と悟ってるわけでね。。。
 そういえば、「極楽」という言葉を聞いたことがあると思いますが、これは楽しさを極めるつうことでね。といって、ここはお釈迦さんが悟った「真如」の世界ではないのよね。まだまだ途中の世界なの。

 かつて藤原道長が宇治平等院で、恋いこがれて、阿弥陀さんと指に糸を結んでまで願った「極楽浄土」。「極楽浄土」はしょせん「真如」へとたどり着くための一里塚なんす。ぶらり途中下車、でございましてね。

 では、「真如」とはなにか。。。これが悟りの世界。お釈迦さんはたどり着きました。

 難行苦行でもたどり着けず、あ〜チカレタビーと、菩提樹の下で休憩してると、村娘が乳をもってきてくれたわけで。腹ぺこのお釈迦さんはのどの渇きと空腹と心の空白も満たされたんだ、と思いますよ。

 どこからか琵琶の音が聞こえてくるじゃあ〜〜りませんか。すると、忽然と悟るわけっす。

 そうか、琵琶の音色は糸を緩めたら音は出ない。かといって、張りすぎてもいい音は出ない。緩めすぎず張りすぎず、中庸がいい。究極のバランス感覚でごぜえやす。

 お釈迦さんに聞いたらなんでもわかる。お釈迦さんは自分だけ悟って良しとせず、真如の世界からパンピーの世界に降りてきてくれたわけね。真如から来てくれた。だから、如来というんよ。。。

 真如の世界。それはすべてを捨てた世界です。くれくれくれ、欲しい欲しい欲しい、と欲張らず、とことん与えに与える世界っす。

 与えれば与えられる。
 愛すれば愛される。
 信じれば信じられる。

 この世の世界は真逆ですな。

 奪えば奪われる。
 憎めば憎まれる。
 疑えば疑われる。

 けど、こういう世界だからこそ、真如を求める人が出てくるわけでね。

 光は漆黒の闇であればあるほど輝くものです。
 
 人の心がすべてを決めます。物理的なパワーとか富の多さではありません。どうせ生老病死は世の常です。そして永遠に生き続けるものは魂です。

 魂とは、その人の息吹。風ですね。さわやかな風。とっても気持ちいい風。一緒にいるだけで、その人が通り過ぎるだけで心温まる風が吹く。そういうエネルギーです。

 ギリシャではハギオン・プネウマと言いました。 

 すべては人の心が決めます。人の心にはいろんな感情がありますね。ヨロコビ(JOY)、カナシミ(SADNESS)、イカリ(ANGER)、 ムカムカ(DISGUST)、そしてビビリ(FEAR)っす。



 ヨロコビばかりで一杯にしたいけど、カナシミに襲われることが少なくありません。
 どうしてカナシミなんかあんの? 実はね、カナシミ自身も自己嫌悪で落ち込んでるんすよ、ホントはね。

 でも、人生、無駄なモノなんてありません。すべては必然。無駄なことを神様仏様はつくらないのです。すべてに意味があるんす。気づかないだけなの。

 ヨロコビばかりの人生だと、人間、とっても緩くなります。なんの修行もしません。生物としてバカになります。これでは生まれてきた価値がありません。そうでしょ? いっつもヨロコビばっかし。。。麻痺しまっせ。

 100に1つくらい巡り会えるからホントのヨロコビを感じられるわけでね。

 カナシミも同じです。ああ、カナシミはこんなに人を癒すパワーがあるんだ、とわかります。

 カナシミをごまかさず、とことん、どっぷり、浸かってみると、どん底ってこんなに温かいんだ、と気づきます。楽を極めると飽きてしまうのと同じように、カナシミを極めるとこれも飽きちゃうのよね。

 もうそろそろいいかな。。。「悲しみよ、こんにちは」はサガンでしたが、「カナシミよ、さようなら」つうわけ。

 ディズニー/ピクサーの最新作。視点がええわな。「カールじいさんの空飛ぶ家」も面白かったけど、ピート・ドクター監督はやっぱいいね。
 それにしても、カナシミ役の大竹しのぶさん。吹き替え巧し。ヨロコビ役の竹内結子さんの声のいいこと。キャスティング、よう研究してまんなあ。