2015年08月17日実は、ソ連と戦いたかった鬼より怖い関東軍。

カテゴリー中島孝志の不良オヤジ日記」

 終戦記念日にお届けするはずが。。。「うどん食い倒れ+阿波踊り+神戸食い倒れ」で3日間少ししゃべりすぎました。

 で、今日となりました。

 安倍首相の戦後70周年談話。なかなか巧い表現でした。もち、中韓は自国内に課題山積で文句をつける余裕はありませんから、まあ、こんなものでしょう。

 「自虐史観を排した持論を展開しないのか?」とメディアは挑発してますが、首相の持論を理解しているのならわさわざ語る必要もないっしょ。

 安倍首相が気にしているのはアメリカのみ。中韓の反応なんぞどうでもいいんす。もう気にする必要はなくなりましたから。

 さて、ソ連です。いやロシアです。いやいやソ連ですね。

 教科書では、たとえば、1938年の「チャンコボン事件」、39年の「ノモンハン事件」では、「関東軍は甚大なる被害を受けた」「赤軍に完膚無きまでに撃破された」と書かれているはずですが、直近の歴史研究では、ソ連の被害のほうがはるかに甚大で、この局地戦以来、関東軍とはできるだけ戦わないこと。戦略ではなく政略で対処すべし、とスターリンは方針展開したと思います。

 事実、1941年の「日ソ中立条約」が4月ですが、7月になって日本政府がなにを決めたか?

 「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定しているのです。かの有名な「関東軍特種演習実施」(「特殊」ではありませんよ!)ですわな。
 早い話が、関東軍を増強し、ソ満国境に大動員したんです。もち、スターリンへの挑発行為です。国際法では「敵対行為」になります。

 「そんなことしたら戦争になるのでは?」

 はいな。関東軍はソ連と戦争してもいい。いえいえ、したかったんです。それを止めたのはスターリンです。

 なぜか? 歴史に強い人ならピンと来たでしょうね。1941年の4月に中立条約を結んでるのに、3ヵ月後にわざわざ破るような敵対行為に出たのはなぜ?

 もち、この間に国際情勢が大きく変わったからですね。ほら、だから、「情勢の推移に伴う・・・」というわけでしょ。

 そうです。ご推察の通り、1941年6月22日、かねて結んだ独ソ不可侵条約(1939年8月締結)を破棄して、ドイツがソ連に攻め込んだんです。そして9月にはレニングラード(当時)を包囲してしまいました。で、10月にはモスクワを攻撃します。

 スターリンはモスクワを放棄します。そればかりか、スターリンはあまりのショックでなにもできませんでした。なんの対応もできませんでした。ヒトラーを甘く見てたんですね。

 茫然自失のスターリンに代わってラジオ放送でドイツに宣戦布告したのはモロトフです。引きこもりのスターリンにモロトフはじめ共産党幹部が揃ってやってきます。

 このとき、スターリンが思ったのは、「いよいよ粛清されるのか・・・」でしょう。ところが、こいつらはソ連崩壊時の老いぼれたちと同じで、スターリンを逮捕するでもなく殺すでもなく、「一致団結してヒトラーと戦いましょう」つう、なんか高校野球みたいなことをしとるんです。

 弱い国ってのは、いざとなると腹を括れず、命乞いする、鳩山由紀夫さんとかカンチョクトさんみたいなヤツがリーダーになっちゃうんてすよ。

 さてさて、このとき、挑発する関東軍に対して、スターリンはじっとガマンの子だったんです。いくらグルジアの無教養な男でも、ドイツと日本相手に二正面作戦なんぞして勝てるはずがない、と心得ていました。だから、どんなに挑発されても関東軍を相手にしなかったんです。

 日本は国際法を遵守してましたからね。ソ連赤軍の発砲を心待ちにしてたでしょうね。しかし花火すらない。爆竹すら間違えられるからしない。

 このとき、ソ連みたいに火事場泥棒のできる国でしたら、日本は大東亜戦争をすることはありませんでした。なぜなら、対米戦争ではなく対ソ戦争になっていたからです。

 ソ連は朝日新聞記者の尾崎某とかゾルゲなんぞを大量動員して、日本政府にスパイ網をこしらえます。そして近衛文麿をたぶらかして北進論から南進論へと国策を誘導していくわけです。

 鬼より怖い巣関東軍と戦わなくて済む、と安心したスターリンは戦力を対ドイツ戦に集中しました。

 日本はタイミングを誤りました。戦争でもなんでもいちばん大切なのはタイミングです。スターリンを地獄から助けてしまいました。

 東欧をオスマン帝国のくびきから解放した最大の功労者ソ連(東欧から見れば迷惑千万!)を演出したのは日本なんです。大東亜共栄圏によって、アジアを列強の植民地から解放したのは日本です。日本はアジア+東欧=ユーラシアを開放した最大の功労者なんです。

 安倍首相談話の中にもさりげなく日本の主張が込められていますね。

「これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。」

「七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。」

「寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。」

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

「終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。」

 ま、こんな発言ができるのは地球では日本だけです。なぜできるかといえば、自信があからです。劣等感がDNAの潜在意識に巣くっている民族にはできない芸当でしょうね。 
  

 さて、今日のメルマガでご紹介する本は「長安から北京へ」(司馬遼太郎著・中央公論社・926円)です。