2016年09月15日「片貝花火と美味しい酒とへぎそばを堪能するツアー」のレポその2
カテゴリー中島孝志の「日本伝統文化研究会」」
この世をば わが世とぞ 思ふ 望月の 欠けたることも なしと思はば
名月を とってくれろと 泣く子かな
中秋名月ですな。天気が気になるとこですが、明晩のほうが満月に近いらしっす。
今年もまた盆が終わり、来年になるとまた盆がやってきます。
不思議ですな、日本人は。。。葬式は仏教、結婚式とクリスマスはキリスト教、初詣となると神道。。。にわか信者になってしまうわけでね。
気づかずにケースバイケースで受け容れてしまう処に、われわれのいい加減さと、融通無碍、無為自然の心根を感じてしまいますね。
いずれ原原で突っ込んでお話ししますけど、インド仏教ならば六道輪廻ですから、人は死んだら49日後には天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のいずれかに生まれ変わってるはずでしてね。
つまり、盆にお祀りしようたって、そこに魂はないわけでね。結果、インド仏教では骨なんぞ重要視しないわけで。
参道、境内は屋台でいっぱい。花火客は何日も前から場所とってるんだろな。
家々に掲げられてます。
ミャンマーの人、タイの人と話すと面白いですな。
坊さんが結婚してる? そんなバカな! こんなんはいつものことですけど。
蚊がいれば蚊取り線香もちだすか、刺されそうならパシッと叩いて殺そうとしますよね。日本人でなくても当たり前っすよ。けど、彼ら、ちがうのよね。
「その蚊、あなたの亡くなったご先祖かもしれませんよ」
「まさかぁ・・・」
腕刺されてるつうのにそのまんま。蚊はたっぷり血を吸って飛んできます。
打ち上げ前のアナウンスも手作り感いっぱい。地域に根付いたイベントなんだなぁ。観光客はあくまでも「ついで」。これがいいよね。
ミャンマーにはパゴダ(ゼディー。タイのプラ・プラーン)がそこかしこにあります。仏塔(ストゥーパ)のことで仏舎利とか法舎利ですね。上座部仏教徒は敬虔に祀りますね。靴とか靴下はちゃんと脱いでおまいりする。
で、彼らは葬儀でもご遺体を焼き場に運んだらさっさと帰ります。日本人のように骨になるまで待つことなんてしません。ましてや骨を拾うこともしません。
肉体はこの世を生きるための「借り物」にすぎないからですね。大切なのは「魂」。魂が乗ってる乗り物。肉体はそれだけのこと。
死とはなにか? 肉体から魂が分離する状態のことです。わかりやすい言うとね、「抜け殻」つう言葉あるでしょ。ボーっとしてる状態。これ、一時的に魂が肉体から抜けてる状態のことを言うんです。驚いて腰を抜かした時なんかそうですよ。だから「たまげた=魂消た」と書くんですね。
ま、「抜け殻」だからもう一度魂が入れば蘇るわけでね。これが永遠に入らない状態。つまり、肉体と魂が永遠に分離した場合、「死」というわけです。こうなりますと、「抜け殻」ではなく「亡骸(なきがら)」となるわけでね。似てますがぜんぜんちゃいますわな。もう魂が戻らないんですからね。
天武天皇の「殯(もがり)」なんて2年以上もありましたけど、魂が肉体に戻るのではないか、という期待があったわけでね(また、急に亡くなりますと陵が間に合わないという現実的な問題もあるわけでね)。
早い話が「通夜」のことですわな。本葬するまで長期間、棺に遺体を仮安置して、別れを惜しみつつ、死者の「魂(霊魂)」を畏れつつ、慰めつつ、蘇り(復活)を願いつつ、「ああ、戻らないんだ」と肉体の白骨化等々の物理的変化を確認する、というプロセスのことですわな。
北九州の門司にミャンマー式の正統なパゴダがありますよね。
肉体と魂はちがいます。だから、心身一如を理想としてるわけです。
死ねば肉体は必要なし。肉体の構造物たる骨も不要。となれば、骨の収容装置たる墓も不要。だから、インドでは遺体を焼いてガンジス川に流すわけでね。貧乏人はミディアム・レアで流しちゃうわけで。
カメラはMさんとTさん。「花火は生き物だから難しい」「コツを呑み込んだから来年はばっちし」とのこと。期待してまっせ。
私は動画撮影。メーリングリストで送りましたから堪能してね。
動画がいいかも。生き物だからね。削りに削っても25分たっぷり。ま、各原原でご覧頂きましょう。
魂は49日後にどこかに生まれ変わってるのに、盆になるといちいち「迎え火」「送り火」をたいてご先祖様を祀るのが日本人なわけでね。
あちらの世界からこちらの世界へ、またあちらの世界へと南欧福もされられるご先祖様はめちゃ超多忙だと思いますね。
まあ、日本仏教は中国、百済経由で伝わり、大発展を遂げてきたわけでして。日本人の精神、文化、風土によって様変わりするのは当然のことですよね。
「山川草木悉皆成仏」となればタイやミャンマーの「蚊」も仏性がある仲間ですわな。アニミズムとバカにすることなかれ。アニミズムを軽んじ、キリスト教に改宗させて「まともな人間」にしようと、原住民を殺しまくった欧米が優れているわけではありませんもんね。
ご先祖様はすぐそばにいる。盆になるとお山から降りてくる。風と一緒にね。そして煙と一緒に戻っていく。線香は依代であるご位牌めざしてお戻り頂くための「目印」ですわな。ご位牌のことを神主とか木主というでしょ。マーキングなのよ、あれ。
人は心臓が止まった時に死にます。そして人々のメモリーから消えた時にもう一度死にます。
「おとうさん、おかあさんありがとう」
「少ない時間だたけどあなたと過ごせて幸せでした。ありがとね」
片貝の花火は「忘れてないよ」と亡き人に真心のメッセージを伝える祭祀ではないでしょうかね。
新潟原原。今回は講義無し。去年か一昨年も一泊合宿研修をしましてね。脱穀、餅つき、紙漉なども堪能しまして、朝、2時間講義したんすけど、今回は無し。
花火を見て「なにか」を感じ取る。そのほうがずっと価値がある、と思うな。
片貝の花火は神事ですわな。神社の境内で打ち上げますけど、元もとは片貝町民による「精霊花火」なんだろね。
いまや、慶事もたくさん。
「生まれてきてくれてありがとう。可愛い笑顔でジジババの寿命ものびてます」
「結婚おめでとう」
こんなお祝いのメッセージが込められた花火もたくさん打ち上げられてます。
「来年は原原で花火打ち上げましょう」とH先生。ま、それもいいけど。募金はじめなあかんわな。つもり貯金でもするかいな。
片貝では企業はもちろん、家族親戚、同窓会、飲み屋とそのお客さんがこの花火のためにお金使うわけでね。一瞬で消えるモノですけど、記憶にはしかと残る。瞼に焼き付いて離れない。いいお金の使い方してますな。
先祖供養(=孝)は最高の教育ですもんね。孔子だわな。]
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「異常気象が変えた人類の歴史 後編」(田家康著・日本経済新聞出版社・918円)です。
名月を とってくれろと 泣く子かな
中秋名月ですな。天気が気になるとこですが、明晩のほうが満月に近いらしっす。
今年もまた盆が終わり、来年になるとまた盆がやってきます。
不思議ですな、日本人は。。。葬式は仏教、結婚式とクリスマスはキリスト教、初詣となると神道。。。にわか信者になってしまうわけでね。
気づかずにケースバイケースで受け容れてしまう処に、われわれのいい加減さと、融通無碍、無為自然の心根を感じてしまいますね。
いずれ原原で突っ込んでお話ししますけど、インド仏教ならば六道輪廻ですから、人は死んだら49日後には天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のいずれかに生まれ変わってるはずでしてね。
つまり、盆にお祀りしようたって、そこに魂はないわけでね。結果、インド仏教では骨なんぞ重要視しないわけで。
参道、境内は屋台でいっぱい。花火客は何日も前から場所とってるんだろな。
家々に掲げられてます。
ミャンマーの人、タイの人と話すと面白いですな。
坊さんが結婚してる? そんなバカな! こんなんはいつものことですけど。
蚊がいれば蚊取り線香もちだすか、刺されそうならパシッと叩いて殺そうとしますよね。日本人でなくても当たり前っすよ。けど、彼ら、ちがうのよね。
「その蚊、あなたの亡くなったご先祖かもしれませんよ」
「まさかぁ・・・」
腕刺されてるつうのにそのまんま。蚊はたっぷり血を吸って飛んできます。
打ち上げ前のアナウンスも手作り感いっぱい。地域に根付いたイベントなんだなぁ。観光客はあくまでも「ついで」。これがいいよね。
ミャンマーにはパゴダ(ゼディー。タイのプラ・プラーン)がそこかしこにあります。仏塔(ストゥーパ)のことで仏舎利とか法舎利ですね。上座部仏教徒は敬虔に祀りますね。靴とか靴下はちゃんと脱いでおまいりする。
で、彼らは葬儀でもご遺体を焼き場に運んだらさっさと帰ります。日本人のように骨になるまで待つことなんてしません。ましてや骨を拾うこともしません。
肉体はこの世を生きるための「借り物」にすぎないからですね。大切なのは「魂」。魂が乗ってる乗り物。肉体はそれだけのこと。
死とはなにか? 肉体から魂が分離する状態のことです。わかりやすい言うとね、「抜け殻」つう言葉あるでしょ。ボーっとしてる状態。これ、一時的に魂が肉体から抜けてる状態のことを言うんです。驚いて腰を抜かした時なんかそうですよ。だから「たまげた=魂消た」と書くんですね。
ま、「抜け殻」だからもう一度魂が入れば蘇るわけでね。これが永遠に入らない状態。つまり、肉体と魂が永遠に分離した場合、「死」というわけです。こうなりますと、「抜け殻」ではなく「亡骸(なきがら)」となるわけでね。似てますがぜんぜんちゃいますわな。もう魂が戻らないんですからね。
天武天皇の「殯(もがり)」なんて2年以上もありましたけど、魂が肉体に戻るのではないか、という期待があったわけでね(また、急に亡くなりますと陵が間に合わないという現実的な問題もあるわけでね)。
早い話が「通夜」のことですわな。本葬するまで長期間、棺に遺体を仮安置して、別れを惜しみつつ、死者の「魂(霊魂)」を畏れつつ、慰めつつ、蘇り(復活)を願いつつ、「ああ、戻らないんだ」と肉体の白骨化等々の物理的変化を確認する、というプロセスのことですわな。
北九州の門司にミャンマー式の正統なパゴダがありますよね。
肉体と魂はちがいます。だから、心身一如を理想としてるわけです。
死ねば肉体は必要なし。肉体の構造物たる骨も不要。となれば、骨の収容装置たる墓も不要。だから、インドでは遺体を焼いてガンジス川に流すわけでね。貧乏人はミディアム・レアで流しちゃうわけで。
カメラはMさんとTさん。「花火は生き物だから難しい」「コツを呑み込んだから来年はばっちし」とのこと。期待してまっせ。
私は動画撮影。メーリングリストで送りましたから堪能してね。
動画がいいかも。生き物だからね。削りに削っても25分たっぷり。ま、各原原でご覧頂きましょう。
魂は49日後にどこかに生まれ変わってるのに、盆になるといちいち「迎え火」「送り火」をたいてご先祖様を祀るのが日本人なわけでね。
あちらの世界からこちらの世界へ、またあちらの世界へと南欧福もされられるご先祖様はめちゃ超多忙だと思いますね。
まあ、日本仏教は中国、百済経由で伝わり、大発展を遂げてきたわけでして。日本人の精神、文化、風土によって様変わりするのは当然のことですよね。
「山川草木悉皆成仏」となればタイやミャンマーの「蚊」も仏性がある仲間ですわな。アニミズムとバカにすることなかれ。アニミズムを軽んじ、キリスト教に改宗させて「まともな人間」にしようと、原住民を殺しまくった欧米が優れているわけではありませんもんね。
ご先祖様はすぐそばにいる。盆になるとお山から降りてくる。風と一緒にね。そして煙と一緒に戻っていく。線香は依代であるご位牌めざしてお戻り頂くための「目印」ですわな。ご位牌のことを神主とか木主というでしょ。マーキングなのよ、あれ。
人は心臓が止まった時に死にます。そして人々のメモリーから消えた時にもう一度死にます。
「おとうさん、おかあさんありがとう」
「少ない時間だたけどあなたと過ごせて幸せでした。ありがとね」
片貝の花火は「忘れてないよ」と亡き人に真心のメッセージを伝える祭祀ではないでしょうかね。
新潟原原。今回は講義無し。去年か一昨年も一泊合宿研修をしましてね。脱穀、餅つき、紙漉なども堪能しまして、朝、2時間講義したんすけど、今回は無し。
花火を見て「なにか」を感じ取る。そのほうがずっと価値がある、と思うな。
片貝の花火は神事ですわな。神社の境内で打ち上げますけど、元もとは片貝町民による「精霊花火」なんだろね。
いまや、慶事もたくさん。
「生まれてきてくれてありがとう。可愛い笑顔でジジババの寿命ものびてます」
「結婚おめでとう」
こんなお祝いのメッセージが込められた花火もたくさん打ち上げられてます。
「来年は原原で花火打ち上げましょう」とH先生。ま、それもいいけど。募金はじめなあかんわな。つもり貯金でもするかいな。
片貝では企業はもちろん、家族親戚、同窓会、飲み屋とそのお客さんがこの花火のためにお金使うわけでね。一瞬で消えるモノですけど、記憶にはしかと残る。瞼に焼き付いて離れない。いいお金の使い方してますな。
先祖供養(=孝)は最高の教育ですもんね。孔子だわな。]
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「異常気象が変えた人類の歴史 後編」(田家康著・日本経済新聞出版社・918円)です。