2016年11月25日「聖の青春」
カテゴリー中島孝志の不良映画日記」
♪吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
賭けた命を 笑わば笑え♪
作詞の西条八十も作曲の船村徹さんも将棋を知らないらしいっすね。
たかが将棋、されど将棋。盤上に宇宙が広がる。そこが魅力、いえいえ魔力なんでしょう。
17歳で奨励会に入会。2年11カ月で四段(プロ)昇段。谷川浩司さんで3年8カ月。羽生善治さんで3年。いかに天才か怪童かがわかろうというものです。
「兄2人はバカなので東大に進学しました。ボクは天才だから棋士になりました」とは米長邦雄九段。
神と鬼との勝負だわな、これは。
「ボクの夢は2つあります。早く名人になって将棋を辞めてゆっくり暮らすこと。愛する女性と幸せな結婚をすること。でも、こんな病気を抱えたボクには無理かもしれませんけど」
ネフローゼ症候群を幼児期に発症。20歳まで生きられるかわからない。だから奨励会で四段になりプロとして歩み始めた時、「将来の夢は?」と質問した米長九段を怒らせてしまいます。
早く引退すること・・・将棋という仕事をバカにしてる、と立腹したわけですね。けど、「長生きできない」と覚悟していた若者にとって「将来の夢」なんて話、悠長にしてられないですよ。
「どこか海外に旅行したいな」と話していた人が余命を告げられると、「自分の足でトイレに行けるように」と願います。「美味しいものが食べたい」という人が「自分の口で咀嚼して食べたい」と願います。これが掛け値なしの「夢」なんでしょうね。
昔、東京原原で「人生の原理原則について語ろう」というテーマの時に、たしか、こんな質問をしたことがあります。
「人生最高の愛を交わす相手に巡りあうチャンスがあります。悲しいことに、半年後に亡くなる運命です。その後、長く続く苦しみを覚悟の上で、なお、あなたはこの人と巡り会いたいですか?」
あまりにもあまりにも哀しくて切なくて泣き出してしまいそうなので、この講義は永遠に封印してしまいましたけど、この「愛」という言葉を「将棋」と置き換えたら、村山聖はどうするだろう・・・映像を見ながらずっと考えていました。いまも考えています。
最期の言葉・・・「8六歩 同歩 8五歩・・・2七銀」
本当に将棋に惚れ込んでいたんでしょうねえ。
どんなに有名な棋士でも天才、怪童でも、親にとっては可愛い子供。「聖、丈夫な身体に産んであげられんでごめんね」と謝る母親はいまでもご自分を責めてるんじゃないかなあ。母親ってそういうもんですから。
母親ってのは哀しくて、愛しい存在ですな。すべての苦労を抱えちゃうもんな。
人生は時間の長さじゃないです。100歳には100年の持ち時間があり、29歳には29年の持ち時間があり、24歳には24年の持ち時間がある、ということだけ。持ち時間は客観的数字。どう生きたか、その生き様はあくまでも主観が決めるんです。
この生き様が人の心を打つのだ、と思います。一瞬の死が遺すメッセージなどたかが知れています。「密葬にしてくれ」とさりげなく父親に頼んでいました。その一瞬だけを記憶に留めてもらいたくない。記憶からも消えてしまいたかった。
若者の矜持と少しばかりの羞恥があったのかもしれませんな。
治療より将棋を優先した聖。文字通り、命懸けの生き様でした。
どう死んだかより、どう生きたか、どう戦ったか。勝負師として、このほうがはるかに崇高です。記憶から消したかったかもしれないけど、永遠に記憶に残る生き様を見せてくれました。もちろん、村山聖だけではなくて、市井にもそんな生き様を見せてくれる人はたくさんいます。
「29年の持ち時間しかなかろうと、生まれ変わっても、羽生さんと死闘を演じる時間をたのしみたい」と思えるなら、最高の人生じゃないでしょうか。
「人生棒に振ってもかまわない」・・・原原でいつもお話ししていることです。そんな生き方ができる人、意識して飛び込める人、なかなかいないですよ。ほとんどは成り行きです。「成り行き」ってのは無意識の世界。夢遊病者のようなものです。
これを「自覚」に換えないと本気にはなりません。本気にならないと守護霊は応援してくれないんです。
「人生棒に振ってもかまわない!」という将棋と出会い、100年に1人といわれる将棋の神・羽生善治さんと巡り会えた村山聖は最高に幸福な人だったと思いますよ。
「病気にならなきゃ将棋にも羽生さんにも会えなかった」
将棋に生きた人生。いや、将棋と心中したというべきか。いえいえ、絶望の中で唯一見つけた希望。将棋にどっぷり浸かっている時だけが苦しみから逃れられる瞬間だったはず(末期ガンにはモルヒネも効きませんからね)。
将棋を心から楽しんだ1人の無邪気な若者、というべきでしょうね。村山聖はまさに「棋聖」の名に値する棋士だったと思います。
それにしても、この映画、さらりと終わっていいね。拍子抜けするほど・・・さらり。こういうの「無為自然」の三昧というんだよなあ。いろんな演出があるけど、全体的にさらりとした演出を選んでくれたのはとてもいいねえ。
明日も観に行こっと。。。
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐・・・今日は憂国忌ですね。
牛丼はやっぱ吉野家! 聖が愛した「吉牛」。映画を観たら食べに行こう。。。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「超金融緩和からの脱却」(白井さゆり著・2,916円・日本経済新聞出版社)です。
賭けた命を 笑わば笑え♪
作詞の西条八十も作曲の船村徹さんも将棋を知らないらしいっすね。
たかが将棋、されど将棋。盤上に宇宙が広がる。そこが魅力、いえいえ魔力なんでしょう。
17歳で奨励会に入会。2年11カ月で四段(プロ)昇段。谷川浩司さんで3年8カ月。羽生善治さんで3年。いかに天才か怪童かがわかろうというものです。
「兄2人はバカなので東大に進学しました。ボクは天才だから棋士になりました」とは米長邦雄九段。
神と鬼との勝負だわな、これは。
「ボクの夢は2つあります。早く名人になって将棋を辞めてゆっくり暮らすこと。愛する女性と幸せな結婚をすること。でも、こんな病気を抱えたボクには無理かもしれませんけど」
ネフローゼ症候群を幼児期に発症。20歳まで生きられるかわからない。だから奨励会で四段になりプロとして歩み始めた時、「将来の夢は?」と質問した米長九段を怒らせてしまいます。
早く引退すること・・・将棋という仕事をバカにしてる、と立腹したわけですね。けど、「長生きできない」と覚悟していた若者にとって「将来の夢」なんて話、悠長にしてられないですよ。
「どこか海外に旅行したいな」と話していた人が余命を告げられると、「自分の足でトイレに行けるように」と願います。「美味しいものが食べたい」という人が「自分の口で咀嚼して食べたい」と願います。これが掛け値なしの「夢」なんでしょうね。
昔、東京原原で「人生の原理原則について語ろう」というテーマの時に、たしか、こんな質問をしたことがあります。
「人生最高の愛を交わす相手に巡りあうチャンスがあります。悲しいことに、半年後に亡くなる運命です。その後、長く続く苦しみを覚悟の上で、なお、あなたはこの人と巡り会いたいですか?」
あまりにもあまりにも哀しくて切なくて泣き出してしまいそうなので、この講義は永遠に封印してしまいましたけど、この「愛」という言葉を「将棋」と置き換えたら、村山聖はどうするだろう・・・映像を見ながらずっと考えていました。いまも考えています。
最期の言葉・・・「8六歩 同歩 8五歩・・・2七銀」
本当に将棋に惚れ込んでいたんでしょうねえ。
どんなに有名な棋士でも天才、怪童でも、親にとっては可愛い子供。「聖、丈夫な身体に産んであげられんでごめんね」と謝る母親はいまでもご自分を責めてるんじゃないかなあ。母親ってそういうもんですから。
母親ってのは哀しくて、愛しい存在ですな。すべての苦労を抱えちゃうもんな。
人生は時間の長さじゃないです。100歳には100年の持ち時間があり、29歳には29年の持ち時間があり、24歳には24年の持ち時間がある、ということだけ。持ち時間は客観的数字。どう生きたか、その生き様はあくまでも主観が決めるんです。
この生き様が人の心を打つのだ、と思います。一瞬の死が遺すメッセージなどたかが知れています。「密葬にしてくれ」とさりげなく父親に頼んでいました。その一瞬だけを記憶に留めてもらいたくない。記憶からも消えてしまいたかった。
若者の矜持と少しばかりの羞恥があったのかもしれませんな。
治療より将棋を優先した聖。文字通り、命懸けの生き様でした。
どう死んだかより、どう生きたか、どう戦ったか。勝負師として、このほうがはるかに崇高です。記憶から消したかったかもしれないけど、永遠に記憶に残る生き様を見せてくれました。もちろん、村山聖だけではなくて、市井にもそんな生き様を見せてくれる人はたくさんいます。
「29年の持ち時間しかなかろうと、生まれ変わっても、羽生さんと死闘を演じる時間をたのしみたい」と思えるなら、最高の人生じゃないでしょうか。
「人生棒に振ってもかまわない」・・・原原でいつもお話ししていることです。そんな生き方ができる人、意識して飛び込める人、なかなかいないですよ。ほとんどは成り行きです。「成り行き」ってのは無意識の世界。夢遊病者のようなものです。
これを「自覚」に換えないと本気にはなりません。本気にならないと守護霊は応援してくれないんです。
「人生棒に振ってもかまわない!」という将棋と出会い、100年に1人といわれる将棋の神・羽生善治さんと巡り会えた村山聖は最高に幸福な人だったと思いますよ。
「病気にならなきゃ将棋にも羽生さんにも会えなかった」
将棋に生きた人生。いや、将棋と心中したというべきか。いえいえ、絶望の中で唯一見つけた希望。将棋にどっぷり浸かっている時だけが苦しみから逃れられる瞬間だったはず(末期ガンにはモルヒネも効きませんからね)。
将棋を心から楽しんだ1人の無邪気な若者、というべきでしょうね。村山聖はまさに「棋聖」の名に値する棋士だったと思います。
それにしても、この映画、さらりと終わっていいね。拍子抜けするほど・・・さらり。こういうの「無為自然」の三昧というんだよなあ。いろんな演出があるけど、全体的にさらりとした演出を選んでくれたのはとてもいいねえ。
明日も観に行こっと。。。
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐・・・今日は憂国忌ですね。
牛丼はやっぱ吉野家! 聖が愛した「吉牛」。映画を観たら食べに行こう。。。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「超金融緩和からの脱却」(白井さゆり著・2,916円・日本経済新聞出版社)です。