2017年03月08日「百日告別(Zinnia Flower)」
カテゴリー中島孝志の不良映画日記」
愛する人を喪った時、人はどう生きればいいのでしょう?
最近、なぜか、この手のテーマのイベント、本、映画と遭遇する機会が少なくありません。「通勤快読」でもおわかりの通り、霊魂の話のオンパでしょ。求めてるわけではなくて、すべて「たまたま」なのよね。「スピ研が呼んでいる」ということなんでしょうか。リクエストもめちゃ多いですしね。
玉突き事故で婚約者を亡くした女性、心敏(カリーナ・ラム=林嘉欣)。妻とまだ見ぬ子を同時に亡くした張育偉(シー・チンハン=石錦航)。
葬儀を取り仕切るのは、妻となる婚約者ではなく男の家族。男の弟は優しくしてくれるけど、男の母親は違います。中途半端な存在の疎外感と孤独感たるや、生きていく気力も消え失せますわな。
なにかしてないと気が狂いそうになるけど仕事には身が入らない。妻を亡くした夫は、妻にピアノを習いに来てた教え子たちに授業料を返すため、一軒一軒訪ね歩きます。
同じ事故で愛する人を失った2人。初七日から四九日まで7日ごとに寺で行われる法要に参列して読経を唱える中、互いの存在に気づいていきます(日本と同じで、もはや台湾でもこういう葬式、法要はありえません)。
死期はついでを待たず。『徒然草』の有名な言葉ですね。年寄りだから早く死ぬわけではなく、若いから寿命が長いわけでもない。死期なんてだれにもわからない。
「父死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」
大金持ちの信者から揮毫を頼まれた一休禅師がしたためた言葉です。「めでたい席で縁起でもない!」と怒る主人を前に、この通りに死ぬほど幸せなことはないではないか。その「ありがたさ」にはたと気づくんですね。死期はついで(順番)を待たないんですから。
朝、小さなケンカをして夫を送り出した。子供を叱って学校に送り出した。ところが、事故で突然亡くなった。最期の最期が言い争いで終わってしまった。
あんなこと言わなきゃ良かった・・・自分を責め続けてしまいます。。
もう会えない。以前このブログでご紹介しましたけど、私が懇意にする尼寺の和尚さんなど、いつも別れ際には涙がいっぱい。今生の別れになるやもしれぬ、とわかってるからですよ。
「一期一会」は茶道の神髄ではありません。人生の神髄なんですよね。
最愛の人は手の届かない処にいってしまった。あの笑顔も2度と見られない。涙も出ません。心が渇ききってそんな余裕はありませんもの。
現実なんて受け容れようがありません。身体にも精神にもそんなキャパなんてありません。夢か現かわかりません。
仏教では七七日=四九日間は、死者の魂が成仏せずにさまよっている「中陰」「中有」と呼ばれています。この忌明けまで7日ごとに法要を行います。四九日目は納骨ですよね。
そして100日目を「卒哭忌」と言います。もう泣くのはこの日で終わりだよ、という日ですね。タイトルの「百日告別」もそういうことでしょ。たぶん。。。
監督はトム・リン(=林書宇)。
「妻が亡くなったのは12年7月。僕はキリスト教信者ですが妻は仏教徒なので、初七日から四九日までお寺に通い読経をしました」
「お寺のある山上から麓に下りるバスでいろんなことを考えている時、ふっと映像が浮かんだのです。2人の主人公が同じ時に愛する人を亡くし、同じようでもあり違うようでもある、という中で事実に向き合っていく、という話です」
「いまはとても平穏です。死は生命の一部分である、という言葉を完全に受け止められるようになったからでしょう。けっして孤独ではないと気づきました。僕は妻の愛と思いとともに映画を作り続け、そして生きていきます」
これ、すべてトム・リン監督の独白なんですよ。つまり、この映画は彼の体験談にほかならないんです。
この映画を作ることで彼は救われたと思いますよ。というのも、本人も周囲も気づきませんが、サプライズは人の心身のバランスを崩します。崩れたら崩れるに任せるのがいちばんいいんですけど、人間はバランスをとろうと懸命になる。心と魂のレベルでもね。
身体のインバランスは治りますけど、心と魂のそれは時間がかかります。もしかすると永遠に治らないかもしれません。
愛する人が亡くなる副作用は愛した人を心と魂レベルで殺してしまうことにあります。
いままで外に出せなかった「心と魂の叫び」を吐き出せるようになったらバランスが修正されつつある証拠です。つうか、外に吐き出すチャンスをみずからつくらなくちゃ。
トム・リンは映画監督、脚本家として、「愛する人の死」をもう1人の自分に総括してあげるチャンスに恵まれたわけで、結果として、彼自身を癒すことになりました。おそらく亡き妻の配慮でしょう。
「私の死から逃げないで。あなたがあなたとして生きるには直視するしかないのよ」とね。
死と再生。亡くなった人が生きている人を再生させる物語。
死はない。生命の一部分である。生きている人は亡くなった人たちに守られて生きている・・・これが真実であることを10日と13日の「通勤快読」でたっぷりご紹介しましょう。お楽しみに・・・。
愛別離苦・・・時しか解決できないよなあ。やっぱ。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「熊野 神と仏」(植島啓司・九鬼家隆・田中利典著・2,160円・原書房)です。
最近、なぜか、この手のテーマのイベント、本、映画と遭遇する機会が少なくありません。「通勤快読」でもおわかりの通り、霊魂の話のオンパでしょ。求めてるわけではなくて、すべて「たまたま」なのよね。「スピ研が呼んでいる」ということなんでしょうか。リクエストもめちゃ多いですしね。
玉突き事故で婚約者を亡くした女性、心敏(カリーナ・ラム=林嘉欣)。妻とまだ見ぬ子を同時に亡くした張育偉(シー・チンハン=石錦航)。
葬儀を取り仕切るのは、妻となる婚約者ではなく男の家族。男の弟は優しくしてくれるけど、男の母親は違います。中途半端な存在の疎外感と孤独感たるや、生きていく気力も消え失せますわな。
なにかしてないと気が狂いそうになるけど仕事には身が入らない。妻を亡くした夫は、妻にピアノを習いに来てた教え子たちに授業料を返すため、一軒一軒訪ね歩きます。
同じ事故で愛する人を失った2人。初七日から四九日まで7日ごとに寺で行われる法要に参列して読経を唱える中、互いの存在に気づいていきます(日本と同じで、もはや台湾でもこういう葬式、法要はありえません)。
死期はついでを待たず。『徒然草』の有名な言葉ですね。年寄りだから早く死ぬわけではなく、若いから寿命が長いわけでもない。死期なんてだれにもわからない。
「父死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」
大金持ちの信者から揮毫を頼まれた一休禅師がしたためた言葉です。「めでたい席で縁起でもない!」と怒る主人を前に、この通りに死ぬほど幸せなことはないではないか。その「ありがたさ」にはたと気づくんですね。死期はついで(順番)を待たないんですから。
朝、小さなケンカをして夫を送り出した。子供を叱って学校に送り出した。ところが、事故で突然亡くなった。最期の最期が言い争いで終わってしまった。
あんなこと言わなきゃ良かった・・・自分を責め続けてしまいます。。
もう会えない。以前このブログでご紹介しましたけど、私が懇意にする尼寺の和尚さんなど、いつも別れ際には涙がいっぱい。今生の別れになるやもしれぬ、とわかってるからですよ。
「一期一会」は茶道の神髄ではありません。人生の神髄なんですよね。
最愛の人は手の届かない処にいってしまった。あの笑顔も2度と見られない。涙も出ません。心が渇ききってそんな余裕はありませんもの。
現実なんて受け容れようがありません。身体にも精神にもそんなキャパなんてありません。夢か現かわかりません。
仏教では七七日=四九日間は、死者の魂が成仏せずにさまよっている「中陰」「中有」と呼ばれています。この忌明けまで7日ごとに法要を行います。四九日目は納骨ですよね。
そして100日目を「卒哭忌」と言います。もう泣くのはこの日で終わりだよ、という日ですね。タイトルの「百日告別」もそういうことでしょ。たぶん。。。
監督はトム・リン(=林書宇)。
「妻が亡くなったのは12年7月。僕はキリスト教信者ですが妻は仏教徒なので、初七日から四九日までお寺に通い読経をしました」
「お寺のある山上から麓に下りるバスでいろんなことを考えている時、ふっと映像が浮かんだのです。2人の主人公が同じ時に愛する人を亡くし、同じようでもあり違うようでもある、という中で事実に向き合っていく、という話です」
「いまはとても平穏です。死は生命の一部分である、という言葉を完全に受け止められるようになったからでしょう。けっして孤独ではないと気づきました。僕は妻の愛と思いとともに映画を作り続け、そして生きていきます」
これ、すべてトム・リン監督の独白なんですよ。つまり、この映画は彼の体験談にほかならないんです。
この映画を作ることで彼は救われたと思いますよ。というのも、本人も周囲も気づきませんが、サプライズは人の心身のバランスを崩します。崩れたら崩れるに任せるのがいちばんいいんですけど、人間はバランスをとろうと懸命になる。心と魂のレベルでもね。
身体のインバランスは治りますけど、心と魂のそれは時間がかかります。もしかすると永遠に治らないかもしれません。
愛する人が亡くなる副作用は愛した人を心と魂レベルで殺してしまうことにあります。
いままで外に出せなかった「心と魂の叫び」を吐き出せるようになったらバランスが修正されつつある証拠です。つうか、外に吐き出すチャンスをみずからつくらなくちゃ。
トム・リンは映画監督、脚本家として、「愛する人の死」をもう1人の自分に総括してあげるチャンスに恵まれたわけで、結果として、彼自身を癒すことになりました。おそらく亡き妻の配慮でしょう。
「私の死から逃げないで。あなたがあなたとして生きるには直視するしかないのよ」とね。
死と再生。亡くなった人が生きている人を再生させる物語。
死はない。生命の一部分である。生きている人は亡くなった人たちに守られて生きている・・・これが真実であることを10日と13日の「通勤快読」でたっぷりご紹介しましょう。お楽しみに・・・。
愛別離苦・・・時しか解決できないよなあ。やっぱ。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「熊野 神と仏」(植島啓司・九鬼家隆・田中利典著・2,160円・原書房)です。