2017年08月07日「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」
カテゴリー中島孝志の不良映画日記」
業務連絡・業務連絡・・・9月の「新潟片貝花火ツアー」ですが20人を超えましたので締め切らせて頂きます。
参加希望者には昨日メーリングリストを流しました。「届いてないぞ!」つう方はメルヘンよろしく。「ダメなっちゃった」つう方もメルヘンよろしく。
ただの花火じゃないのよね。町の人たちが還暦祝いとか出産祝いとか初盆などをきっかけに打ち上げる「物語花火」なんすよ。だから長岡の花火以上に人気があるんです。いつもの桟敷は目の前に遮るものはなにもありません。ゆったり横になって満喫できます。サイコーのロケなんすよ。
「水は 渇きによって 教えられる
陸は 渡ってきた 大洋によって
恍惚は 苦悶によって
平和は 語られる戦闘によって
愛は 形見の肖像によって
鳥は 雪によって」
「成功をもっとも心地よく思うのは
成功することのけっしてない人たち。
甘露の味を知るには
激しい渇きがなければならぬ。
今日敵の旗を奪った
くれないに映える軍勢の誰ひとりとして
勝利とはいかなるものか
はっきりと定義することはできぬ」
エミリ・ディキンソン。アメリカのニュー・イングランドの田舎町に生まれ、外に出ることもなく、詩を書いて過ごした女性。
かといって、生前に印刷されたのは10篇だけ。それもすべて匿名。詩人としても無名。世間の人は存在すら気づきませんでした。
いまや、ウォルト・ホイットマンと並ぶ、アメリカを代表する詩人。
最期は兄と妹に見守られて亡くなりました。尿毒症だったんじゃないかなあ。56歳。
そんな彼女の映画です。
演じるのはシンシア・ニクソン。といって、ピンと来なければ、『セックス・アンド・ザ・シティ』で赤毛の女性弁護士ミランダを演じてた人。私サマンサやってたキム・キャトラルが好みだけどね。
父親は弁護士。州議会議員や下院議員もつとめた名士。
自分という意識に目覚めるに連れて生きにくくなっていきます。「信仰復興運動」てのがありまして、地獄の怖さを説くと同時に、信仰告白を要求するわけ。アメとムチですな。ピューリタリズムてのは、人が死後、救われるかどうかは神の一方的な意思によるものと考えられています。カルヴァン派がそうです。
で、彼女を除く家族はぜんぶ信仰告白をします。ほかの人もしますよ。別に踏み絵ほどのもんじゃないんだから。けど、自分に正直であろうとするとどうしてもできない。しだいに礼拝までを避けるようになっていきます。
う〜ん。ピュアというか、清濁併せのむことができない、というか、しかし、クリスチャンには少なくありません。これを受け容れちゃうと私の人格がすべて崩壊しちゃいます、というほど、大きな問題なのね。アルコールもそうですし、モルモン教徒なんてコーヒーもそうです。
「わたしがもう生きていなかったら
駒鳥たちがやって来た時ー
やってよね、赤いネクタイの子に、
形見のパン屑を。
深い眠りにおちいって、
わたしがありがとうをいえなくっても、
分かるわね、いおうとしているんだと
御影石の唇で!」
「戦いに敗れた兵士――死に瀕し――
聞こえなくなっていくその耳に
遠くの勝ち誇った歌声が
はっきりと苦悶にみちてどよめく兵士ほどには! 」
「百年の後は
その場所を知る人もない
そこでなされた苦悩も
今は平和のように静か
雑草が誇らしげに肩を並べ
ときおり道に迷った旅人が
もう遠い死者の
寂しげな墓碑の綴り字を探った
夏の野を過ぎる風だけが
この道を思い出す
本能が記憶の落していった鍵を拾う」
白いドレスを着て屋敷から出ることなく孤独な生活を送り、数多くの詩を書き残す。ある意味、世捨て人。ある意味、内観人間。けど、激しく周囲とぶつかり合うばかりで、「もう少し柔軟になりないの!」と彼女を支え続けた妹から諭される始末。
けど、そういう生き方ができるならとっくにしてるわけで。。。人ってのは自分流の生き方しかできんのですよ。
いまの世の中がとても生きにくい、という人にはとくに強い共感を呼ぶと思うな。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「生きるとは、自分の物語を作ること」(小川洋子・河合隼雄著・432縁・新潮社)です。
参加希望者には昨日メーリングリストを流しました。「届いてないぞ!」つう方はメルヘンよろしく。「ダメなっちゃった」つう方もメルヘンよろしく。
ただの花火じゃないのよね。町の人たちが還暦祝いとか出産祝いとか初盆などをきっかけに打ち上げる「物語花火」なんすよ。だから長岡の花火以上に人気があるんです。いつもの桟敷は目の前に遮るものはなにもありません。ゆったり横になって満喫できます。サイコーのロケなんすよ。
「水は 渇きによって 教えられる
陸は 渡ってきた 大洋によって
恍惚は 苦悶によって
平和は 語られる戦闘によって
愛は 形見の肖像によって
鳥は 雪によって」
「成功をもっとも心地よく思うのは
成功することのけっしてない人たち。
甘露の味を知るには
激しい渇きがなければならぬ。
今日敵の旗を奪った
くれないに映える軍勢の誰ひとりとして
勝利とはいかなるものか
はっきりと定義することはできぬ」
エミリ・ディキンソン。アメリカのニュー・イングランドの田舎町に生まれ、外に出ることもなく、詩を書いて過ごした女性。
かといって、生前に印刷されたのは10篇だけ。それもすべて匿名。詩人としても無名。世間の人は存在すら気づきませんでした。
いまや、ウォルト・ホイットマンと並ぶ、アメリカを代表する詩人。
最期は兄と妹に見守られて亡くなりました。尿毒症だったんじゃないかなあ。56歳。
そんな彼女の映画です。
演じるのはシンシア・ニクソン。といって、ピンと来なければ、『セックス・アンド・ザ・シティ』で赤毛の女性弁護士ミランダを演じてた人。私サマンサやってたキム・キャトラルが好みだけどね。
父親は弁護士。州議会議員や下院議員もつとめた名士。
自分という意識に目覚めるに連れて生きにくくなっていきます。「信仰復興運動」てのがありまして、地獄の怖さを説くと同時に、信仰告白を要求するわけ。アメとムチですな。ピューリタリズムてのは、人が死後、救われるかどうかは神の一方的な意思によるものと考えられています。カルヴァン派がそうです。
で、彼女を除く家族はぜんぶ信仰告白をします。ほかの人もしますよ。別に踏み絵ほどのもんじゃないんだから。けど、自分に正直であろうとするとどうしてもできない。しだいに礼拝までを避けるようになっていきます。
う〜ん。ピュアというか、清濁併せのむことができない、というか、しかし、クリスチャンには少なくありません。これを受け容れちゃうと私の人格がすべて崩壊しちゃいます、というほど、大きな問題なのね。アルコールもそうですし、モルモン教徒なんてコーヒーもそうです。
「わたしがもう生きていなかったら
駒鳥たちがやって来た時ー
やってよね、赤いネクタイの子に、
形見のパン屑を。
深い眠りにおちいって、
わたしがありがとうをいえなくっても、
分かるわね、いおうとしているんだと
御影石の唇で!」
「戦いに敗れた兵士――死に瀕し――
聞こえなくなっていくその耳に
遠くの勝ち誇った歌声が
はっきりと苦悶にみちてどよめく兵士ほどには! 」
「百年の後は
その場所を知る人もない
そこでなされた苦悩も
今は平和のように静か
雑草が誇らしげに肩を並べ
ときおり道に迷った旅人が
もう遠い死者の
寂しげな墓碑の綴り字を探った
夏の野を過ぎる風だけが
この道を思い出す
本能が記憶の落していった鍵を拾う」
白いドレスを着て屋敷から出ることなく孤独な生活を送り、数多くの詩を書き残す。ある意味、世捨て人。ある意味、内観人間。けど、激しく周囲とぶつかり合うばかりで、「もう少し柔軟になりないの!」と彼女を支え続けた妹から諭される始末。
けど、そういう生き方ができるならとっくにしてるわけで。。。人ってのは自分流の生き方しかできんのですよ。
いまの世の中がとても生きにくい、という人にはとくに強い共感を呼ぶと思うな。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「生きるとは、自分の物語を作ること」(小川洋子・河合隼雄著・432縁・新潮社)です。