2017年11月08日「道」

カテゴリー中島孝志の不良映画日記」

 月曜日の「通勤快読」は『洋子さんの本棚』を取り上げましたが、お二人が学生時代にフェデリコ・フェリーニの『道』をご覧になって、いたく感動した、というお話がありました。この映画大好きなんで、ついつい話すぎてしまいました。

 リスナーの中には奇特な方がいまして、その話が良かった、と木に登らせてくれるんでげすよ。ああ、そういえば、以前、ブログで紹介したなあ、と思い出したら、なんと12年前でしたよ。12年前・・・2005年。何やってたかなあ。

 「好きだなぁ、この映画。学生時代も含めると、たぶん30回以上は見てると思うな。
 連休中に2冊の校正チェック、2冊の書き下ろし。だから、♪時間は大事だよ。アフラック!♪
 にもかかわらず、また見いちゃった。書斎には映画のDVDが山ほどあんだけど、忙しくなればなるほどこういうの引っ張り出しちゃうのよね。クビを絞めることがわかってんのにさ(人間、なかなか変われないもんすね)。

 道。いったいどこにつながってるのやら。イタリア語では「la strada」。そう、パナソニックのカーナビのブランド名よ。ここからとったんだろうな。
 
「同行2人」という言葉をお遍路さんはよく言うよね。
 1人でも2人、3人旅なら4人。弘法大師がついてる道行(みちゆき)。だから「道行2人」でもあんのよ。
 
 さて、主人公ザンパノ(アンソニー・クイン)は「鋼鉄の肺」で売ってる大道芸人。といっても、粗鉄の鎖を力任せに引きちぎる芸ね。粗野で愚かで暴力を奮うことでしか自己表現できない不器用な男。バイクに小さな小屋をつけて、村から村へと歩く貧しい旅芸人。



 ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)は、ザンパノに1万リラで買われた女。ザンパノの手伝いをする天真爛漫な女。
 ザンパノとの旅生活は辛いことばかり。だって、優しさの欠片もない男だもん。何の芸もできないからバカにされ、穀潰し扱いされるんだけど、ほかに頼る人間はいない。嫌いだけど、「ザンパノ、ザンパノ」と頼るしかない。

 それに男と女。一緒に旅を続けていると親愛の情が湧いてくるものさ。

 ザンパノは旅先で女と親しくなる。服をくれたり、食べ物をくれる女とすぐに寝る。それが嫌でジェルソミーナは1人で街を彷徨う。

 その夜、華麗な芸を披露する綱渡りの男と出会った。その男、ザンパノとは犬猿の仲。綱渡り男はザンパノと会うとなぜかからかいたくなる。で、いつも喧嘩。

「私なんかなんの役にも立たないの」
「この世にあるものはすべて何かの役に立ってる。この小石だってそうさ。おまえに芸を教えてあげよう。ね、どうしてザンパノと暮らしてる? 逃げたくないのか?」
「何度も逃げた。そのたびに殴られた」
「どうして、ザンパノはおまえを捨てないんだ? 俺だったら一発で捨てるのに・・・そうか、ザンパノはおまえに惚れてるんだ」
「えっ、この私を?」

 綱渡り芸人はジェルソミーナにラッパを教えます。もの悲しいメロディなんですよね。これが。



 仲のいい2人をやっかんだザンパノはまたまた喧嘩。警察まで来る大騒ぎで2人ともサーカスから追い出されてしまう。
「ザンパノと別れてうちにおいで。食べさせてあげるよ」とみなに言われるジェルソミーナ。けど、彼女は警察の前でザンパノを待つんだよなあ。ここまで送ってくれたのはあの綱渡り男なんだよね。

 男の選択を間違ってるわな。けど、男と女なんてそんなものかもしれませんな。理屈じゃないから。理屈で付き合ってる女いますよ。「あの男のどこが好き?」「う〜ん、カードかな」だって。ウケるわ。

 ザンパノとジェルソミーナは次の村に行く途中、修道女を乗せ、そのまま教会に泊まらせてもらいます。この時、ザンパノは銀製のキリスト像を盗んじゃう。「泥棒はいけないよ」と最後まで彼女は反対するんだけどね。

 ジェルソミーナは自分たちのしたことが恥ずかしくて、修道女たちには目を向けられないの。

「ここで暮らせるように頼んであげる」
「ううん、できない」
「いつも旅なの?」
「そう、あなたは?」
「2年おきに教会を移るわ」
「なぜ?」
「土地に愛着が湧いたら、神様に仕えられないもの」

 愛着は未練の別名だもんね。

 次の村に急ぐ途中でパンクで困ってる綱渡り男に出会います。
「手伝ってくれよ。いつか手伝うからさ」
 ザンパノはいきなり綱渡りの顔面にパンチをお見舞。打ち所が悪くて綱渡り男は死んじゃうの。

「だれにも見られてない。心配するな。殺す気はなかったんだ」
「彼の様子が変よ変よ」と壊れたように繰り返すジェルソミーナ。

「俺には生きる権利がある。メシ代を稼ぐにはこんなところにはいられないんだ」
「わたしがいなければあなたは独りぽっちよ」
「刑務所なんてまっぴらだ」
「彼の様子が変よ変よ」と、ジェルソミーナは狂ったように泣き出しちゃう。

 ザンパノは壊れたジェルソミーナをここで捨てます。



 それから4〜5年後。初老になったザンパノは相変わらず「鋼鉄の肺」の芸で糊口を凌ぐ大道芸生活をしてます。海水浴場で稼ぐ合間に街を散歩してると、どこからともなくあのメロディが聞こえてきます。

「いったいどこから?」

 耳を凝らすと、村娘が洗濯物を乾しながらハミングしてるわけ。

「そのカンツォーネは?」
「ああ、あなた、サーカスの人でしょ。昔、ある女がよくラッパを吹いてたの」
「その女はどうした?」
「死んだわ。高熱で弱ってたから私の父が家に連れてきてあげたの。ご機嫌のいい時はあの砂浜でラッパを吹いてたわ。昔、旅芸人をしてたとか」

「・・・死んだのか」

 その夜、ザンパノはしたたかに酔っては喧嘩します。「俺は1人でたくさんだ」と呟きながらジェルソミーナが愛した砂浜にやってきます。

 そして、号泣するのよね・・・。

 なぜ泣いたんでしょうねぇ? 悪党らしくもない。悪党なら悪党らしく涙なんか流さず、「バカな女だぜ」と吐き捨てればいいのに。

 罪悪感? 寂寥感? 孤独感?

 ジェルソミーナは、なんの見返りも要求しなかった。いつも殴られ、いつもバカにされ、いつもほかの女と大っぴらに浮気され、いつも物扱いされた。けど、いつも真心を込めて尽くしてくれた。坂田三吉の女房の小春か、中村仲蔵の妻お岸だぜ。

 純愛? 献身? 腐れ縁? たんなるバカ?

 ジェルソミーナに俺は何をしてやっただろ? してやろうと思えばいくらでもできたけど、ジェルソミーナのことなど視野になかった。利用するだけ利用して・・・捨てた。

 懺悔の気持ち?

 ジェルソミーナさえいたら楽しく暮らせた。カネもなにもないけど幸せだった。だって、バカだけど、あの女はいちばん大切なことを知ってるから。ザンパノはいまようやく気づいた。ラッパの音でね。

 罰は死ぬまで孤独と一緒に生きていくこと。

 人間、元気なうちは気づかない。持ってる間は気づかない。恵まれてる時は気づかない。なくしてはじめてわかる。

 なぜ? 「無意識」の前には「意識する力」なんて微々たるものだからですよ。無意識の世界って魂のレベル、神仏の世界ですから。
 「心をコントロールする」なんてのは神をも懼れぬ暴言。せいぜいできて「心を調和すること」くらいっしょ。大宇宙の法則に則って生きているかどうか。平たく言えば、どこから斬ってもジェルソミーナになれるか、ってことかも。

 どこから斬ってもザンパノ・・・そりゃわしのことでっけど。」


 さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「新しい分かり方」(佐藤雅彦著・2,052円・中央公論新社)です。