2018年03月21日花組「ポーの一族」

カテゴリー中島孝志の落語・演劇・タカラヅカ万歳!」

 生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめに暗く、死に死に死んで、死の終わりに冥し。。。

 ご存じ、空海の『秘蔵宝鑰』冒頭部ですね。あまりにも有名ですが、解釈がなんとも難しい。
 敬愛する吉川政瑛さん(名古屋・宝蔵院住職)は「生きているときは生きることに絶対的な覚悟をもって集中せよ。死後のことなど憂慮するな。そんな暇があれば、どう生きれば自分らしいか、を考えて行動せよ」と、手塚治虫、ジョージ秋山さんとのコラボ本を何冊も著して説いていらっしゃいます。

 この言葉。なんとも味わいがありまして、ということは、時々刻々と色が変わる。こちらの思いで何色にも変化する万華鏡のようでもありまして。

 胡蝶の夢。一炊の夢。邯鄲の夢。生のはじめと死の終わりは前後裁断ではっきり別次元のもの・・・と思い込んでいますが、はたして、これが正しいかどうかはわかりません。1人の人間における出生と死は影も形も異なりますからね。

 けど、それは「目に見える世界での話」。「目に見えない世界」となるとわからんわけです。生と死はもしかすると繋がっているかもしれない。ステージが変われば別ステージの住人にはわかりません。周波数が違えば受信できないのと同じ。

 人にできること、できないこと。できることは生と死の間のあれこれのみ。できないことも生と死の間のあれこれのみ。ただ、この生と死の間とはコインの裏表。ポジとネガ。陰と陽。あるいは「メビウスの輪」のようなもの。「死の終わり」から「生のはじめ」の間はリニアの世界とは限りません。

 16年前、まだホームページの時代に「ぼくらのトニオちゃん」という本を通勤快読で紹介してます。

 「どっかにいいバイトないかなぁ」とスネ郎とジャイ太が悩んでいます。すると、トニオちゃんがこう言うんです。
 「いいかどうかわからないけど、一瞬で100万円稼げるバイトがあるよ」
 仕事は簡単。ちょっと一瞬ボタンを押すだけ。でもボタンを押した瞬間ワープして5億年もの間、「ただひたすら生きてろ」というバイト。
 この間、寝られません。人と会話もできない。周囲は真っ暗闇。何もない空間。そこで5億年ひたすら呼吸をして生きる。死ぬこともできませんよ。
 5億年経った瞬間、またまたワープして元の場所に戻れるんです。そしてそれまでの記憶はすべて消去。ということは、本人にしてみれば、「ボタンを押したあの瞬間に戻っただけ」という感覚ですね。

 繰り返します。5億年間なーんにもしないで1人でずうううっと生きている。終わった瞬間、記憶はリセット。で、目の前には100万円。

 こんなバイトやりますか?

 ジャイ太はやるんです。そして、それを見ていた2人は「どうだった?」と聞きます。もちろん記憶はありませんから<「ただボタン押しただけだよ。こんなんで100万円くれるの?」と喜んでる。
 で、もう1回チャレンジしちゃう。そして、100万円を手に入れます。

 スネ郎は「オレにもやらせてくれ!」とボタンを押してしまうんですね。するとワープして別世界に飛んでしまいます。気づくと、そこは5億年の世界。ここでとことん生きるわけですが、さすがに手持ちぶさたでね、最初は1人ジャンケンなんかするわけ。どうやるって右手と左手で勝負するだけ。
 こんなことはすぐ飽きちゃう。で、今度は妄想の世界に耽る。これも40年で飽きちゃった。よく40年もできたよね。でね、まだ先は長い長い長い。

 もう何もする気が無くなります。100年過ぎます。あと499999900年もあります。もう考えることすらしなくなります。最後の最後は悟りきっちゃう。
 5億年後によみがえると記憶は消去されてまして、目の前には100万円の束。

 それを見た瞬間ガンガン押しちゃう。トータル5億年、往復16コースの死のない世界への旅。

 行きたいですか?



 1880年ごろ、海辺の街にポーツネル男爵一家。ロンドンから来たことは街で評判。夫妻とエドガーとメリーベル兄妹は田舎町には似つかわしくない気品。
 その美しさは魔性のなせるわざ。実は、彼らは人の生血を吸うバンパネラ「ポーの一族」。獲物を探して狩りに来たのです。

 1972年「別冊少女コミック」に発表以来、大ヒット。萩尾望都さんの原作です。

 この作品をミュージカルにしたいと夢見て入団した小池修一郎さん。演出家の端くれだった頃、ホテルの喫茶室で望都さんと遭遇。「2度と会えない」とおそるおそるミュージカル化を申し出たのが30年前。

 人に生まれて、人ではなくなり、愛の在り処を見失った・・・。

 エドガーを演じるのは、もちろんトップスター明日海(あすみ)りおさん。原作は14歳。資産家の跡取り息子にして孤独な少年アランには柚香光(ゆずかれい)さん。
 
 なんとも美しい少年による幻想的な舞台です。女性陣の瞳はハートマーク確実でしょうな。

 不老長寿という永遠の生を受けたものの、なんの希望もない人生。「希望」というモチベーションがなければ「生きている」とは言えないのでしょう。エドガーの絶望感たるや深すぎます。かといって、どんなに希望を抱いていても「死の神」は引き連れていってしまいますけどね。

 けど、「死期はついでを待たず」と兼好法師がいうように、先のことなどだれにもわかりゃしないのです。なにより、ほとんどの人は死のことなど意識して生きちゃいません。ということは、実は「生」も意識しちゃいないわけです。

 油断してますな。死は生の中にあり、生は死の中にあるわけでね。

 ま、こんなことを思い知らされるのは「余命宣告」された人くらいでしょうか。落ちていく砂の一粒一粒がなんとも貴重で儚いものか、とつくづく感じてなりませんな。いつも会ってた人が新鮮に見える。命が新鮮だからでしょ。目に入る風景がすべて輝いて見える。命が輝いているからでしょ。

 「儚い」という字もよくまあ巧く作られたものだ、と思います。

 いい作品というのはいろんなことを考えさせてくれますな。ただ、ほとんど記憶にないってことが哀しいけどね。

 人は不幸になるために生まれてきたわけじゃありません。幸せになるために生まれてきたんです。けど、この幸せを邪魔するのはほかのだれでもない、自分自身なんすよ。

 ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比(続古今和歌集)
 22歳で出家・・・降り積もった雪もすっかりとけているはず。吉野山に西行庵を訪ねてみようか。