2018年10月10日「教誨師」
カテゴリー中島孝志の不良映画日記」
大杉漣さん主演、最初にして最後のプロデュース映画。
大杉さんの役は、プロテスタント牧師。拘置所に通いはじめてまだ半年。死刑にも立ち会ったこともない「教誨師」です。
とっても重たい映画です。タイプのまったく異なる、6人の死刑囚(正確には死刑確定者、と呼ぶらしい)と面会を続けます。
なんのためにやってんだろ。神のため? 自分のため? 使命感? いえいえ、ホントの処、私は、『業』ではないか、と思います。いちばん近い言葉はそれだな。
原案、脚本は佐向大監督が書いてますので、まったく別物ですが、同じタイトルの本が出版されてます。これが傑作でしてね。
半世紀にわたり、「教誨師」として死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会ってきた、ある僧侶の物語なんです。
その僧侶は渡邉普相さん。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束だったらしいですね。
死刑囚とどう向き合えばいいのか? 死をどう納得させればいいのか? 重圧の中、アルコール依存症になってしまいます。そして病院から通う始末。
大杉さん演じる牧師も同じです。酒に逃げないと死んでしまうほど苦しかったんでしょう。罪と罰。けど、死を納得できる人なんてめったにいませんよ。
私はいつでも死ねる、もう死んでいるからかまわない、と思ってますけど、いざとなれば、死にたくない、どうしてオレなんだ、ふざけんな、と喚くかもしれません。
死刑執行直前、長年にわたって付き添ってきた死刑囚に最後の教誨をする。
仏壇の前でお勤め。「讃仏偈」を大きな声を出す。声を出すことで落ち着く、とか。最後にお茶を出す。
「執行がイヤだったら大きな声で喚きなさい。泣いても喚いても、浄土往生の妨げにはなりません。思い切り喚きなさい」
しかし、喚きもせずいい顔をしている、といいます。
「あの人たちは日ごろから、『死』を心の中に持ち続けています。残酷かもしれません。しかし本人たちは長い間、それを持ちながら生きてきたのです。毎日刑の執行をイメージし覚悟してるんです。
結局、最後は阿弥陀如来のお慈悲の中に救われていくことを受け取っているんです」
「あの人たちのことを怖いと思ったら、相手は見抜きますよ。腹を据えて見ていなさい」と師匠から言われたとか。
「先生、引導を渡して下さい」
「真宗に引導なんてない」
ところが、師匠は「死ぬんじゃない、浄土に生まれるんじゃ。喝っ!」とすかさず言ったそうです。
「ああ、生まれるんですね」とニッコリ。
「私も後から行きますから。待っててくださいよ」
たいしたもんです。
事件のことは話さないし聞かない。調書を一度読むくらいで教誨にはあまり必要ではない。死刑囚は人を殺している。その人の供養のためだけに教誨を受け始めるんです。
大杉さんの牧師はちがいます。
殺したばあさんが化けて馬乗りになって首を絞めてくる、と幻覚に襲われた死刑囚がいた。本人の心が教誨を受けようと開かれるまでには時間がかかります。
映画はちがいます。ストーカーで一家惨殺した死刑囚はとことん自分に都合のいい解釈をします。
ある母親は、明日、死刑が執行される息子を抱きしめ、「勘弁してね、許してね」と懸命に詫びていた。産んだ子を死刑になるような人間に育ててしまった。父親はあんなヤツ勘当だと言うけど、母親は違う。
「自分が悪いんです」
いつまでも息子から離れない。
「時間でございます。今生の最後です。お母さん、よく顔を見ておいてください。もし息子さんに会いたかったら、今度はあなたが仏法を聞くんです。それ以外に会う道はありません」
息子は独房で声を上げて泣く。
「母をあんなに悲しませた。なんてことをやってしまったんだ」
何年かかって教誨するより母親のひと言の方がよっぽど大きな力を持っている。
どこでどう道を誤ってしまったのか? 教誨師と死刑囚。入れ替わっていたかもしれません。因縁次第ではだれでも死刑囚になります。
愛する人を哀しませたくない。これが歯止めかな。
映画では、大量殺人を冒した青年を演じた玉置玲央さんが光ってたね。超お勧めです。
愛すれば愛される。憎めば憎まれる。
信じれば信じられる。疑えば疑われる。
与えれば与えられる。奪えば奪われる。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「今、心配されている環境問題は、実は心配いらないという本当の話」(武田邦彦著・ 1,404円・山と渓谷社)です。
大杉さんの役は、プロテスタント牧師。拘置所に通いはじめてまだ半年。死刑にも立ち会ったこともない「教誨師」です。
とっても重たい映画です。タイプのまったく異なる、6人の死刑囚(正確には死刑確定者、と呼ぶらしい)と面会を続けます。
なんのためにやってんだろ。神のため? 自分のため? 使命感? いえいえ、ホントの処、私は、『業』ではないか、と思います。いちばん近い言葉はそれだな。
原案、脚本は佐向大監督が書いてますので、まったく別物ですが、同じタイトルの本が出版されてます。これが傑作でしてね。
半世紀にわたり、「教誨師」として死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会ってきた、ある僧侶の物語なんです。
その僧侶は渡邉普相さん。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束だったらしいですね。
死刑囚とどう向き合えばいいのか? 死をどう納得させればいいのか? 重圧の中、アルコール依存症になってしまいます。そして病院から通う始末。
大杉さん演じる牧師も同じです。酒に逃げないと死んでしまうほど苦しかったんでしょう。罪と罰。けど、死を納得できる人なんてめったにいませんよ。
私はいつでも死ねる、もう死んでいるからかまわない、と思ってますけど、いざとなれば、死にたくない、どうしてオレなんだ、ふざけんな、と喚くかもしれません。
死刑執行直前、長年にわたって付き添ってきた死刑囚に最後の教誨をする。
仏壇の前でお勤め。「讃仏偈」を大きな声を出す。声を出すことで落ち着く、とか。最後にお茶を出す。
「執行がイヤだったら大きな声で喚きなさい。泣いても喚いても、浄土往生の妨げにはなりません。思い切り喚きなさい」
しかし、喚きもせずいい顔をしている、といいます。
「あの人たちは日ごろから、『死』を心の中に持ち続けています。残酷かもしれません。しかし本人たちは長い間、それを持ちながら生きてきたのです。毎日刑の執行をイメージし覚悟してるんです。
結局、最後は阿弥陀如来のお慈悲の中に救われていくことを受け取っているんです」
「あの人たちのことを怖いと思ったら、相手は見抜きますよ。腹を据えて見ていなさい」と師匠から言われたとか。
「先生、引導を渡して下さい」
「真宗に引導なんてない」
ところが、師匠は「死ぬんじゃない、浄土に生まれるんじゃ。喝っ!」とすかさず言ったそうです。
「ああ、生まれるんですね」とニッコリ。
「私も後から行きますから。待っててくださいよ」
たいしたもんです。
事件のことは話さないし聞かない。調書を一度読むくらいで教誨にはあまり必要ではない。死刑囚は人を殺している。その人の供養のためだけに教誨を受け始めるんです。
大杉さんの牧師はちがいます。
殺したばあさんが化けて馬乗りになって首を絞めてくる、と幻覚に襲われた死刑囚がいた。本人の心が教誨を受けようと開かれるまでには時間がかかります。
映画はちがいます。ストーカーで一家惨殺した死刑囚はとことん自分に都合のいい解釈をします。
ある母親は、明日、死刑が執行される息子を抱きしめ、「勘弁してね、許してね」と懸命に詫びていた。産んだ子を死刑になるような人間に育ててしまった。父親はあんなヤツ勘当だと言うけど、母親は違う。
「自分が悪いんです」
いつまでも息子から離れない。
「時間でございます。今生の最後です。お母さん、よく顔を見ておいてください。もし息子さんに会いたかったら、今度はあなたが仏法を聞くんです。それ以外に会う道はありません」
息子は独房で声を上げて泣く。
「母をあんなに悲しませた。なんてことをやってしまったんだ」
何年かかって教誨するより母親のひと言の方がよっぽど大きな力を持っている。
どこでどう道を誤ってしまったのか? 教誨師と死刑囚。入れ替わっていたかもしれません。因縁次第ではだれでも死刑囚になります。
愛する人を哀しませたくない。これが歯止めかな。
映画では、大量殺人を冒した青年を演じた玉置玲央さんが光ってたね。超お勧めです。
愛すれば愛される。憎めば憎まれる。
信じれば信じられる。疑えば疑われる。
与えれば与えられる。奪えば奪われる。
さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「今、心配されている環境問題は、実は心配いらないという本当の話」(武田邦彦著・ 1,404円・山と渓谷社)です。