2006年11月13日「田村高廣の想い出」 渡辺一雄著 ビジネス社 1575円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

 4月の「キーマンネットワーク」は映画制作のキックオフ・イベントとして開催しましたが、この時、監督の神山征二郎さん(「ハチ公物語」の監督)ほか3人のゲストスピーカーをお招きしたシンポジウムの前に、監督の代表的な作品を編集して上映しました。
 それが200万人動員した「月光の夏」です。陸軍特別攻撃隊「隼」に乗った若者をテーマにした映画ですね。後半、その生き残りの1人として演じた俳優がいます。
 名優、田村高廣さんです。

 田村高廣さん、といってピンと来ない人は、戦後の大スター阪妻の長男とか、古畑任三郎役の田村正和さんの兄といえばいいでしょうか?
 それとも、NHKの「司馬遼太郎の街道を行く」のナレーターとか。あるいは、映画「兵隊やくざ」の有田上等兵といえばいいかな?

 私が田村さんを知ったのは、もちろんテレビです。
 小学生の頃、「兵隊やくざ(大映作品)」がテレビで上映され、子どものくせに妙に面白くて夢中になって見てました。勝新太郎さん演じる大宮上等兵。それに憲兵役の成田三樹夫さん。いい役者でがっちり固めてましたね。

 なんて理知的な顔をした人だろう。最初の印象はこのひと言です。
 やっぱり、顔には品格があらわれますね。

 著者は田村さんの中学時代からの親友です。田村さんは京都三中(現山城高校)をトップで入学。これには、父親の阪妻も大喜び。新入生代表の挨拶など、近くの神社に引っ張り出して練習させたそうです。
 「もっと大きな声で!」とかね。時々、自分がかわってお手本を見せたりね。入学式当日、この子煩悩な父親はそっと隠れて見ていたらしい。後日、付き人が教えてくれました。

 ひと言で言えば、大人。子どもの頃から、なんとも老成した人ではなかったでしょうか。

 「僕は納屋さんに危機を救ってもらったんだ。撮影の関係で葬儀にいけないので、僕の分も一緒におまいりしてくれないか」と著者に頼みます。

 納屋さんとは淡交社の創業者納屋嘉治さんのこと。三中の2年先輩ですね。茶道裏千家家元千玄室さんの弟さん。
 どうしてこの人が恩人かというと、「剣豪の息子がどうして立ち合えないんだ!」と絡まれたことがあるんです。田村さんは剣道部の猛者だから受けて立つ手もあります。けど、そんなことをしたら、「剣豪の息子、死闘で大立ち回り」と芸能欄にかき立てられるのは目に見えています。だから、絶対に竹刀を手に取らなかった。にもかかわらず、絡んでくる。

 そこに登場するのが納屋さんだったんですね。
 「僕が代わりに立ち合うよ」
 結局、納屋さんの突きが決まって相手は大けがをさせてしまいます。停学1日。しかし、担任は勉強が遅れないようにと自宅に家庭教師に来る。
 無我をさせた生徒の父親は医師会のボス。ところが、この父親が子どもを連れて納屋さんの家と学校に、「私の指導がなっていませんでした」と謝罪に来た。親も教師も偉かった。以来、この2人は仲良くなります。

 「三中はいい学校だった」が田村さんの口癖だったそうです。

 子どもにとって、教師が好きかどうか、クラスメートが好きかどうか、学校が好きかどうか、住んでいる地域が好きかどうか・・・これは生き方を左右するほど大きいものです。

 「愛国心をはぐくむ教育をする!」なんて政府はスローガンを掲げてますけど、いちばん大切なことはここにあるんだと思います。子どもにとって、「国」など遠くてとっても抽象的でものです。「愛国心」なんて言ってもピンと来ないでしょうな。

 私など、日本という国を見直したのは海外に出てからですよ。
 南米やアジア等々の辺境地に行っても、「円」が強かった。みな、自国通貨ではなく「円」と「$」をほしがった。とくに壱万円札は大人気。それに「日本人」だとわかると、「うちの娘もらわないか?」と真剣に誘われるんです。
 日本及び日本人は信用があるんです。
 すげえじゃん、ニッポン!

 それがどうしていきなりここまで飛ぶんでしょうかねぇ? 愛国心なんていくら押しつけても無理です。北朝鮮のように情報操作された一神教国家じゃないんですからね、日本は。
 まず、自分のいちばん近い人たちを好きになる。たとえば、家族とかクラスメート、塾の友達とかね。それから世界が広がってくる。学校、地域、故郷・・・最後の最後に来るのが国でしょ。身近な世界を好きになれない人が、どうして愛国心など持てるのでしょうか? 不思議ですね。

 いじめで苦しんでいる子ども。親からの虐待、友達からの虐待、教師からの虐待、地域からの虐待・・・愛国心など生まれるわけがありませんよね。

 さて、田村さんは戦後、同志社大学を卒業すると貿易商社に勤めます。そんなある日、父親と2人の時にこんなことを聞かれます。
 「仕事は面白いか?」
 「はい、とっても面白いです」
 「・・・」

 もともと、田村さんは映画の世界に進もうとは露ほども考えていませんでした。演技の勉強もしていない自分が親の七光りで飛び込むほど甘くはないし、それでは失礼だ。親の顔に泥を塗る、とも考えていたようですね。
 しかし、事態は急変します。阪妻が51歳の若さで急逝したんです。

「遺言として聞いてもらへまへんか?」と付き人から父親の話を聞きます。
 「高廣があと、継がんかなぁ」と口癖のようにこぼしていた。父親は息子の意思を優先したいから、押しつけなかった。だから、あの時、それとなく聞いたんでしょうね。
 「僕は間髪を置かずに答えた。はい、とっても面白いです、と」
 そんな息子に父親はなにも言えないですね。

 晩年、田村さんは「語り部として生きたい」とよく言っていたそうです。
 語り部とは、あの戦争の語り部という意味です。戦後60年も過ぎ、戦争は風化するばかり。しかし、あの戦争を生きた人間として伝えなければいけないことがある、と考えていたのです。

 三中の有志が集まり、勤労動員中、東南海地震で死んだ13人の級友の殉難記録を編集します。「紅の血は燃ゆる」というタイトルで出版されました。田村さんも編集に加わっています。

 編集作業中に、いつもは温厚な田村さんががらりと変わったことがあります。

 「平素は政治的な発言を控えている私だが、落合君の日記の『戦陣訓』のくだりでは憤りが抑えきれず、返事を書かねばと思いながらなかなか筆がとれなかった」

 「『戦陣訓』に『生きて虜囚の辱めを受けず』とある。戦争はしてはいけない。当然のことだ。しかし現実には戦争は世界のあちらこちらで続いている。その前提で先人は知恵を絞った。その一つが、非戦闘員は絶対に殺戮してはいけないというルールだ。原爆はそのルールを破った。もう一つは、白旗を掲げて軍門に降ってきた人間は許すというルールだ。(中略)むやみやたらに犠牲者を出さないように、という先人の知恵だ。
 ところが、東條英機は陸相として『生きて虜囚の辱めを受けず』と部下に命じ、せっかくの先人の知恵を否定した。『戦陣訓』の呪縛のために沖縄戦では身に寸鉄も帯びない一般市民が最後の抵抗を余儀なくされ、洞穴の中で米軍の火焔放射機により焼き殺されたり、崖の上から海に身を投じて死ぬなどした。『戦陣訓』の罪はあまりにも重い」

 「為政者の務めは国民の生命を守ること。僕たちの仲間13人は地震で死んだのではなく、誤った為政者によって惨殺されたといっていい。翻って、現在の為政者はどうか? その目は国民には注がれず、ひたすらアメリカ大統領の目色顔色を窺っている。情けない限りだ。第二、第三の落合君を出さないように、僕はいま、何をすべきか、何をしなければならないか、苦渋している」

 本書は田村さんの日本人への遺言にほかならないんです。400円高。