2007年02月07日「笑う門にはチンドン屋」 安達ひでや著 石風社 1575円
チンドン屋、好きですねん。チンドン屋見かけると、後、ついてきますねん。
これじゃ、子どもだよ。
さて、チンドン屋と聞いて、なにを思い出します?
白塗り、クラリネット、太鼓に鉦、パチンコ、ちょんまげ、チラシ、懐メロ・・・。いろいろありますなぁ。
最近、見ますか? たまぁにね。
商店街の新規開店とかパチンコ屋のリニューアル・オープンとか。いろいろありますね。
あれ、ギャラ、いくらなんだろうねぇ。商店街とかあまり予算もってないようだしさ。
さて、著者は熊本出身の今年43歳。あだち宣伝社というチンドン会社を率いております。
今更なんだけど、チンドン屋の仕事って宣伝だったのね。
そりゃ、そうだよねぇ。
チンドン屋の仕事を分析すると、まず口上(「トザイトーザイ」とかね)、扮装、演奏、練り歩き、背看板、そしてビラ配りとあるよね。
中でも、いちばん大切なのはビラ(チラシ)配りなのよ。いくら、チンドン屋が記憶に残ったって、スポンサーのビラ(チラシ)を受けとってもらわなかったら話になんないでしょ。
で、このビラ配りがホントに難しいらしいね。これでチンドン屋のレベルがわかるらしいよ。
チンドン屋の始まりは飴売りだそうです。
江戸時代末期(1845年)、大阪の千日前で飴の行商をしてた飴勝という商人がその口上の腕を買われて、寄席の呼び込みを依頼されたのがきっかけ。
やっぱり、宣伝重要なんだよ。
日本で゜チンドン屋が増えたの、1931年。理由、わかる?
映画が無声からトーキーに変わったから。活動弁士がお払い箱になっちゃって、口上の巧い彼らがチンドン屋に変わった。
戦後、パチンコ屋がどんどんできたのも隆盛におおいに貢献したね。やっぱ、チンドン屋でパチンコを連想するのは正しかったんだ。
てなわけで、昭和30年代には東京で1000人、全国で2500人もいたんですよ。
この人、子どもの頃からの音楽好き。とくに楽器を使ったお笑いが大好き。
だから、「大正テレビ寄席」でも、牧伸二のウクレレ漫談を楽しみにしてた子ども。MANZAIブームの時も玉川カルテット、モダンカンカン、ちゃっきり娘のファンだった。この点、私も同じだなぁ。
音楽好きは大学時代もそう。この人、国立山口大学の農学部なのね。
キーボードやってたりして。とうとう、「たけのうちカルテット」というバンドを組んじゃった。そうなりゃ、メジャーデビューしたくなるよね。で、あの「イカ天」に出場! あれよあれよとCD発売、映画で沢口靖子さんと共演しちゃう。
けど、本人のバブルはそれまで。
博多でストリートパフォーマンスしてたら、ラジオのDJやらないかと誘われた。やったはいいんだけど、1年半でクビ。29歳の時でした。
そんなこんなしてたら、バンド時代に安くCD作ってくれたスタジオ社長から頼まれて、保証人の判子押しちゃった。これで借金をかぶります。
返さなくちゃ、けど、どうやって?
そこで、ウクレレと鍵盤ハーモニカ、それに自家製カラオケもって路上パフォーマンスにまた出ます。
これがチンドン屋になるきっかけを作ります。人生は不思議な縁がいろいろと作用してますな。
ある時、いつものように路上でパフォーマンスしてると、広告代理店の人から、
「今度、中華レストランのキャンペーンやるんだけど、チンドン屋使って宣伝やりたいんだよね。君、だれか知らないか?」
お金に困ってたでしょ。「ボクがやります」って言うわけ。
チンドン屋はじめたのはいいけど、これは奥がとっても深い。扮装1つとったって、着付けもあるし、いろんな衣装があるんだよね。
それを仕事しながら覚えていきます。バンド仲間にも頼んでサックス、クラリネット、太鼓とか手伝ってもらったりね。だんだんプロになっていくわけ。
で、従業員を募集したりします。
チンドン屋はやっぱりミュージシャンだからね。元々、ロックやジャズやってたという若者が少なくありません。
けど、チンドン屋やってると音楽以外の魅力にはまっていくんだよ。それは扮装とかビラ配りとかいろいろね。エンタテナーの面白さというのは、たまらない魅力なんだろうね。
ところで、チンドン屋の楽器にアコーディオンがあります。これ、いまや、世界中の音楽に不可欠の楽器になってます。
1820年にオーストリアで開発され、ジプシーや船乗りが世界中に広めました。
それがドイツのポルカ、イタリアのカンツォーネ、アルゼンチンタンゴ、メキシコのテックスメックス、アメリカのケイジャン、ザディコ、そしてフランスのシャンソンへと取り入れられていったのよ。
もう1つ、富山では昭和30年以来、「全日本チンドンコンクール」が開催されてんの。これ、全国からチンドン屋が集まって競演が行われるのよ。
今度、見に行っちゃおうっと。300円高。
これじゃ、子どもだよ。
さて、チンドン屋と聞いて、なにを思い出します?
白塗り、クラリネット、太鼓に鉦、パチンコ、ちょんまげ、チラシ、懐メロ・・・。いろいろありますなぁ。
最近、見ますか? たまぁにね。
商店街の新規開店とかパチンコ屋のリニューアル・オープンとか。いろいろありますね。
あれ、ギャラ、いくらなんだろうねぇ。商店街とかあまり予算もってないようだしさ。
さて、著者は熊本出身の今年43歳。あだち宣伝社というチンドン会社を率いております。
今更なんだけど、チンドン屋の仕事って宣伝だったのね。
そりゃ、そうだよねぇ。
チンドン屋の仕事を分析すると、まず口上(「トザイトーザイ」とかね)、扮装、演奏、練り歩き、背看板、そしてビラ配りとあるよね。
中でも、いちばん大切なのはビラ(チラシ)配りなのよ。いくら、チンドン屋が記憶に残ったって、スポンサーのビラ(チラシ)を受けとってもらわなかったら話になんないでしょ。
で、このビラ配りがホントに難しいらしいね。これでチンドン屋のレベルがわかるらしいよ。
チンドン屋の始まりは飴売りだそうです。
江戸時代末期(1845年)、大阪の千日前で飴の行商をしてた飴勝という商人がその口上の腕を買われて、寄席の呼び込みを依頼されたのがきっかけ。
やっぱり、宣伝重要なんだよ。
日本で゜チンドン屋が増えたの、1931年。理由、わかる?
映画が無声からトーキーに変わったから。活動弁士がお払い箱になっちゃって、口上の巧い彼らがチンドン屋に変わった。
戦後、パチンコ屋がどんどんできたのも隆盛におおいに貢献したね。やっぱ、チンドン屋でパチンコを連想するのは正しかったんだ。
てなわけで、昭和30年代には東京で1000人、全国で2500人もいたんですよ。
この人、子どもの頃からの音楽好き。とくに楽器を使ったお笑いが大好き。
だから、「大正テレビ寄席」でも、牧伸二のウクレレ漫談を楽しみにしてた子ども。MANZAIブームの時も玉川カルテット、モダンカンカン、ちゃっきり娘のファンだった。この点、私も同じだなぁ。
音楽好きは大学時代もそう。この人、国立山口大学の農学部なのね。
キーボードやってたりして。とうとう、「たけのうちカルテット」というバンドを組んじゃった。そうなりゃ、メジャーデビューしたくなるよね。で、あの「イカ天」に出場! あれよあれよとCD発売、映画で沢口靖子さんと共演しちゃう。
けど、本人のバブルはそれまで。
博多でストリートパフォーマンスしてたら、ラジオのDJやらないかと誘われた。やったはいいんだけど、1年半でクビ。29歳の時でした。
そんなこんなしてたら、バンド時代に安くCD作ってくれたスタジオ社長から頼まれて、保証人の判子押しちゃった。これで借金をかぶります。
返さなくちゃ、けど、どうやって?
そこで、ウクレレと鍵盤ハーモニカ、それに自家製カラオケもって路上パフォーマンスにまた出ます。
これがチンドン屋になるきっかけを作ります。人生は不思議な縁がいろいろと作用してますな。
ある時、いつものように路上でパフォーマンスしてると、広告代理店の人から、
「今度、中華レストランのキャンペーンやるんだけど、チンドン屋使って宣伝やりたいんだよね。君、だれか知らないか?」
お金に困ってたでしょ。「ボクがやります」って言うわけ。
チンドン屋はじめたのはいいけど、これは奥がとっても深い。扮装1つとったって、着付けもあるし、いろんな衣装があるんだよね。
それを仕事しながら覚えていきます。バンド仲間にも頼んでサックス、クラリネット、太鼓とか手伝ってもらったりね。だんだんプロになっていくわけ。
で、従業員を募集したりします。
チンドン屋はやっぱりミュージシャンだからね。元々、ロックやジャズやってたという若者が少なくありません。
けど、チンドン屋やってると音楽以外の魅力にはまっていくんだよ。それは扮装とかビラ配りとかいろいろね。エンタテナーの面白さというのは、たまらない魅力なんだろうね。
ところで、チンドン屋の楽器にアコーディオンがあります。これ、いまや、世界中の音楽に不可欠の楽器になってます。
1820年にオーストリアで開発され、ジプシーや船乗りが世界中に広めました。
それがドイツのポルカ、イタリアのカンツォーネ、アルゼンチンタンゴ、メキシコのテックスメックス、アメリカのケイジャン、ザディコ、そしてフランスのシャンソンへと取り入れられていったのよ。
もう1つ、富山では昭和30年以来、「全日本チンドンコンクール」が開催されてんの。これ、全国からチンドン屋が集まって競演が行われるのよ。
今度、見に行っちゃおうっと。300円高。