2007年05月08日「映画はやくざなり」 笠原和夫著 新潮社 1575円
昭和47年暮れ。東映では新作映画の試写会が行われていました。
2時間後、エンドマークが出た瞬間、堪えに堪えた怒りが爆発。席を蹴って立ち上がり、2階の企画室にこもってしまった男がいます。
それが脚本を担当した笠原和夫さん。
「話はまとまってないし、カメラはカメラでかちゃかちゃ動き回り、俳優の顔がフレームに収まりきらずに切れてるし。そりゃ、ホン(脚本)もまとまっちゃいないけど、それにしても監督がさらに引っかき回しやがってどんな話かわかりゃしない。
苦労した群像ドラマの厚みも焼け跡の青春の哀感も吹っ飛んで、目がまわるだけじゃないか。いわんこっちゃない。だから、オレは深作(欣二)の起用に反対したんだ。あの野郎のせいで、こりゃダメだ。ちくしょう」
ところが、次々に企画室に関係者が来るわけ。「ありゃ傑作だ。いままでにない映画だ」なんて口々に褒めてね。けど、脚本家は納得しない。
その日は3次会までべろんべろんに酔って監督にくだ巻いてたらしい。
ところが、正月になって映画館でお客に混じって観ていると・・・これがいいんだよ。抜群にいいの。たしかにいままでにないカメラワークなの。
普通、映画ってのは主役のアップが多いんだけど、この映画では脇役がどんどんフレームの中に入ってくるわけよ。いままでだったら、「そこ、邪魔! カメラに入るな!」なんて注意されるのに、脇役が主役を食おうかとどんどん出てくるわけ。
こりゃ、面白いや・・・。
これがその後、斜陽の東映映画を完全復活させる「仁義なき戦い」の始まりなのね。映画は大ヒットしました。
笠原さんは第4部まで脚本を書いて降ります。その後、ほかの脚本家が引継ぎ、さらに数年前にリメイクまでできました(つまんないけど)。
笠原さんといえば、「仁義なき戦い」。やくざ映画を書かせたら右に出る者はいない、という人。作品は「仁義なき戦い(初期4部作)」「日本侠客伝シリーズ」、三島由紀夫が絶賛した「博打打ち・総長賭博」「二百三高地」「大日本帝国」・・・と話題作ばかり。
さて、日本映画のピークは昭和33年ですよ。映画人口は11億3千万人。毎月、国民1人が映画を観てるという計算。
2年後には東映は第2東映を発足し、製作本数を100本から150本へと急増。拡大路線。インド人もびっくり!というほど、たくさん制作されてんの。世界一だかんね。
けど、東映の目論見は1年半でぽしゃります。全面撤退するんです。
昭和39年 東京オリンピック開催。テレビにとってかわられ、映画人口は6年で3分の1にまで落ち込んじゃいます。「時代劇の東映」の看板である時代劇で客が呼べない。美空ひばりものももはや当たらず、苦し紛れにはじめた山本周五郎原作の文芸大作も不調・・・四苦八苦。
ところが、そんなときに「人生劇場 飛車角」が予想外の大ヒット。ひょっとしたら、これは新しいアクション映画の流れが来るかも・・・当たっているときの映画会社なんてやることはいつも一緒。柳の下にドジョウが何匹もいる、とばかりに各社競って同じような映画を飽きられるまでとことん作る。
笠原さんは結局、「続飛車角」「新飛車角」とホンを書かされます。
「やくざ映画で妻子を養ってきた身としては、今更言うのも卑怯であるが、常に、おれの書きたいものはこういうものではないのではないか、という漠然とした思いはときまとってきた」
元来、オレは叙情的なライターではなかったか・・・と暮夜などにふと考えたりする。
「やくざ映画」のホンを書くために東映に入ったんじゃない。
けど、彼がやくざ映画にのめり込めたのは、「途中で死ぬ男」のおかげ。
たとえば、昭和40年からはじまる「昭和残侠伝」シリーズ。主役の高倉健の筋なんかどうでもよくなって、どんどんゲストの脚本にのめりこむ。作家としてシンパシーや心情を託して書き込めるのは、このふらりと流れてきて、やむにやまれず死地に飛び込む、哀れな、寂しげな男一匹のほうだったらしいね。
こんなふうに、わざわざ日陰の道を選んで歩んで行ってしまう日陰者たちの肖像を書けるなら、「やくざ映画」という器も捨てたもんじゃない・・・。
「広島抗争事件をホンにしてみないか?」
プロデューサーの俊藤さん(寺島純子さんの父親)の頭の中にあったのは大ヒット中の「ゴッドファーザー」。
広島抗争事件はまだ片がついていない現在進行形の事件なのよ。だから、東映はじめ各社が何度も試みたけれども、必ず途中で頓挫してしまう折り紙付の難物。
当たり前だよね、当事者であるやくざ同士の関係が錯綜していてややこしいし、手をつけるにはヤバすぎるもの。
そんな時、「週刊サンケイ」に連載され話題を呼んでた「仁義なき戦い」の作者、飯干晃一さんから見せられたのが広島のある親分の手記。
これが名高い「美能幸三の手記」なのよ。
広島事件の中を生き抜いてきた当事者。獄中18年、ようやくシャバに出てきたばかりという人で、うきうき会いに行ける対象でもなかった。
「映画なんか信用できん」のひと言で終わり。すぐ断られちゃった。ならば、長居は無用とすぐ帰っちゃった。
ところが、後ろで声がする。
「どこまでいくん?」
「駅です。これから東京に帰ります」
「そうか、俺も駅までいくんや」
話をしてると、お互いに戦時中は大竹の海兵団にいたことがわかった。
「映画にしないならいくらでも話をしてやるよ」
結局、そのままずっと話し込んでしまうわけ。
これが面白いのなんの。やくざの美学とかきれいごとばかり書いてきたけど、そんなものとは真逆にあんだよ。
欲望、裏切り、見栄、嫉妬、金、女、上昇志向、卑屈・・・生身の人間世界がそこにはあんの。しかも、命のやりとりしてる中でどうにもおかしくてたまらない。思わず笑ってしまうほどとんちんかんなことをするわけよ。
そこがさらに人間らしい。こりゃ、バルザックの「人間喜劇」だよ。
だから、いままでのやくざ映画を書くのとちがって、「少なくとも窮屈さや手詰まり感はなかった。解放感ばかりがあった」とのこと。
「映画にしないなら」なんて完全に反故。筆がどんどん走るわけ。
こうしてはじまったのが東映の実録路線。人を殺そうと、裏切り合おうと、ずっこけようと、人間社会の喜劇がそこにはある。必然的にブラックユーモアが入ってくるわけ。
「こういうユーモアがなければ、実録路線はたんに殺し屋の話、たんなるギャング映画にしかならないよ」
だから、「ゴッドファーザー」はなんの参考にもならなかったのね。
それにしても、「実録・日本共産党」はぜひ映画化してもらいたかったなぁ。共産党側の都合でボツになったらしいけどね。
まっ、「仁義なき戦い」の調子でやられたらたまんないだろうなぁ。及び腰になるのもわかるような気がしますよ。けど、観たかったねぇ・・・。300円高。
2時間後、エンドマークが出た瞬間、堪えに堪えた怒りが爆発。席を蹴って立ち上がり、2階の企画室にこもってしまった男がいます。
それが脚本を担当した笠原和夫さん。
「話はまとまってないし、カメラはカメラでかちゃかちゃ動き回り、俳優の顔がフレームに収まりきらずに切れてるし。そりゃ、ホン(脚本)もまとまっちゃいないけど、それにしても監督がさらに引っかき回しやがってどんな話かわかりゃしない。
苦労した群像ドラマの厚みも焼け跡の青春の哀感も吹っ飛んで、目がまわるだけじゃないか。いわんこっちゃない。だから、オレは深作(欣二)の起用に反対したんだ。あの野郎のせいで、こりゃダメだ。ちくしょう」
ところが、次々に企画室に関係者が来るわけ。「ありゃ傑作だ。いままでにない映画だ」なんて口々に褒めてね。けど、脚本家は納得しない。
その日は3次会までべろんべろんに酔って監督にくだ巻いてたらしい。
ところが、正月になって映画館でお客に混じって観ていると・・・これがいいんだよ。抜群にいいの。たしかにいままでにないカメラワークなの。
普通、映画ってのは主役のアップが多いんだけど、この映画では脇役がどんどんフレームの中に入ってくるわけよ。いままでだったら、「そこ、邪魔! カメラに入るな!」なんて注意されるのに、脇役が主役を食おうかとどんどん出てくるわけ。
こりゃ、面白いや・・・。
これがその後、斜陽の東映映画を完全復活させる「仁義なき戦い」の始まりなのね。映画は大ヒットしました。
笠原さんは第4部まで脚本を書いて降ります。その後、ほかの脚本家が引継ぎ、さらに数年前にリメイクまでできました(つまんないけど)。
笠原さんといえば、「仁義なき戦い」。やくざ映画を書かせたら右に出る者はいない、という人。作品は「仁義なき戦い(初期4部作)」「日本侠客伝シリーズ」、三島由紀夫が絶賛した「博打打ち・総長賭博」「二百三高地」「大日本帝国」・・・と話題作ばかり。
さて、日本映画のピークは昭和33年ですよ。映画人口は11億3千万人。毎月、国民1人が映画を観てるという計算。
2年後には東映は第2東映を発足し、製作本数を100本から150本へと急増。拡大路線。インド人もびっくり!というほど、たくさん制作されてんの。世界一だかんね。
けど、東映の目論見は1年半でぽしゃります。全面撤退するんです。
昭和39年 東京オリンピック開催。テレビにとってかわられ、映画人口は6年で3分の1にまで落ち込んじゃいます。「時代劇の東映」の看板である時代劇で客が呼べない。美空ひばりものももはや当たらず、苦し紛れにはじめた山本周五郎原作の文芸大作も不調・・・四苦八苦。
ところが、そんなときに「人生劇場 飛車角」が予想外の大ヒット。ひょっとしたら、これは新しいアクション映画の流れが来るかも・・・当たっているときの映画会社なんてやることはいつも一緒。柳の下にドジョウが何匹もいる、とばかりに各社競って同じような映画を飽きられるまでとことん作る。
笠原さんは結局、「続飛車角」「新飛車角」とホンを書かされます。
「やくざ映画で妻子を養ってきた身としては、今更言うのも卑怯であるが、常に、おれの書きたいものはこういうものではないのではないか、という漠然とした思いはときまとってきた」
元来、オレは叙情的なライターではなかったか・・・と暮夜などにふと考えたりする。
「やくざ映画」のホンを書くために東映に入ったんじゃない。
けど、彼がやくざ映画にのめり込めたのは、「途中で死ぬ男」のおかげ。
たとえば、昭和40年からはじまる「昭和残侠伝」シリーズ。主役の高倉健の筋なんかどうでもよくなって、どんどんゲストの脚本にのめりこむ。作家としてシンパシーや心情を託して書き込めるのは、このふらりと流れてきて、やむにやまれず死地に飛び込む、哀れな、寂しげな男一匹のほうだったらしいね。
こんなふうに、わざわざ日陰の道を選んで歩んで行ってしまう日陰者たちの肖像を書けるなら、「やくざ映画」という器も捨てたもんじゃない・・・。
「広島抗争事件をホンにしてみないか?」
プロデューサーの俊藤さん(寺島純子さんの父親)の頭の中にあったのは大ヒット中の「ゴッドファーザー」。
広島抗争事件はまだ片がついていない現在進行形の事件なのよ。だから、東映はじめ各社が何度も試みたけれども、必ず途中で頓挫してしまう折り紙付の難物。
当たり前だよね、当事者であるやくざ同士の関係が錯綜していてややこしいし、手をつけるにはヤバすぎるもの。
そんな時、「週刊サンケイ」に連載され話題を呼んでた「仁義なき戦い」の作者、飯干晃一さんから見せられたのが広島のある親分の手記。
これが名高い「美能幸三の手記」なのよ。
広島事件の中を生き抜いてきた当事者。獄中18年、ようやくシャバに出てきたばかりという人で、うきうき会いに行ける対象でもなかった。
「映画なんか信用できん」のひと言で終わり。すぐ断られちゃった。ならば、長居は無用とすぐ帰っちゃった。
ところが、後ろで声がする。
「どこまでいくん?」
「駅です。これから東京に帰ります」
「そうか、俺も駅までいくんや」
話をしてると、お互いに戦時中は大竹の海兵団にいたことがわかった。
「映画にしないならいくらでも話をしてやるよ」
結局、そのままずっと話し込んでしまうわけ。
これが面白いのなんの。やくざの美学とかきれいごとばかり書いてきたけど、そんなものとは真逆にあんだよ。
欲望、裏切り、見栄、嫉妬、金、女、上昇志向、卑屈・・・生身の人間世界がそこにはあんの。しかも、命のやりとりしてる中でどうにもおかしくてたまらない。思わず笑ってしまうほどとんちんかんなことをするわけよ。
そこがさらに人間らしい。こりゃ、バルザックの「人間喜劇」だよ。
だから、いままでのやくざ映画を書くのとちがって、「少なくとも窮屈さや手詰まり感はなかった。解放感ばかりがあった」とのこと。
「映画にしないなら」なんて完全に反故。筆がどんどん走るわけ。
こうしてはじまったのが東映の実録路線。人を殺そうと、裏切り合おうと、ずっこけようと、人間社会の喜劇がそこにはある。必然的にブラックユーモアが入ってくるわけ。
「こういうユーモアがなければ、実録路線はたんに殺し屋の話、たんなるギャング映画にしかならないよ」
だから、「ゴッドファーザー」はなんの参考にもならなかったのね。
それにしても、「実録・日本共産党」はぜひ映画化してもらいたかったなぁ。共産党側の都合でボツになったらしいけどね。
まっ、「仁義なき戦い」の調子でやられたらたまんないだろうなぁ。及び腰になるのもわかるような気がしますよ。けど、観たかったねぇ・・・。300円高。