2007年10月08日「ぼくの音楽人生」 服部良一著 日本文芸社 1300円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

 この3連休、どこに行っても人、人、人。私ゃ、打ち合わせで渋谷、青山、六本木、横浜元町・・・と出張っておりましたが、どこも超満員。人が多くて歩けやしない。いや、参りました。

 さてと、今年は服部良一さん生誕100年なのね。
 で、それを記念して今月、CD全集が発売されます。これがいいんですよ。先に紹介した「胸の振子」だったら陽水がカバーしてたりね。なかなか聞き応えがありまっせ。いま、予約発売中だと思うよ。

 本書は「音楽生活60周年」を記念して出版されたらしい。そんなこと、私ゃ知らないからまたまた古本屋で見つけてゲット。
 あのさ、驚いたことにこんだけ日本の音楽界に貢献した人であるにもかかわらず、著書がないのよ。あと1冊くらいしかない。もち、絶版。

 本人がシャイで出版など考えたこともない。「ボクはそんな柄じゃないからね」なんて断ったかもしれないけど、はっきりいって、これは周囲の怠慢です。「歴史に残る人」ですよ。これは後世の音楽家が理解できるようなものをきちんと残しておかなきゃいけません。

 作曲家だもん、CDがあるだろうが? たしかにそうかもしれません。しかし、鮮明にメッセージを残せるのは活字なんです。活字がいちばん正確にメッセージを伝えられるんです。
 音楽家、絵描き、スポーツマン、政治家、芸術家、経営者・・・活字だからこそ真の心根が伝わるんですよ。

「先人の後を求めず、先人の求めたるところを求めん」
 これ、芭蕉の言葉ですね。俳句よりもこういう文があるからこそメッセージが伝わってくるわけですよ。

 さて、服部良一さんといえば、「ブギ」。かなり作ってるもんなぁ・・・「東京ブギウギ(1947年)」「買い物ブギ(1950年)」。とくに「買い物ブギ」は村雨まさを、というペンネームで服部さん自身が詩まで作ってんだよね。これ、傑作でっせ。

「銀座カンカン娘」「湖畔の宿」「蘇州夜曲」「青い山脈」・・私の地元だと「本牧ブルース(藤浦恍作詞)」がありますな。
 知らない? ウッソー! じゃ、「別れのブルース(1937年)」って知ってる? 最初出したときに売れなくてねえ。で、タイトルだけ換えたの。それが「別れのブルース」ってわけさ。

「別れのブルース」

♪窓をあければ 港が見える
 メリケン波止場の 灯が見える
 夜風汐風 恋風乗せて
 今日の出船は 何処へ行く
 むせぶ心よ はかない恋よ
 踊るブルースの 切なさよ♪

♪腕に錨の 刺青ほって
 やくざに強い マドロスの
 お国言葉は 違っていても
 恋には弱い すすり泣き
 二度と逢えない 心と心
 踊るブルースの 切なさよ♪

 歌ったのは、もちろん、淡谷のり子さん。この人、元々、クラシックのソプラノ歌手なのね。けど、食べられなくてさ。キーを下げて無理矢理、流行歌を歌ってもらったのよ。それが満州で大ヒット。
 内地に戻ってきた兵隊さんが九州、関西、それから東京に散らばるにしたがって、歌も全国的にヒットしていったってわけ。
 歌は世につれ、世は歌につれ? いや、歌は人につられるんだよ。

 ところで、私、淡谷さんと2回ほど会ったことあります。1回目は25歳の時。当時、編集者をしてまして、本で使う挿絵をイラストレーターさんのとこに取りに行ったわけ。たしか池上線だったと思うんだけど、仕事場を訪ねたの。

「ピンポーン!」
「はい、はい、どちらさんですか?」
 なんと、淡谷さん。こちらは目が点。
「あ、それね。隣よ。隣。わかる?」
 なんと弟さんがイラストレーターだった。

「いま、淡谷のり子さんに会いましたよ」
「あっそう」
「びっくりしました。最初からそうならそうと教えてください」「君の年じゃ知らないと思ってさ」
「私、ファンですから。LP持ってますよ」
「じゃ、呼んでこようか」
「ホントですか?」 
  
 そんなことがありましたねぇ。その時、腰曲がってたんですよね。化粧はあのまんまなんだけど。でも、テレビやステージとなるとピンとしてたでしょ?
 ピアフにしてもそうだけど、ステージには魔物が住んでるんだよね。プラスαのパワーを授けてくれるんでしょうな。

 さて、服部先生だけど、この人、ものすごく苦労人でね。勉強はできた。ずっと級長だった。小4の時にトップを譲った。それが後の東大教授。原水禁のリーダー安井郁さん。2人は大の仲良しでね。
 頭はすこぶるよかったけど、貧しくて上級学校に進めない。これは哀しいよね。奨学金もらう云々じゃなくて、家計を助けなくちゃいけないんだからさ。で、仕事しながら夜学に通う。でも、仕事が忙しいから学校には行けないの。。

 音楽との出会い? 子どもの頃からハーモニカが得意でした。
 本格的に音楽と出会ったのは、姉の勧めで「出雲屋少年音楽隊」に入った頃から・・・。

 なんやねん、出雲屋って?
 あの出雲屋でんがな。イヅモ屋。ウナギのチェーン店ありまっしゃろ? 大阪、京都なら四条河原町(先斗町の入口)にありまんがな。いまでも、店の入口通るといっつも音楽かかってまっしゃろ?
 昔、吉野家、いま、イヅモ屋でんがな。

 息子さんがハイカラでね。音楽やってたの。当時(大正12年)、音楽隊があったんは三越とか高島屋くらいのもの。で、演奏を聞きながら食事するゆうのんがハイカラなんやねぇ(インチキ関西弁でごめんね)。

「受かるやろか?」
「受かるに決まってるがな」

 学術も絶対音感もトップ合格。入隊後(?)も、自分のパートだけじゃなくてすべてのスコアを暗譜。これには指導者のメッテル先生も感心。
 この先生、京大でも指導していた日本の音楽教育の泰斗。で、毎週、レッスンに来なさいと勧めるわけ。もち、無料でね。

 その後、イヅモ屋の音楽隊はあっという間に解散します。その後、オーケストラに入ったりすんだけど、ジャズと出会うのね。
 著者はピアノもメッテル先生仕込みだけど、サックスなのよ。
 で、自分のバンドを持って、ジャズクラブとかで演奏するわけさ。そのために、編曲(アレンジ)をマスターする。これが作曲という天分を発見し、また磨くきっかけとなっていくわけ。

 人生、山あり谷あり。この人はたんなる才能に溢れた人じゃない。努力しながら潜在的な才能に気づき、そして自ら伸ばしてきた人だと思う。250円高。