2008年02月25日「窓ぎわのトットちゃん」 黒柳徹子著 講談社 1900円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」

 ご存じ、黒柳徹子さんの大ベストセラー。というより、出版界の超ベストセラーですね。

 どうして今頃? 実は明日、『中島孝志の毒書人倶楽部』があるんです。で、そこでメンバー各自に「座右の書」をちとご披露してもらうんですね。

 じゃ、私のは? というわけで、なんだろうなぁ? 『邪宗門』『罪と罰』・・・。

 ある意味、これも座右の書なんですよね。なぜか?

 その前に。今回は長いですよ。気づいたら、こんなに書いてしまいました。「ブログは短めに、長ければ何日にも分けて」な〜んて、ブログ指南書のアドバイスなんて、私ゃ聞きません。書くだけ書く。書きたいだけ書く。それだけです。

 「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」

 この言葉を投げかけてくれたのは、いまはなきトモエ学園の創始者小林宗作さんです。
 トモエ学園というのは、東急沿線の自由が丘にあった小学校です。教室はなんと電車。電車が6台並んでいるわけ。

 勉強は、朝、先生が今日やるべき科目のテーマを書きます。
 たとえば、理科なら「ビーカーで実験」とかね。算数なら「99」とか。で、それをみなが一斉に勉強するわけではありません。各自、好きな教科からすればいいわけ。

 そして、能率が良くて午前中に全部終わってしまうと、午後は散歩。隣の九品仏までみなで出かける。その間、花や虫を見つけては先生が解説したりして戻ってくる、というちょっと変な教育をしてた学校なんです。

 「ちょっと変な」というのは実はほめ言葉です。

 この学校、戦前の学校なんです。昭和19年の東京大空襲で爆弾で焼かれるまで先進的なリトミック教育が行われていたんです。
 文部省(当時)にとらわれない自由な教育をし、子供たちの長所を徹底的に伸ばし、想像性と創造性をとことん引っ張り出す教育に先生方が体当たりで挑んでいた学校なんです。

 「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」

 トットちゃんとは、「徹子」となかなかいえなかった黒柳さんが、子供の頃につけられたニックネームです。バイオリニストのお父さんはさらに「トット助」と呼んでたようです。
 さて、この言葉、トットちゃんもそんなに深くは考えてなかったようですね。

 「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」

 たぶん、そのまま受け容れたんだと思います。けど、これ、少し考えると、「きみは、いい子とは思われてないんだよ」とわかります。そしてそして、さらに深く考えると、「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ。いまは誤解されてるだけさ。ケ・セラ・セラでいこうよ」と励ましてくれてることに気づきます。

なんで、こんなことを歯っ欠けで小柄で丸々した小林先生が言ったんでしょう?
 実は、トットちゃんは前の学校を小学1年生で退学になってたんですね。この言葉が幼子の心にどれだけ効いたことか。ご本人は何十年も後でようやく気づくんですよ。

 後年、黒柳さんが有名になり、某テレビ番組で「ご対面コーナー」があり、トットちゃんの隣のクラスの担任の先生が登場したことがありました。

 その女の先生が言うには、なにかの用で職員室に行こうとすると、トットちゃんが廊下で立たされている。目が合うと、「私、立たされてるんですけど、どうして?」「なにか悪いことしたの?」と聞く。
 「先生はチンドン屋さん、嫌い?」と話しかけてくる。
 それ以来、廊下を気にすると、いつもトットちゃんが立たされてる。トットちゃんの担任に聞くと、「どうしてああいう風なんでしょう?」とこちらも悩んでるわけ。

 トットちゃんは授業中だろうと、窓ぎわに立って外に向かって大声で呼びかけていたそうです。
 だれにか? チンドン屋さんにです。

 小学校が商店街の近くにあるから、よくチンドン屋さんが通る。で、トットちゃんはチンドン屋さんを呼んで、いろいろやってもらおうと考えてたらしいのです。

 期待通りにやってくると、いろんな音楽をやって楽しませてくれます。そのかわり・・・授業はストップ。なにしろ、ほかの子供たちまで机を離れて窓ぎわに来ちゃいますものね。

 ある時は、やっぱり窓ぎわで大声で独り言を言ってる。
 これが独り言じゃなくて、巣を作り始めたツバメに向かって話しかけてるの。もちろん授業中だろうと休み時間だろうと、トットちゃんには関係なし。

 毎日毎日これでは、担任の先生も頭を抱えたことでしょうね。1人のために学級崩壊してしまうんだもの。

 そんなこんなで、授業妨害のカドで廊下に立たされる羽目になった・・・というわけでしょう。
 まるで、テレビドラマの『エジソンの母』(TBS)ですよ。

 ところが、どういうわけか、トットちゃんのほうは毎日廊下に立たされていたことなんて、このご対面コーナーで聞くまでまったく覚えていませんでした。
 「退学になった」という事実を、ママはトットちゃん、いや黒柳徹子さんが20歳になるまでひと言も明かしませんでした。

 このことに黒柳さんは心の底から感謝します。
 「どうするの? 退学なんかになっちゃって。次の学校で退学になったらもう行くとこはないんだよ」
 もし、こんな風に言われたとしたらどうでしょうね。変におどおどして、大人の顔色ばかりうかがう子供になってたかもしれませんよね。そしたら、その後のトットちゃんの人生は大きく逸れていたと思いますね。

 いずれにしても、トットちゃんのママは学校に呼ばれて退学。ママはあれこれ研究し、あちこち走り回り、そしてトットちゃんを連れて、自由が丘のトモエ学園の門をたたくわけです。
 
 かといって、入れてくれるかどうかはわかりません。面接次第です。

 面接当日、トットちゃんはトモエ学園の電車の教室を見ていっぺんで好きになってしまいます。
 「ママ、動かない電車に乗ってみよう!」
 興奮して走り出しました。ママはあわてて止めます。
 「どうしてもこの電車に乗りたければ、これからお目にかかる校長先生とお話してちょうだい。そしてうまくいったら、この学校に通えるんだから」

 「うん、ママ、私、この学校、とっても気に入ったわ」

 こんなに電車持ってるんだから、校長先生って駅の人なの?

 「校長先生か、駅の人か、どっち?」
 「校長先生だよ」
 「よかった。じゃ、おねがい。私、この学校に入りたいの」
 この言葉を聞くなり、小林先生は
 「じゃ、ボクはこれからトットちゃんとお話がありますから、もうお帰りくださって結構です」

 ママが出て行くと
 「さあ、なんでも、先生に話してごらん。話したいこと、全部」

 いま乗ってきた電車のこと。駅の改札口のおじさんにお願いしたけど、切符をくれなかったこと。前の担任の女の先生がきれいだったこと。その学校にはツバメの巣があること。家にはロッキーという犬がいて、「お手」と「ごめんくださいませ」とご飯の後で「満足満足」ができること。

 この間、なんと4時間。1度だってあくびをしたり、退屈そうにしないで、トットちゃんの話を耳をダンボにして聴いていた。それが小林先生でした。

 「今日から、きみはうちの生徒だよ」

 小林先生は、農家の末っ子で苦学の末に代用教員になり、検定試験を通って教員の資格を取ります。その後、音楽の勉強をし、東京音楽大学(現在の芸大)の師範科を出ると、成蹊小学校に奉職します。
 この小中高は名門ですよね。

 成蹊小学校の創立者、中村春二の教育哲学が小林先生に影響を与えます。
 曰く、教育は小学校からやらなければ。生徒数は多くても30人(少子化のいまなら普通ですけどね。私の頃は45人でした)。
 そして、自由な教育。子供の個性尊重に徹すること。勉強は午前で終わり。午後は散歩。植物採集、写生、先生の話を聞く、歌を歌う・・・つまり、トモエでやってる授業は中村流の教育哲学なんですね。

小林先生は30歳のときに三菱財閥の岩崎小弥太の援助を受け、ヨーロッパの児童教育を2年間視察して回ります。そして、ダルクローズのリトミック教育と出会うのです。

 ダルクローズに影響を受けた人は少なくありません。
 たとえば、山田耕筰、市川左団次(2代目)、小山内薫、石井漠(モダンダンスの創始者、というより「自由が丘」の命名者)などがいますが、小学校教育に取り入れたのは小林先生がはじめてです。

 リトミックとは、心と体にリズムを理解させる遊戯です。これを行うと、性格がリズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、素直に、自然の法則に従うのです。
 
ヨーロッパから戻ると、小原国芳さんと成城幼稚園をつくります。その後、小原は玉川学園を、小林先生はトモエ学園をつくるのです。

 「子供を先生の計画に、はめるな。自然の中に放り出しておけ。先生の計画より子供の夢のほうがずっと大きい!」

 この言葉、救われますね。救われる子供たちがどれだけいるかわかりません。

 空襲で学校を失った瞬間、「さて、次はどんな学校をつくるかな・・・」でした。

 「この人となら、ずーっと一緒にいてもいい」
 これが、小林宗作先生と最初に出会ったときの、トットちゃんの印象です。ありがたいことに、先生のほうも同じ印象を持っていたのです。

給食はお弁当です。
 「海のものと山のものを持たせてください」
わかりやすいですね。魚と肉、野菜、ご飯・・・。で、どうするか? 給食の時間に小林先生は奥さんと一緒にお弁当をのぞいて、海のものが足りなければ海のものを、山のものが足りなければ山のものを、大きなお鍋からよそってくれるのです。

 もちろん、小林先生の教育に不安を覚える保護者も少なくなかったと思います。トットちゃんの両親ですら、大丈夫かな、と思うことがありました。
 ですから、ほかの学校に転校させる親がいても不思議ではありません。でも、とうの子供はトモエから離れたくなくて泣きました。

 トットちゃんの1学年上に、転んでできたかさぶたをブラブラさせながら、涙をぽろぽろこぼして、黙って校長先生の背中を、握り拳でたたいていた子供がいました。先生も目を真っ赤にしていました。
 何度も何度も振り返りながら、その子は学校を出て行ったといいます。

 「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」

 トットちゃんがこの本当の意味がわかったのは、何十年も経ってからだといいます。でも、本当の意味がわからなくても、「私はいい子なんだ」という自信をつけてくれました。
 この言葉、トットちゃんがトモエにいる間、小林先生はずっと言い続けてくれた、といいます。

 ところで、なぜ、座右の書なのか?

 実は、私は小1の時に「同級生の靴を隠した」と担任の中年の先生に勝手に決めつけられて2年間、2人の友人を除いてクラスで無視されたことがあるんです。

 「昨日、クラスの女の子の靴がなくなった」と朝から授業をつぶして犯人捜しをするわけ。今から考えれば、掃除時間に下駄箱を入れ替えた時にどこかに紛れ込んだんだと思います。
 けど、犯人探しがあまりにつまらないので、後ろを向いて話していたんですね。すると、この小野沢潔という先生(その後、校長。教育委員会。大昔に故人)が、「おまえじゃないか?」と急に言うわけですよ。

 私はまったく身に覚えがありませんけど、「先生がそれだけ言うなら、もしかしたらそうなのかもしれない」と考え、「そうです」と言っちゃったんですね。いわば、検察の誘導自問に引っかかったようなものです。
 その年の通信簿に「強情だ」と書かれたことをはっきり覚えています。

 いまから思うと、こんな先生が校長になり、教育委員会に行くんですから、神奈川県相模原市の教育レベルはたいしたことはなかったのかもしれません。
 2年間、針のむしろでしたけど、幸い、3年からクラスが変わります。そうすれば、この先生から離れられる。
 この間、私が助かったのは、隣の同級生のおばさんが、「あの子はそんなことするはずがない!と女の子同士で仲の良かった、その靴をなくした女の子と親に何度も言ってくれたことです。そして私を見つけると、「たかしちゃんはそんな子じゃないよ」と何度も言ってくれたことです。

 もちろん、母親も信じてくれましたけど、他人の言葉のほうがありがたいことがありますよね。

 私としては、引っ込み思案で思ったこともはっきりいえない人間はダメだという痛い勉強をしました。以来、旗幟鮮明になんでもはっきり言うことにしています。

 この本に出会ったのは、大学を卒業する年です。やっぱり、こんな先生だったらなぁ・・・とまず最初に思いました。
 同時に、どうせ吐くなら、人を殺す言葉ではなく、人を活かす言葉にしたいな。でないと、周囲も私自身も悲しいな、と思ったんですね。

 私の本は、仕事本、マネジメント書が多いですけど、「読むと元気になる」「読むと深く考えるようになる」と誉めてくれる読者が少なくありません。
 もし、そうならば、あのときの原体験がそうし向けているのだと思うのです。

 どうせ吐くなら元気の出る言葉・・・ですよね。

 さて、この本は爆発的にヒットし(750万部)、いまだに記録は破られてはいません。
なぜ、これほどヒットしたのか? たぶん、こんな教育を受けたいな(受けさせたいな)、こんな先生と出会いたいな(出会わせたいな)という気持ちがあると思います。
 なによりも、人を悲しませたりシュンとさせる言葉ではなく、元気を与える言葉をかけてやりたい、かけてもらいたい、という願いがあるのではないでしょうか?
 
 「おまえはダメだ」「悪い子だ」と言われ続けた人と、「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」と言われ続けてきた子とでは、人格が、人生が、ダンチだと思うのです。そして、これは子供だけではなく、大人でも同じことだと思うのです。
 
 豊かな愛情で励まされて育った人間は、やっぱり人を励ます明るい言葉しか使いません。逆に、愛情が薄く非難されて育った人間は、残念ながら、人の悪口やあら探しばかりする性格になってしまいます。

 きみは、ほんとうは、いい人なんだよ。500円高。