2008年08月29日「仕事道楽」 鈴木敏夫著 岩波書店 777円
ディズニーがアニメ映画で唯一、興行成績でトップに立てない国が日本なんですね。
日本のマーケットは2〜3倍。そこで、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』のスタジオジブリと提携したいんたけど、とやって来るんだけど、お断り。
生活、風俗、習慣がちがうということもあるんですけど、いいものを作るには小さな会社のほうがいいから。ディズニーなんて、スタジオというより工場だもんね。技術スタッフだけでも1000人だもんなあ。
著者はスタジオジブリの代表取締役プロデューサー。
『風の谷のナウシカ』の成功でスタジオジブリを設立したのが1985年。
以来、順風満帆・・・でやってきたわけではないのね。
「映画関係者、興行関係の人は、いつ終わるかという観点でしか見ていなかった」らしいですな。
事実、『となりのトトロ』『火垂る墓』の二本立て興行の時なんて、「これでジブリ作品は最後かな」と言われたそうな。この2つが最低だかんね。
『トトロ』に火がついたのは、日テレで放送してからなのね。あのぬいぐるみにしたって(私も持ってますよ。いくつも)、放映の2年後。テレビで話題になってから慌てて作ったもの。けど、そのおかげでキャラクター商品が売れるんだ、と新たな事業を発見できたわけですけどね。
観客数は『ナウシカ』915000人、『ラピュタ』775000人に対して、45万人(第2次公開で+15万人)。この時からなのね、宣伝を真剣に考えるようになったのは。
さて、著者は元もと、徳間書店の編集者。『アニメージュ』という新雑誌創刊を手がけることになっちゃった。責任者の尾形英夫さんがそれまでの編集スタッフをクビにしちゃったから、発刊までの猶予期間はなんと3週間しかない。
いくら100頁くらいの雑誌とはいえ、アニメ誌でしょ。普通に考えれば、まあ無理ですな。で、著者にお鉢が回ってきたというわけ。
「編集長はオレだ。息子に読ませたい。高級な本。頭のいい子が読むようなアニメ誌だ。大特集は『宇宙戦艦ヤマト』。これは息子がファンだから譲れない」
3週間といっても、制作に2週間。ということは、できることは1週間しかない。
ですが、結局、初版7万部は3日で売り切れ。
尾形さんというのはなんともはちゃめちゃな人物に見えますけど(事実そうらしいけど)、最大の功績は「ナウシカを映画にしよう」と言い出したことですな。
さてさて、高畑勲さん、宮崎駿さんとの出会いのきっかけはなんだったんでしょう?
『アニメージュ』の現場責任者として、とにかく時間のない中、ページを埋めようと考えたとき、そうだ、過去の名作を取り上げれば8ページくらいはなんとかなるかも・・・動機はいたって不純。
で、アニメファンの女子高生たちをヒヤリングすると、『太陽の王子ホルスの大冒険(1968年公開作品)』の評判がすごい。
この演出をしてたのが、高畑さんなわけね。
早速、会おうと電話・・・すると、延々1時間も会いたくない理由を述べるわけ。『宇宙戦艦ヤマト』のヒットに乗っかった大衆雑誌に協力なんてできないってね。で、最後に、「隣にいる宮崎駿は意見がちがうかもしれないから代わろうか」と紹介してくれるわけ。
冷たいのか親切なのかわからない。それが高畑さんへの第一印象。
「結論から言います。ホルスについては言いたいことがヤマほどある。16ページよこせ」
これは宮崎さんの第一声。宮崎さんという名前は初耳なんですね。で、30分くらいまくしたてる。
こんな調子では、差し迫ったページ数を埋めるのは無理。諦めざるを得なかった。
でも、この2人のことはめちゃくちゃ印象に残った。まだ観ていなかった『ホルス』についても気にかかってしょうがない。当時はビデオなんてなかったからね。で、名画座でオールナイトでかかると知るや飛んで行くわけ。
なんと、これはベトナム戦争を背景にした映画! 度肝を抜かれます。
「この2人に会いたい!」とますます願いは募るばかり。
初めて宮崎駿さんに会ったのは『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年公開)に取りかかっていたとき。でもね、けんもほろろでとりつく島がない。
「じゃまだからそばに来ないでください」
それでも朝早くから午前2時くらいまで仕事ぶりを見ていた。翌日も翌々日も。1週間くらいたった頃かな、絵コンテを見せてくれた。カーチェイスのシーンね。
人間、やっぱ相性ってものがありますよね。うさんくさいヤツが来たと思っていても、いつの間にか話をしたりしている。心を開いたりする。何年つきあってもそういう関係にならない人もいる。
これ、相性ですな。
高畑さんとの出会いは、『じゃりン子チエ』(1981年)のとき。なんともね。この作品好きでしたなあ。漫画はぜ〜んぶ持ってますけどね。
この2人との出会いは強烈。もっと話したいと思う。もっと距離を縮めたいと思う。
けど、こちら側に知識や情報がないとなんともね。彼らの話についていけない。なんとなく置いてけぼりを食わされてしまうもんなあ。
で、著者がしたことはなにか?
徹底的にノートをとった。話し口調そのままにノートした。1回で1冊分がなくなった。ノートするだけでなく、読み返した。不足分を補った。それをまた整理した。結局、都合、3回チェックした。
雑談で聞いた映画や本も見たり読んだりもしてみた。まあ、この2人の道場で乱取りを受けてるようなもんですな。
これ、私は情報トレーニングと呼んでます。私にも経験があります。こんなことを何回も繰り返しているといつの間にか吸収できるんですよね。
そんなこんなで、1981年、徳間書店の名物社長徳間康快さんから「企画のあるヤツはもってこい」とのお話。
で、著者は『風の谷のナウシカ』を提案します。
残念ながら、ボツになっちゃった。理由がなんともねえ。「原作がないから」だって。会議のメンバーには大映の担当者がいたんですね。で、経験則的に原作がない映画はヒットしないんだって。
「なら、原作を書いちゃおうよ」
宮崎駿さんのひと言で解決。いよいよ、『アニメージュ』で連載がスタートするわけです。300円高。
日本のマーケットは2〜3倍。そこで、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』のスタジオジブリと提携したいんたけど、とやって来るんだけど、お断り。
生活、風俗、習慣がちがうということもあるんですけど、いいものを作るには小さな会社のほうがいいから。ディズニーなんて、スタジオというより工場だもんね。技術スタッフだけでも1000人だもんなあ。
著者はスタジオジブリの代表取締役プロデューサー。
『風の谷のナウシカ』の成功でスタジオジブリを設立したのが1985年。
以来、順風満帆・・・でやってきたわけではないのね。
「映画関係者、興行関係の人は、いつ終わるかという観点でしか見ていなかった」らしいですな。
事実、『となりのトトロ』『火垂る墓』の二本立て興行の時なんて、「これでジブリ作品は最後かな」と言われたそうな。この2つが最低だかんね。
『トトロ』に火がついたのは、日テレで放送してからなのね。あのぬいぐるみにしたって(私も持ってますよ。いくつも)、放映の2年後。テレビで話題になってから慌てて作ったもの。けど、そのおかげでキャラクター商品が売れるんだ、と新たな事業を発見できたわけですけどね。
観客数は『ナウシカ』915000人、『ラピュタ』775000人に対して、45万人(第2次公開で+15万人)。この時からなのね、宣伝を真剣に考えるようになったのは。
さて、著者は元もと、徳間書店の編集者。『アニメージュ』という新雑誌創刊を手がけることになっちゃった。責任者の尾形英夫さんがそれまでの編集スタッフをクビにしちゃったから、発刊までの猶予期間はなんと3週間しかない。
いくら100頁くらいの雑誌とはいえ、アニメ誌でしょ。普通に考えれば、まあ無理ですな。で、著者にお鉢が回ってきたというわけ。
「編集長はオレだ。息子に読ませたい。高級な本。頭のいい子が読むようなアニメ誌だ。大特集は『宇宙戦艦ヤマト』。これは息子がファンだから譲れない」
3週間といっても、制作に2週間。ということは、できることは1週間しかない。
ですが、結局、初版7万部は3日で売り切れ。
尾形さんというのはなんともはちゃめちゃな人物に見えますけど(事実そうらしいけど)、最大の功績は「ナウシカを映画にしよう」と言い出したことですな。
さてさて、高畑勲さん、宮崎駿さんとの出会いのきっかけはなんだったんでしょう?
『アニメージュ』の現場責任者として、とにかく時間のない中、ページを埋めようと考えたとき、そうだ、過去の名作を取り上げれば8ページくらいはなんとかなるかも・・・動機はいたって不純。
で、アニメファンの女子高生たちをヒヤリングすると、『太陽の王子ホルスの大冒険(1968年公開作品)』の評判がすごい。
この演出をしてたのが、高畑さんなわけね。
早速、会おうと電話・・・すると、延々1時間も会いたくない理由を述べるわけ。『宇宙戦艦ヤマト』のヒットに乗っかった大衆雑誌に協力なんてできないってね。で、最後に、「隣にいる宮崎駿は意見がちがうかもしれないから代わろうか」と紹介してくれるわけ。
冷たいのか親切なのかわからない。それが高畑さんへの第一印象。
「結論から言います。ホルスについては言いたいことがヤマほどある。16ページよこせ」
これは宮崎さんの第一声。宮崎さんという名前は初耳なんですね。で、30分くらいまくしたてる。
こんな調子では、差し迫ったページ数を埋めるのは無理。諦めざるを得なかった。
でも、この2人のことはめちゃくちゃ印象に残った。まだ観ていなかった『ホルス』についても気にかかってしょうがない。当時はビデオなんてなかったからね。で、名画座でオールナイトでかかると知るや飛んで行くわけ。
なんと、これはベトナム戦争を背景にした映画! 度肝を抜かれます。
「この2人に会いたい!」とますます願いは募るばかり。
初めて宮崎駿さんに会ったのは『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年公開)に取りかかっていたとき。でもね、けんもほろろでとりつく島がない。
「じゃまだからそばに来ないでください」
それでも朝早くから午前2時くらいまで仕事ぶりを見ていた。翌日も翌々日も。1週間くらいたった頃かな、絵コンテを見せてくれた。カーチェイスのシーンね。
人間、やっぱ相性ってものがありますよね。うさんくさいヤツが来たと思っていても、いつの間にか話をしたりしている。心を開いたりする。何年つきあってもそういう関係にならない人もいる。
これ、相性ですな。
高畑さんとの出会いは、『じゃりン子チエ』(1981年)のとき。なんともね。この作品好きでしたなあ。漫画はぜ〜んぶ持ってますけどね。
この2人との出会いは強烈。もっと話したいと思う。もっと距離を縮めたいと思う。
けど、こちら側に知識や情報がないとなんともね。彼らの話についていけない。なんとなく置いてけぼりを食わされてしまうもんなあ。
で、著者がしたことはなにか?
徹底的にノートをとった。話し口調そのままにノートした。1回で1冊分がなくなった。ノートするだけでなく、読み返した。不足分を補った。それをまた整理した。結局、都合、3回チェックした。
雑談で聞いた映画や本も見たり読んだりもしてみた。まあ、この2人の道場で乱取りを受けてるようなもんですな。
これ、私は情報トレーニングと呼んでます。私にも経験があります。こんなことを何回も繰り返しているといつの間にか吸収できるんですよね。
そんなこんなで、1981年、徳間書店の名物社長徳間康快さんから「企画のあるヤツはもってこい」とのお話。
で、著者は『風の谷のナウシカ』を提案します。
残念ながら、ボツになっちゃった。理由がなんともねえ。「原作がないから」だって。会議のメンバーには大映の担当者がいたんですね。で、経験則的に原作がない映画はヒットしないんだって。
「なら、原作を書いちゃおうよ」
宮崎駿さんのひと言で解決。いよいよ、『アニメージュ』で連載がスタートするわけです。300円高。