2000年09月20日「ソニー ドリーム・キッズの伝説」「MADE IN JAPAN」「学歴無用論」

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

さて、今回はソニー関連本を3冊ご紹介します

1「ソニー ドリーム・キッズの伝説」 ジョン・ネイスン著 文藝春秋 1900円
 著者はカリフォルニア大学教授。10年を越えるソニーウォッチングの末にまとめたのだとか。たしかに、『MADE IN JAPAN』『学歴無用論』以降のソニー。とくにコロンビア映画に関連する内容では質量ともに充実している。
 とくに面白かったのは三つ。
 アメリカ企業に成りきりたかった(?)ソニーがマネジメントノウハウの相違からか、やっぱり日本企業の一つに過ぎなかったこと。神経質ともいうべきほどに、アメリカ国民の目を意識したこと。経営判断は理性ではなく感情で決まることが往々にしてあった、ということ。この三点である。
 インタビューのなかで、大統領補佐官を務めたことのあるピーター・ピーターソン(ソニー初の外国人社外取締役)がコロンビア映画を買収したときの内輪話を述べている。
 「なぜソニーが直接経営に手を出さず、距離を置いたのかは文化的、社会的、心理的な問題である。つまり、何を恐れていたのかという意味だ。何か不安だったのか。もし関わりすぎたら、どんな事態になると考えたか。ここまで受け身にさせる文化的、心理的、人格的なものとはいったいなんだったのか?」
 それに対する回答のようなものを、大賀社長は『ニューヨークタイムズ』紙上で、「もし、われわれが戦後の日本を支配した占領軍のように振る舞ったら、われわれは叩かれるでしょう。しかし、完全にアメリカの会社にしておくなら、すべてはうまくいく」と答えている。この事業の四半期損失額はなんと三十二億ドルであった。
 いま、ソニー生命は快進撃中だが、一九五七年、はじめてシカゴを訪れた盛田昭夫氏は、そそり立つプルデンシャル・ビルを仰ぎ見て、いつの日か、ソニーの持株会社のなかに金融会社を含めたいと計画したとか。「メーカーは土日、工場が休みで金を生まないが、金融会社は土日も金利で金を生む」と言うが、金融自由化が本格的になりつつあるいま、銀行を持つことも十分現実的である。
 また、前記二冊の著書のなかでも触れているが、トランジスタラジオをOEMで十万台注文を受けたものの一存で断った、という話がある。このインタビューのなかでも、一世一代の決断として振り返っている。

2 「MADE IN JAPAN」 盛田昭夫著 朝日文庫 900円
 その一世一代の決断の話が載っている。
 四十五年前、トランジスタラジオを引っ提げて、単身アメリカにセールスに乗り込んだ。かなり自信をもって出かけたものの、最初に言われたのは次の一言。
 「日本人はどうしてそんなちっぽけなラジオを作るのかねぇ。わが国ではだれもが大きなラジオを欲しがってるんだ。家も大きいし、部屋もたくさんあるからさ。そんなちっちゃいのはいらないんだよ」
 それに対して、「ニューヨークだけでも二十以上の放送局がある。確かに家は大きいし、家族がそれぞれ個室を持っている。しかし、だからこそ一人ひとりがこの小型ラジオで気兼ねなく自分の好きなものを聞くことができるようにするんですよ」という論法でセールスを押し進めると、かなり説得力があったようで契約の申し出がいくつかあったという。
 とくに、時計で有名なブローバ社の仕入れ担当部長は熱心だった。
 「十万個注文しましょう。でも、条件がある。このトランジスタラジオにブローバ社の商標をつけてほしい」
 当時のソニーの生産能力の数倍だ。それだけの注文があれば、一挙に利益が上がり、いろんな研究をするための資金も捻出できるではないか。けれども、彼はソニーを下請けメーカーにしたくなかった。自社ブランドで世界に名を挙げたいと考えていた。そこで断るのだ。
 「冗談でしょう。いったい何様のつもりだ。こんな親切な注文を断る人がいるか。わが社は五十年も続いた有名な会社である。あんたの会社などアメリカではだれも知らないんだ。わが社のブランドを利用しない手はないだろう」
 「五十年前、あなたの会社のブランドはちょうど現在のわが社のように、世間には知られていなかったでしょう。五十年後には、いまのあなたの会社に負けないくらいわが社を有名にしてご覧に入れましょう」と大見得を切る。
 『論語』に「君子は義に悟り、小人は利に悟る」という言葉がある。彼の判断はこの言葉を連想させるものだった。
 ところで、このアメリカでのセールス武者修行時代ではいろんな経験をする。それがビジネスマンとして大きく彼を飛躍させることになるが、そのときのエピソードは『学歴無用論』に詳しい。
3「学歴無用論」 盛田昭夫著 朝日文庫 510円
 『MADE IN JAPAN』よりも本音がズバズバと語られているように思う。
 というのも、同じエピソードでもこちらのほうがべらんめぇ口調で、控えめなところがないからだ。
 あるユダヤ人バイヤーも盛田さんのトランジスタラジオを評価してくれた。彼は百五十ものチェーン店を持っているので大量に注文したい、というのだ。しかも、製品にそのチェーン店名をつけろという条件もない。
 「ただし、五千個、一万個、三万個、五万個、十万個のロットで、それぞれの見積もりを出して欲しい」
 彼はなんと魅力的な話だと感動する。ところが、ホテルに戻ってきてから今度は考え込んでしまうのである。
 というのも、年間十万台もの量を確保するとなれば、新工場を造らねば追いつかないからである。ところが、いざ作ったところで、翌年、もういらないといわれたらどうなるのだろうか?
そこで彼は、十万個の注文で工場新設費用まで回収できるように、見積もりを作ってバイヤーとの交渉の席に着くことにするのである。
 「ミスター・モリタ。どうしてこんな見積もりになるんだ? 三十年近くも仕入れを担当しているが、注文が多くなればなるほど単価が上がる見積もりを持ってきたのはあなただけだ。どう見ても理屈に合わんでしょう?」
 「量産すると、わが社は高くつくんです。新規工場を造ったところで来年、注文をくれるかどうかはわからない。もし十万台買う気があるなら、今年はこの値段で買ってください。来年は工場がありますから安く売ってあげます」
 それから一時間ほど協議すると、彼らは結局、微笑を浮かべて一万個の注文を出したのである。もちろん一万個の見積もり価格である。これがバイヤーにとっても、盛田さんにとっても最適の結論だったのだ。
 当時、ユダヤ商人は日本企業は量産すれば安くなる、というマーケティングの権威ある本の意見を鵜呑みにしていることを熟知していた。そこで、それを逆手にとって常に大量注文の見積もりを要求していたのである。
 「十万台注文しますが、いまは五千台だけ先にもらっておきましょう」というけれども、単価は十万台をベースにして計算されているから一台当たりの単価は激安である。ところが実際は、五千台だけ買ってあとは知らん顔なのである。
 当時、この交渉術に多くの日本企業が引っかかっていた。したたかなユダヤ商法ではこんなことはビジネスエチケットに過ぎない。だから、彼はシビアに提案をしたわけである。