2000年09月10日「悪党諸君」「ドイツの犬はなぜ幸せか」「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

さて、今回も3冊ご紹介しておきます。

1「悪党諸君」 永六輔著 青林工藝舎 800円
 タイトルがいいね。悪党諸君、なるほど。
 これ、全国の刑務所に慰問(?)に行った講演会で話したことをまとめた本なのだ。なんと、15年前から去年までのなかからテープが残ってるのを選んだんだと思います。これも規制緩和のおかげなのか、すんなり本になった(のではないかもしれないけど)。
 「ムショ帰りっていうと、それだけで差別する。税務署から帰ってきたってムショ帰りだよ」
 こんな下らない話をさせたら天下一品ですな。
 笑ったのは「長生きの会」について。これは小沢昭一、渥美清(故人)、黒柳徹子といった永人脈が言い出しっぺで、もう五百人も会員がいるという。いったい何をする会かというと、文字通り「長生き」。会費は年間1万円。正月になったら松の内の間に振り込む。やることはそれだけ。集会も何も無し。これが何年か経つと、会員が減っていく。それでも続けていく。そして最後まで残った人が全額取れる。だから、死なない。死んでたまるかとなるわけですね。
 「上を向いて歩こう」のコンビだった中村八大さんも亡くなったが、普通、仲間が死ぬと寂しくなるものですが、「こういう会をやってると、八大さんの葬式で小沢さんと目が合ったとき、笑っちゃったものね。なんだか嬉しくて」と、どこまでホントだかわからないけれども、たしかに心のどこかで救いがあるかもしれません。悲しいけれど、どこかでその悲しさを笑っているような。極度に悲しくなると、なぜか笑顔しか出てこないことがてりますね。あれと似た感覚がありますね。
 「でも、ずっと長生きして呆けたらどうすんのかな?」と他人のことを心配していたら、ちゃんと抜かりなく考えていました。積立金のことなどだれもわからなくなる。こうなると、お金は結局、国庫に没収されるだけ。だから「最後の十人で山分けする」ということに、最近、ルールを変えたそうだ。それが正解ですな。
 馬鹿話だけではありません。それなりに、目からウロコが落ちる話もありました。
 「岡山病院の院長で未熟児の大家である山内先生と歩いてると、エチオピアにミルクを送ろうというポスターで、ホントにやせ衰えたお母さんがもうペッチャンコな乳房を、お腹だけがぴょこーんと膨らんでやせ衰えた赤ちゃんに、一生懸命に飲ませている写真でした。それを見て先生が怒ったんですね」
 「永くん、この間違いがわかるか」
 「だって、この飢えた赤ちゃんたちに粉ミルクを送ろうというのはいいんじゃないですか」
 「何年つきあってるんだ、きみは。こうやって飢えた赤ちゃんに粉ミルクをやって何万人死んだか、きみは知らないんだろう。飢えた赤ちゃんに粉ミルクを送る必要なんてこれっぽちも無いんだ。お腹の空いているお母さんに食糧を送らなきゃいけない。そうすればオッパイはたくさん出るんだ」
 栄養失調の人にいきなり栄養価の高い食糧を摂らせても受けつけません。身体と精神力が「はい、どうぞ」と受け入れ態勢に入らない限り、栄養は摂れないんです。
 以前、曾野綾子さんが言ってたけれども、やっぱりソマリアで栄養失調で死にそうな子どもに食べ物を上げようとしたら、「それではなく、毛布‥‥」と訴えたといいます。ここまでくると、食料云々ではなくて寒さが襲ってくるわけですね。悲しいけれども、「ひもじさ」というのは心の寒さ、身体の寒さ、魂の寒さのことなんですね。


2 「ドイツの犬はなぜ幸せか」 グレーフェあやこ著 中公文庫 680円
 本というのは、往々にしてタイトルで売れ行きが決まります。この本の親本は『犬の権利 人間の義務』(講談社)という「絶対に売ってほしくない」と著者、編集者ともそう考えたとしかいいようのないタイトルだったんです。それがこんな洒落たタイトルに生まれ変わりました(わたしも「タイトルがなぁ」とタイトルのせいにして悔しがっている本が何冊かあります)。
 一言で言えば、わたしは犬は好きだけども猫はどうも好きになれません。
 いままで犬は何匹も飼いましたが、猫は一匹もありません。友人宅の猫を抱いたことすらありません。どうも、あぁいう人を客観的にはすかいに眺める生物は好きになれないんですね。
 ところで本書を手に取った理由は、「犬とのつき合い方を通じて人間教育とは何ぞや」ということを考えたかったからです。
 とくにドイツは法律で犬は人間同様、税金を取られます。つまりそれだけきちんと制度化されているわけで、犬教育、当然、その飼い主教育もうるさいわけですね。
 犬は噛みつく動物です。だからこそ、噛みついても大したことにならない子犬の時に、いろんな体験をさせて噛みついてはダメということを身体で覚えさせる。犬は狼時代のDNAから受け継いだものとして、群の中における序列関係に敏感です。つまり、ランキングですね。犬の世界は生まれたときから偏差値社会なんですね。「オレは家族の中で何番目に偉いのか」を環境の中で判断するわけです。
 以前、犬がその飼い主のベビーを苛めて殺した事件があり、その犬は処刑されてしまいましたが、これも犬にお前よりもベビーのほうが偉いんだと叩き込んでいれば、こんな悲劇は起こらないんです。たいていの犬は賢いですから、苛めたりはしませんが、それにしても飼い主の教育不足が赤ちゃんと犬の命まで奪ったわけです。
 わたしがよちよち歩きのとき、家に体長3倍くらいの大型犬がいましたが、尻尾をつかまえて無茶なことをしているために、犬がホントに迷惑がっている顔をしている写真が残っていますが、これもわたしのほうが偉いんだとインプットしているからこそ、できたことです。
 「サーカスや軍隊流の教育は嫌だ。もっと本人(本犬かなぁ)のやりたいように個性を伸ばしてやりたい」という物分かりの良い人がいますが、こんな人がバカ犬を増やすのです。近所にそんなバカ犬がいます。朝っぱらから吠えています。ドイツだときちんと罰金を取られますね。このバカ犬ですが、散歩のときでもわたしの家のそばだけは避けるんです。遠くからわたしを見つけるとすぐに隠れるんですね。
 というのも、以前、そのバカ犬が首輪をしないで走り回ったときに町内会のちびチャンに向かってきたことがあるんですね。あわやガブリというとき、わたしがちょうど木刀で素振りをしてたものですから、間に入り、上段の構えでバカ犬の頭をいつでも一刀のもとに振り落とせるようにしたんです。さすがのバカ犬でも恐怖を感じたのか、すぐに後ずさりしました。
 後ずさりというのはホントに後ろ向きで歩くということをこのとき知りました。飼い主は「あそこの人はやくざ者だ」と思ったらしく、近所の人も「そういえば、いつも昼間ブラブラしてるぞ(たしかにブラブラしてますが、これは近くの本屋に行くためであって無目的にフラフラしているわけではありません)」「定職についてないみたいだ(以前は定職に就いていたんですが、それはもう卒業したんです)」「ときどき、黒塗りの車で高価な背広を来て出かけていく。あれはきっと幹部会だ(これは講演先が用意してくれたハイヤーなんです。こんなときくらいしかスーツは着ないんです)」と勝手に噂してくれてるようで、「あの家のそばで吠えたら今度こそ殺される」と思っているらしいのです。
 ドイツではレストランでもたいていすんなり入れます。というのも、人間の子どものほうがうるさいですからね。電車も子ども料金で大丈夫です。
 まぁ、ドイツの犬は日本の犬とは雲泥の差だと思います。それは犬とのつき合い方というか、コミュニケーションのスタンスがそうとう違うんですね。むやみやたらに可愛がる日本人、犬はコンパニオンアニマルとして生活のパートナーと考えるドイツ人。
 結局、ドイツの犬と日本の犬が違うのではなくて、ドイツの人間と日本の人間が違うんですね。犬は犬です。犬に対するソフトウエアが違うばかりか、子どもに対する家庭教育、学校教育、新入社員に対する教育、経営者に対する教育など、すべてにおいてソフトウエアが異なっているようですな。
3「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」 樋田慶子著 草思社 1600円
 著者は俳優座養成所(仲代達矢、平幹二朗、宇津井健らと同期)から新派に入門し、のちフリーになった女優。舞台ではシェークスピアから時代劇までいろいろ出演しているが、テレビでは「前略おふくろ様」「時間ですよ」にも出ていた。一言で言うと、存在感ある人ですね。
 タイトル名は彼女の祖母の持論です。いいタイトルだと思う。
 彼女の祖母とは、小吉(こきち)という名の芸者。といえば、ピンとくる人もいるかもしれない。あの伊藤博文の寵愛を受けた女性で、しばらく前まで新橋高田家の経営者であった(いまは「まつやま」という割烹になっているが、これも良い店だ)。
 小吉さんは元もと、大阪弁護士会会長も務める弁護士の娘として生まれたものの、詐欺事件にあって家は破産。そのとき、銀行家の跡取り息子から求婚され結婚。ところが、そのご主人は子どもの顔も見ずに亡くなってしまう。そこで自立するために芸者になるわけですね。
 それだけで下手な小説よりも奇な人生だと思う。
 「子持ち芸者」では客もなかなかつかないでしょうが、そこは「芸は身を輔く」とはよく言ったもので、和歌が得意で客の名前を都々逸にして唄ったり、書いた小説が大新聞の懸賞に当選したりして、今度は「文学芸者」として評判になります。それで南と北の大阪花柳界を挙げて「綺麗所」をずらっと並ばせたところ、伊藤博文が一目惚れしたのが末席に座っていた小吉というわけです。やっぱり、本物は本物を見抜くということですね。
 吉田茂もそうですし、東急コンツェルンの総帥だった五島昇さんもそうでしたが、二番目の奥さんは芸者ですね。男の気持ちがよくわかる女性を求めたんだと思います。吉田茂は芸者の子(この言い方嫌なんです。母親が芸者をしていた人)ですね。
 芸者というのは芸を見せるのが商売ではなく、人間を観るのが商売だとわたしは思います。いまの芸者はどうかしりませんが、一人の男として、一人の人間として、このプロの目利きに適うにはそれなりの人物でなければならないでしょう。金力だけで、彼女たちは我が人生をこの男に賭けようとはなりません。スポーツ選手を追いかけるそこいらへんの女子アナとはタマが違うんですね。
 ところで、新橋田中家には政界、財界のいろんな客が来ます。吉田茂、政敵の鳩山一郎、石橋湛山、財界では稲山嘉寛、杉道助なども常連だったようです。
 面白いのは樋田さんが白百合を出て俳優座に入ったものの、小遣い稼ぎに自分の店に芸者姿で出ていたとき、彼女を見初めた某政治家と「わけあり」の仲にするため、この祖母は仲居や芸者をすべて帰らせ二人きりにしてしまった。いきなりむぎゅっと腕をつかまれるとびっくりして、そのまま欄干にのぼって、「嫌だ、嫌だ、わたしにはわたしの人生がある」と断ったそうですが、この件では、祖母の小吉さんはいたくご立腹で、「あんたはまだ世間を知らない」、そして本書のタイトルのような発言になるわけですね。
 けれども、愛嬌のある彼女のこと。そんなことがあっても、その政治家は彼女を贔屓にしてくれたそうです。この政治家は岸信介ですね。
 男にしろ、女にしろ、人の縁というのは面白いものです。惚れた、別れた、またくっついたといろいろ忙しい人も少なくありません。まわりから見ると馬鹿らしく見えますが、生きているということはそんなことなのかもしれません。