2000年09月30日オリンピックと長嶋巨人優勝

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パ・リーグ主体の野球チーム



 オリンピックも終盤戦に入り、日本が期待できる競技はあと女子1万メートルくらいか。
 期待の野球はメダル無し。対戦相手のピッチャーがいいため、打線に音無し。まるで中日打線を見ているようだった。新聞を見れば、「古田がいなかった」だの「捕手のサイン通り投げた松坂」だの、これでは中日の鈴木捕手が可哀想だ。たしかに、古田と比べたら力の差はあるけれども、結局、古田は出なかったのだから。
 今回はパ・リーグ主体の選手構成だった。さっさと優勝を決めた大巨人軍からは猫の子一匹出なかった。おそらく松井だの、上原だのが出場することになると優勝できない、と考えたからだろうか。もし、そうなら、監督はよっぽど信頼されてないという証拠だろう。たとえ優勝できなくとも、永遠に長嶋を監督にしておいてもらいたい、とわたしは個人的に願っている。だから、球界の盟主としてドーンと大盤振る舞いすれば良かったし、できるかどうかわからないが、監督も長嶋にさせれば良かったのだ。
 主力松中を欠いたダイエーは王采配で勝ち星をどんどん上げているのだから、野球は選手の総合力というよりも監督力のスポーツなのだ。まぁ阪神ほど酷ければ監督の出番もないだろうが、あれはあくまでも例外である。
 アメリカはマイナーリーガーで選手構成していたが、日本はパリーグだ。アメリカがメジャーを出すなら、日本も巨人から出す、というつもりだったのだろうか。どこかにハンデ師がいたのかもしれない。それにしても、オリンピックというのはゴルフもないし、もちろんK1もない。つまり、日本人にとって金の取れるスポーツはないのである。だから、これからも順調に(?)に盛り下がっていくだろう。
 それにしても、金メダルの価値はどの種目でも等しいだろうが、女子マラソン高橋尚子選手の金はひときわ輝いていたと思う。戦後、最高の金メダルではないだろうか。かつての「前畑ガンバレ」の前畑秀子さん並の価値がある。




政治力を勉強しろ

 さて、今回のオリンピックで驚いたのは、やはり、選手よりも監督陣についてである。
 柔道は英雄山下をリーダーに据えた。柔ちゃんは見事に金。けれど、篠原選手は惜しくも銀メダルだった。これはほんとうに涙を呑んだにちがいない。あのとき、時計を止めることができたのだが、それもしなかった。たんに両手を上げて会場のギャラリーにアピールしていただけだった。後で聞けば、電光掲示板の判定経過もミス掲示だと勝手に勘違いしていたらしい。
 はっきり言って、馬鹿である。それで、「篠原も納得してくれました」とのコメント。まさか、「ベンチがアホやから」とは言えまいて。
 この数分間の出来事を見ていると、日本人は議論が下手なこと、言うべきことを、言うべきときに、言うべき相手に「言えない」という愚かさを露呈してしまったと思う。
 言うべきこと=?判定が間違っている、?主審と副審との判定の相違についての確認(なにしろ副審は篠原の一本勝ち、主審はフランス人の有効では天地の差だ。しかも、日本側首脳陣はこれも篠原の有効、と勝手に勘違いしていたのだから底なしの馬鹿である)、
 言うべきとき=まさにこのときだ。試合は流れている。止まったのはちょうどこのときである。柔道で「物言い」をつけられるのはこの一瞬のタイミングしかない。ぼうっとしている暇などないのである。それでは観客だ。
 言うべき相手=主審に即刻に主張する。ギャラリーに向かって、アメリカ人がよくやる肩をすくめて両手を挙げて「ノー」というスタイルでアピールすべきは主審に対してだ。ターゲットは主審なのだ。主審がキーマンなのだ。あとの人間にごちゃごちゃ言ってもそれはごまめの歯ぎしりにしかすぎない。
 今回の敗北は篠原の敗北ではない。日本柔道首脳陣の敗北だ。柔道しか能がないからしかたがないかもしれないが、指導者は交渉力、説得力、とくに国際試合の多いなか、異文化理解やディベート能力、すべてひっくるめて言えば、「政治力」か。これを勉強したほうがいい。