2008年12月22日「人間の覚悟」 五木寛之著 新潮社 714円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

 今年も残すところ10日間を切りました。いろんなことがありましたね。
 なんといっても「金融危機」がいちばんの出来事でしょう。

 株価の暴落。麻生内閣の支持率も暴落。けど、いちばん値を下げたのは「人間の価値=命の値段」ではないでしょうか。
 格差社会、ワーキングプア、中流階級の総下級化、暴落する時給。ハケン切り。自殺の激増・・・戦時中、赤紙1枚で簡単に召集された兵士よりも暴落しているかもしれません。
 いわば、「命のデフレ」です。
自殺の増加と殺人事件、凶悪事件とは相関関係があるんです。「命」を軽く考えている人は自分の命も他人の命も安易に捨てたり、奪ったりできるんです。

 さて本書ですが、「いまさらなにを」という内容なんですけどね、「覚悟」というキーワードに惹かれました。

 この人、平壌で教師をしてた両親とともに終戦後、引き揚げてくるわけですけど。
 ソ連は例のとおり「火事場泥棒」が国是のような国ですから、日ソ不可侵条約を勝手に破って、逃げまどう日本国民を蹂躙。暴行、殺戮、強奪を繰り返し、著者の母親も不幸な死に方をしました。
 「治安は維持される。日本人市民はそのまま現地にとどまるように」
 連日、ラジオでアナウンスされていたのにね。

 「わたしたちは国家に二重に裏切られた」

 日本は必ず勝つということ。現地にとどまれといわれて脱出までに過酷な日々を過ごしたこと。

 国を愛し、故郷を懐かしく思う気持ちはだれにでもあるもの。しかし、国を愛することと、国家を信用することは別物。
 国民も、国を愛し、税金を払ってはいても、だからといって、最後まで国が国民を守ってくれると勘違いしてはいけない。

 「国に頼らない」という覚悟を決める。

 「頼らない」ということは「信じない」ということではありません。依存しない。すべてをお任せしない。国に対する義務は果たす。けど、最後のところで国は守っちゃくれない、と「諦める」ことが、わたしたちの覚悟の1つなんですね。

 「覚悟」という言葉で思い出すのは親鸞の言葉。平安末期から鎌倉時代、中世を駆け抜けた宗教家ですね。浄土真宗の開祖です。
この人は、それまで鎮護国家の仏教、祈祷仏教、上流貴族の仏教を、民衆に取り戻した人です。
 この親鸞。師である法然への帰依は絶対的なものでした。

 「親鸞和尚、念仏の極意とはなんでしょうか?」
 「自分は、法然上人の言われるとおり、そのまま信じてついていっているだけだ。ほかにむずかしい理由はない」
 そして、こう続けるのね。
 「たとえ法然上人についていって念仏して地獄に堕ちようとも、後悔はしない」

 「地獄は一定すみかぞかし」

 いま生きている世界は悟りすました「解脱」の世界ではなく、常に悩みを抱えて生きる「煩悩の地獄」である、と。

 念仏をすれば地獄から救われる、とはひと言もいわない。「地獄を生きる」と覚悟するところから親鸞の信仰は出発してるんです。

 国に頼らない。国にすべて丸投げしない。教育を学校や教師に頼らない。丸投げしない。丸投げするなら殺されても文句をいう資格はないんです。

 覚悟か・・・。知恵と経験、元気と勇気を総動員してかからないといけませんな。300円高。