2009年04月22日「神の代理人」 塩野七生著 新潮社 1995円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

 「ローマ人の物語」で知られる塩野七生さんの「ルネサンス著作集」の1冊ですな。
 どうしていまごろと思うでしょ? たしか、以前、彼女の本を何冊か紹介してるはず。実は、新聞だか何かで、ある経営トップが退くとき、次の社長さんに読むべし、と勧めたのがこれなのよ。
 たしかに「ローマ人・・・」じゃ、読んでる間に任期終わっちゃうかもしれないしね。「これ、前の社長から勧められたヤツ。これも引き継いでね」じゃ噺にならんわな。
 気になってね。どこを読ませたいのかなあ・・・と思ったわけ。その前任の社長さん、名前を忘れちゃったんだけど。ホンダだか伊藤忠だか、パナソニックだったか。うん、完全に忘れた。

 主役はキリスト教最高権力者である4人のローマ法王たち。
 この人たち、もちろん、聖職者であり権力者であるわけだけど、ここにいたるまで、そしていまのパワーを死守するために、水面下でいったいどれだけのことをしてきたか。
 人の心を支配する絶対的な存在として・・・策謀と罠。深謀遠慮、プライドと妥協などの実像を、それぞれのライバルを配して描かれてます。

 ある意味、むき出しのリーダーシップでもあり、その人らしさというものが浮き彫りになってきますな。やっぱりローマにも信長、秀吉、家康はいましたな。

 圧巻はやっぱアレッサンドロ6世とそのライバルともいうべき狂信的修道士サヴォナローラの対決でしょうなあ。

 かたや、きわめて冷静でいつも計算尽くでなによりも「待つこと」を知っている法王アレッサンドロ6世。なにしろ、能力、権力、そして財力で、枢機卿の中でもダントツでありながら、確実な時が来るまで法王の座をいたずらに狙わず、34年間も待っていた男なのよね。
 かたや、法王庁の堕落を苛烈なまでに批判し、フィレンツェでは圧倒的な信者にサポートされてる修道士サヴォナローラ。

 アレッサンドロ6世というのは、法王に即位する前はロドリーゴ・ボルジアよ。あの罪悪の権化ともいうべきボルジア家ですな。オーソン・ウェルズの映画『第三の男』に有名な台詞がありましたでしょ。
「ボルジア家30年の圧制はミケランジェロやダ・ヴィンチを生んだが、スイス 500年の平和と民主主義は何を生んだ? 鳩時計だけさ」

 時はメディチ家が追放された1490年代のイタリア。

 イタリアというのは、ご存じのようにミラノ、ナポリ、シエナ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどの小国の集合体でしてね。もちろん、当時は統一なんぞされてません。キリスト者の支柱としてローマ法王庁があり、ここが政治と宗教を支配し、オールキリスト者の生活をコントロールしていたというわけ。

 そんなところに、「法王庁は堕落している! 神の鉄槌がくだされる!」と民衆を扇動する人物が現れたら、そりゃ困りますわな。
 しかも、その煽動者が民衆に超人気のあるカリスマだとしたらこれは一大事ですよ。法王としての威厳は失墜。存在意義を根底から否定されちゃうんですからね。

 その煽動者サヴォナローラはめちゃ清貧でね。だから、民衆も彼の説経を信頼するわけ。陶然として聞き惚れるわけ。とくに若者には熱狂的なファンが多くてね。

 貧しい庶民は貧しいが故に熱狂するんでしょうな。過度の禁欲は狂信の温床になります。
 禁欲によって肉体は衰えるかもしれないけど、想像力は活発になる。神の啓示もまま見るようになっちゃうわけ。われこそは神に選ばれた使命を持つ者だ、なんて、狂信はさらに激しくなるわけよ。

 ところで、当時の(いまもそういう部分があるけれども)キリスト教界というのは、精神的、社会的に、民衆を支配してたのね。
 どういうことかというと、まず、信仰の中心としてキリスト教があるわけですけど、それだけでなく、社会生活をおくるうえで教会の果たす役割が大きかったのよ。というか、教会無しには生活できないといっても過言ではないわけ。
 なぜなら、子供が生まれたら洗礼を受けなければならない。教会がなければ結婚もできない。葬儀ができない。死んだら地獄に行くしかない。つまり、人生のポイントポイントにすべて教会がついてまわってるわけ。

 人間なんてそんなに善良なことばかりしてるわけじゃない。つうか、その逆のほうが多い。で、人に話せない悪事でも教会は懺悔を聞いてぜ〜んぶ知ってるんだからさ。で、人々の罪を暴き立てては、地獄に落ちるぞと脅かしにかかる。これ、教会の得意技ですわな。

中世イタリアでは、そりゃ教会のパワーは大変なものだったと思いますな。まして頂点に位置する法王の威厳はかなりのものだったんじゃないかな。

 けど、ルネッサ〜ンス!もそろそろ始まりそうな時代背景ですよ。

「権力者たちだけで美味しいことやってるんじゃないか?」とみなが疑念を持ちはじめてるとこに、こちらは公然と聖職者の堕落を糾弾してるんですからね。おまけに「神の言葉を聞いた」「私は預言者である」とみずから名乗っちゃってる。
 しかも圧倒的な説得力で、法王に対して敢然と立ち向かっちゃう。
 さて、どうする? 家康は? いえいえアレッサンドロ6世は? このカリスマ説経師に対してどう出るか? どう裁くか? 公然とサヴォナローラを応援するフィレンツェ共和国に対しても、周囲の国々をどう巻き込むか?

 その交渉術はちと見物ですよ。

 ところで、このアレッサンドロ6世というのは開明の人でしてね。あらゆる宗教の共存と信教の自由を認めた人なのよ。たとえば、1492年(コロンブスのアメリカ大陸発見!)、スペイン人が異教徒をグラナダから追い出したとき、アフリカへ逃げた回教徒と異なり、逃げ場所のなかったユダヤ教徒を引き取ったりしてるわけ。
 ローマの一部を彼らの居留地にしたりしね。いわば、キリスト教の総本山ともいうべき地に、ユダヤのシナゴーグがあった。そればかりか、自分の侍医にユダヤ人を選んだほど。

 いわば、この世界ではじめて政教分離を徹底した人物でもあるわけ。

 一方、サヴォナローラは逆で、政治と宗教の一致をあくまでも追求した人。聖職者だけが政治に参加できる、としていたからね。

さて、このアレッサンドロ6世が愛した言葉があります。
「生ける犬は、死せる獅子にまさる」
 これ意味深ですな。古代ユダヤの格言ですよ。ま、現実主義者としての真骨頂が伺える逸話ですな。400円高。



 追記 ところで、冒頭の話なんだけどさ。その経営トップが読ませたかったのは、たぶん、「ジュリオ2世」だろうね。ものすごく短編なんだけど。これだろうなあ。
 なぜか? このジュリオ2世というのは、アレッサンドロ6世のあと、わずか26日間の法王だったピオ3世を継いで法王となった人物なのよ。
 で、この人の治世においてもローマは波瀾万丈でね。けど、彼をいつも救ったのは味方ではなく敵の存在なのね。皮肉なものですよ。
 彼が冒した誤りはたくさんあるけど、2つの主因に要約されますな。その1つは民心の洞察ができないこと。もう1つはそれに基づく果断な処置ができなかったこと。
 けどねえ、この2つって、人の上に立つ人にとって必須の素質でしょう。能力云々という前にね。なけりゃ、そりゃ致命的ですわな。

 後事を託す経営トップとしては、この2つを肝に銘じて欲しいと考えたのではないかな。けど、だれだったかなあ。忘れたなあ。