2010年12月24日全文掲載「聴く!通勤快読」−「洋平へ 君の生きた20年と、家族の物語」 佐々木博之・志穂美著 主婦の友社 1260円
今夜はクリスマスイブですね。だれと過ごしますか? カレシ? カノジョ? 家族?
家族っていいですね。喧嘩しても、いざというとき、まとまる単位。お互いにずけずけモノを言い合える。遠慮のない人間関係。それが家族かもしれません。
ま、イヴは恋人と、そしてクリスマスは家族と・・・お仕事という人もいるかもしれません。私も最後の最後までインタビューですよ。
さて、これ、私のクリスマスプレゼントです。申し訳ありません。今回は音声はなしでお願いします。とてもお話する自信がありません。とてもとても声になりません。テキストでご寛恕のほどを。そして今回は全文ご紹介させていただきます。
ああそうだろうな、こればかりは同じ体験をした人、同じ境遇の人でなければわからんだろうな。紙1枚ほどの差かもしれないけど、実は大きな差。永久にわからんだろうな、と思う。
「上司が言うんですよ。子どもが3人とも障害児で幸せなはずはないって。障害がわかったときはショックだったわけでしょ。つらいことが幸せに変わるには、よほどの大きな出来事があったはずなんです。それを聞きたいんです」
これ、ラジオの取材。相手はヤンママ(ヤンキーではなくヤング)。善人で正直な人なんでしょうね。
ただ人の心がわかっちゃいない。ま、わからないのが当たり前です。だって、熱帯に住む人に氷の冷たさをいくら説明してもわからんでしょ?
幸せなはずはない・・・そう思うでしょうね。けど、そんなことはありません。ゼッタイにありません。
なぜ? 絶望からスタートしたから? 違います。障害(ホントは障碍と書くんだよ!)を持っていようがなんだろうが、この子たちがわが子でよかった、と心の底から思ってるんです。だってそうなんだもの。
昔々、ボランティア大学で机を並べた先輩の詩人、椎名美知子さん。当時24歳になる精神発達遅滞のお嬢さんとの人生を綴った詩集を出してます。
みんな記念日
何気なく過ぎてしまうこと あたりまえに過ぎてしまうこと
どれも途方もなく輝いて見えるのは 障害の子を持った幸せ
初めて私の顔を見て微笑った日
初めて言葉を話した日
初めて水道の蛇口をひねった日
初めて一人で電車で出かけた日
みんな記念日
そのたびにウワーッと空にむかって叫びたくなる
胸の中から何かが湧き立ち 大きく大きく見えてくる
あたりまえのことなのに大きな声でみんなに伝えたくなる
あたりまえじゃないってすばらしいな・・・詩集『失わないで青空』より
いまから20年前、1歳の誕生日に、著者は洋平くんに「手紙」を書いてます。途中少しずつカットしながらですが紹介させてください。
洋平。おまえが生まれるとき、父さんは病院の廊下でずっと祈っていた。
元気な子でありますように。できれば大きく生まれますように。おなかにいたとき、小さめ小さめと言われていたから(中略)。
もうすぐお宮参りって日に、おまえはかぜをひいた。熱もたいしたことはない。元気もまあある。だけど一応病院に行っとけよ(中略)。
母さんが言うには、かぜはかぜ。それより別の大きな異常があるらしいの。涙声だった。
おまえは、77000人に1人しか生まれない病気を持った子だった。
母さんはショックでそこらじゅうでゲェゲェ吐いた(中略)。
重い病気を持ちながら、それでも父さん母さんに会いたくて生まれてきたおまえを、いままで以上に愛しく思った。
父さんと母さんは絵が好きだ。描くほうではなく観るほうだけど。案外洋平はステキな絵を描くかもしれないね。山下清、棟方志功、最近はもっとたくさんの人がハンデをおして絵を描いている。
そんな父さんと母さんの夢は眼科医の言葉でくずれていった・・・。
「見えていませんね」
コンサートに行こう。母さんが目を輝かせて言った。いっぱいいっぱいコンサートに連れて行って、胸の中、いい音楽でいっぱいにしてやろうよ。
だけど今度は耳鼻科医の言葉。
「聞こえてませんね」
愛らしい姿。キラキラした見えるような瞳。バラ色のほっぺ。大きな手足。だのに・・・(中略)。
生まれたてのころ、この子はラグビー選手にすればいいなぁって言っていたっけ。いまでもそんな体してる。
歩くことさえ無理・・・ううん、洋平。おまえは走るんだ。何年かかってもいい。何十年かかってもいい。走るんだ。
どんなに遅くたっていい。世界中で一番ビリってことはけっしてない。父さんが必ずおまえのうしろを走ってやる。父さんがビリになってやる。
どんなことでも挑戦しよう。必ず父さんがうしろにいてやる。
いつかは歩ける。いつかは走れる。
洋平。がんばろうな。ありがとう。父さんと母さんの子どもとして生まれてきてくれて、本当にありがとう。
そして、ハッピーバースデー。
1990年12月9日。
とっても幸せじゃないですか。洋平くんだけでなく、実は奥様にも、そして自分自身にも宛てて書いたんでしょう。
洋平くんは障碍も深刻でしたけど、もっと心配だったのは体が弱いこと。そこで重度心身障害者施設に入所します。
1歳4カ月ちがいの大(ダイ)くんは高機能自閉症。自閉症はひきこもりと混同されますけど、先天性の障碍なんです。知的な遅れがない、もしくは小さい自閉症のことを高機能自閉症と言うんです。
ダイくんと3つちがいの航くんは障碍がなさそうだ、とホッとしたのもつかの間。実はダイくんよりも深刻だったんです。重度の自閉症。知的な遅れもありました。石を食べる。自傷他害。けど、医師と専門家、学校や保護者会など周囲の協力でみるみる落ち着きを取り戻すことができました。
「こんな3兄弟でも性格はセオリー通りの特性を持っている。洋平はとことん優しい。動けない、しゃべれない。どうして優しいとわかる? 一緒にいると日だまりにいる気持ちになる。植物に包み込まれている心地になる。ダイは愛情の受け方が不器用。一方、航は天真爛漫」
そりゃ「普通の子ども」を持った人の何千倍何万倍もの苦労をしたと思う。
でもさ、「普通」ってなんだろ? 障碍ってなんだろ?
障碍のある子どもを持ったからこそ、「普通の親」ではとてもとても体験できないディープな親子関係を築けたのではないのか。手をかけた分、何千倍何万倍も強い絆で結ばれたのではないのか。
いまどき、いい年した若者と手をつなげる親がいます? 思春期の息子に母親がそんなことしたら、「キモイ、ババア!」のひと言だよ。父親が1日に何回も何回も抱き上げる。肩も凝るし背中も凝るけど、愛する息子を抱き上げることなんて、どんなに頼んだって「普通の親」にはとてもさせてくれませんよ。
20歳になった洋平くんにお父さまは手紙を書きました。これも途中途中カットしながらご紹介します。
洋平。20歳おめでとう。元気に成人式を迎えることができて、本当に良かった。
不思議なんだ。君のケアのために、夜中何度か起きないといけなかっただろ? いつも「父さん、父さん」って声に起こされたような気がするんだ。あれは夢だったのか、本当に君の声だったのか。簡易ベッドから起き上がると、君が助けを求めるような目をして父さんを見ているんだ。父さんがしっかり目を覚ますと、君はもう何も言わないんだ。ただじっと父さんを見ていたね。父さんの声にじっと耳を傾けていたね(中略)。
君は父さんよりずっと長く生きろ。「成人を祝う会」楽しみだな。次に年齢を祝ってもらえるのは還暦だぞ。めざせ還暦。生きろ。洋平。
生きろ。生きろ。生きろ。洋平。
洋平。楽しい20年間をありがとう。これからもよろしく。
2009年12月。
成人式をみんなに祝ってもらったちょうど1週間後。腸閉塞の疑いで大学病院に転院する、という連絡が入りました。前の腸閉塞からわずか半年。ペース早くない? 病院はもう慣れっこ。到着は昼過ぎ。夕方6時になると航くんが限界。で、夫と航くんを先に帰らせ、これから当分付き添いの日々。家事は山積み。準備もあるし・・・。
「また明日来るね」
(どうして私だけでも残らなかったんだろう?)・・・何十回何百回も思った。
慌てて病院に駆けつけると、40.3度と表示された体温計が投げ出されていた。ベッドはカラ。ICUにまわると人工呼吸器をつけた洋平くんがいました。
「あのあと体温が急に上がり・・・心停止で40分間、脳に酸素がいってませんから厳しい状況です」
「植物人間でもいいです。きっとまた目を覚ますと思うんです」
「心臓はもう長くは動けないと思います。これ以上・・・」
「・・・」
「もう無理だと思います」
「9時20分だって」
航くんのおしっこに付いて帰ると、夫がそうつぶやいた。
まるで夢のなかの出来事のようにふわふわと実感がない。お別れの時には「感情」というものを動かさないよう機械的に行動する、と決めた。けど、感動、感激といった感情が勝手にほとばしってしまった。
驚くほどたくさんの人が来てくれたから。
たくさんのお友だち、生まれたときからお世話をしてくれたスタッフの皆さん、担当のお医者さん、弟の小学校時代の校長先生があちこちに連絡してくれた。恩師や同級生たちも。保護者の皆さん。PTAの仲間。近所の人たち・・・遠くからたくさんたくさん来てくれた。
洋平くん、とっても喜んでいたと思う。嬉しくてそこら中をはしゃぎまわっていただろうな。もうどこも痛くないし苦しくないし。これからはどこにだって行けるんだもん。
手のかかる子だった。けど大きな体を抱き上げることはとっても幸せだった。洋平くんを支えてきたつもり。けど支えられていたのは親のほうなんだよね。
「植物的な優しさ」の持ち主だという。ほんわかと包み込む優しさだという。あのとき、もし一緒にいたら取り乱して狂っていたかもしれない、とお母さま。だから、わざといないときに・・・。
お別れの時、ダイくんがだれよりもたくさん花を入れていた、と聞いた。
「洋平は体が不自由だろうと苦しかろうと、ていねいに与えられた時間を生き抜いた。私もこれからの人生、何があっても、きちんと最後の瞬間までていねいに生きなければと思う。そして、いつの日か、命の終わりが来たら、その瞬間をていねいに受け容れたい。洋平が受け止めることができたことは私も努力しなければ」
「春が来たらダイは働き始める。航は高校生になる。洋平は私たちとともにいる。春を知らせる花の香りのなかにも、あたたかな風のなかにも洋平はいる。私たちはずっと5人家族」
私が原理原則研究会で使うテキストの1つに『The Book of Questions』(グレゴリー・ストック著)という本があります。
このなかにこんな質問があるんです。
「この世で考えられる最上の愛をかわす相手に巡り会うチャンスがあります。悲しいことに、半年後に死ぬ運命です。その後に続く苦しみを覚悟の上で、なお、あなたはこの人と巡り会いたいですか?」
私がこの本を読んだのは10年前のことです。メンバーにもこの質問をしたことがあります。さて、なんと答えたのかまったく覚えていません。
いまならなんと言うか? まず最初にこう言うでしょうね。この著者は最上の愛をかわした経験がない、と。そして次に「もちろん、YES!」と。この著者は知らないんでしょう。
「一緒に過ごせた」という想い出やぬくもりがどれだけ大きいか。その後の人生を支えてくれるか、を。
その後に続く苦しみ? そんなものはありません。お墓参りでコミュニケーションすることがどれだけ楽しい時間か。本当に愛し愛された人を「感じる」ことで強く生きていけるんです。
登山に似ているような気がしてなりません。ケーブル電車で頂上に来て美しい景色を観て帰る人生より、えっちらおっちら転びながら汗をかいて登って観る景色のほうがどれだけ美しいか。
人生の出発と結果は悲劇だろうが喜劇だろうがどうでもいいんです。大切なのは過程ではないでしょうか。
「命の限り愛した」「命の限り愛された」・・・これで十分ですよ。
家族っていいですね。喧嘩しても、いざというとき、まとまる単位。お互いにずけずけモノを言い合える。遠慮のない人間関係。それが家族かもしれません。
ま、イヴは恋人と、そしてクリスマスは家族と・・・お仕事という人もいるかもしれません。私も最後の最後までインタビューですよ。
さて、これ、私のクリスマスプレゼントです。申し訳ありません。今回は音声はなしでお願いします。とてもお話する自信がありません。とてもとても声になりません。テキストでご寛恕のほどを。そして今回は全文ご紹介させていただきます。
ああそうだろうな、こればかりは同じ体験をした人、同じ境遇の人でなければわからんだろうな。紙1枚ほどの差かもしれないけど、実は大きな差。永久にわからんだろうな、と思う。
「上司が言うんですよ。子どもが3人とも障害児で幸せなはずはないって。障害がわかったときはショックだったわけでしょ。つらいことが幸せに変わるには、よほどの大きな出来事があったはずなんです。それを聞きたいんです」
これ、ラジオの取材。相手はヤンママ(ヤンキーではなくヤング)。善人で正直な人なんでしょうね。
ただ人の心がわかっちゃいない。ま、わからないのが当たり前です。だって、熱帯に住む人に氷の冷たさをいくら説明してもわからんでしょ?
幸せなはずはない・・・そう思うでしょうね。けど、そんなことはありません。ゼッタイにありません。
なぜ? 絶望からスタートしたから? 違います。障害(ホントは障碍と書くんだよ!)を持っていようがなんだろうが、この子たちがわが子でよかった、と心の底から思ってるんです。だってそうなんだもの。
昔々、ボランティア大学で机を並べた先輩の詩人、椎名美知子さん。当時24歳になる精神発達遅滞のお嬢さんとの人生を綴った詩集を出してます。
みんな記念日
何気なく過ぎてしまうこと あたりまえに過ぎてしまうこと
どれも途方もなく輝いて見えるのは 障害の子を持った幸せ
初めて私の顔を見て微笑った日
初めて言葉を話した日
初めて水道の蛇口をひねった日
初めて一人で電車で出かけた日
みんな記念日
そのたびにウワーッと空にむかって叫びたくなる
胸の中から何かが湧き立ち 大きく大きく見えてくる
あたりまえのことなのに大きな声でみんなに伝えたくなる
あたりまえじゃないってすばらしいな・・・詩集『失わないで青空』より
いまから20年前、1歳の誕生日に、著者は洋平くんに「手紙」を書いてます。途中少しずつカットしながらですが紹介させてください。
洋平。おまえが生まれるとき、父さんは病院の廊下でずっと祈っていた。
元気な子でありますように。できれば大きく生まれますように。おなかにいたとき、小さめ小さめと言われていたから(中略)。
もうすぐお宮参りって日に、おまえはかぜをひいた。熱もたいしたことはない。元気もまあある。だけど一応病院に行っとけよ(中略)。
母さんが言うには、かぜはかぜ。それより別の大きな異常があるらしいの。涙声だった。
おまえは、77000人に1人しか生まれない病気を持った子だった。
母さんはショックでそこらじゅうでゲェゲェ吐いた(中略)。
重い病気を持ちながら、それでも父さん母さんに会いたくて生まれてきたおまえを、いままで以上に愛しく思った。
父さんと母さんは絵が好きだ。描くほうではなく観るほうだけど。案外洋平はステキな絵を描くかもしれないね。山下清、棟方志功、最近はもっとたくさんの人がハンデをおして絵を描いている。
そんな父さんと母さんの夢は眼科医の言葉でくずれていった・・・。
「見えていませんね」
コンサートに行こう。母さんが目を輝かせて言った。いっぱいいっぱいコンサートに連れて行って、胸の中、いい音楽でいっぱいにしてやろうよ。
だけど今度は耳鼻科医の言葉。
「聞こえてませんね」
愛らしい姿。キラキラした見えるような瞳。バラ色のほっぺ。大きな手足。だのに・・・(中略)。
生まれたてのころ、この子はラグビー選手にすればいいなぁって言っていたっけ。いまでもそんな体してる。
歩くことさえ無理・・・ううん、洋平。おまえは走るんだ。何年かかってもいい。何十年かかってもいい。走るんだ。
どんなに遅くたっていい。世界中で一番ビリってことはけっしてない。父さんが必ずおまえのうしろを走ってやる。父さんがビリになってやる。
どんなことでも挑戦しよう。必ず父さんがうしろにいてやる。
いつかは歩ける。いつかは走れる。
洋平。がんばろうな。ありがとう。父さんと母さんの子どもとして生まれてきてくれて、本当にありがとう。
そして、ハッピーバースデー。
1990年12月9日。
とっても幸せじゃないですか。洋平くんだけでなく、実は奥様にも、そして自分自身にも宛てて書いたんでしょう。
洋平くんは障碍も深刻でしたけど、もっと心配だったのは体が弱いこと。そこで重度心身障害者施設に入所します。
1歳4カ月ちがいの大(ダイ)くんは高機能自閉症。自閉症はひきこもりと混同されますけど、先天性の障碍なんです。知的な遅れがない、もしくは小さい自閉症のことを高機能自閉症と言うんです。
ダイくんと3つちがいの航くんは障碍がなさそうだ、とホッとしたのもつかの間。実はダイくんよりも深刻だったんです。重度の自閉症。知的な遅れもありました。石を食べる。自傷他害。けど、医師と専門家、学校や保護者会など周囲の協力でみるみる落ち着きを取り戻すことができました。
「こんな3兄弟でも性格はセオリー通りの特性を持っている。洋平はとことん優しい。動けない、しゃべれない。どうして優しいとわかる? 一緒にいると日だまりにいる気持ちになる。植物に包み込まれている心地になる。ダイは愛情の受け方が不器用。一方、航は天真爛漫」
そりゃ「普通の子ども」を持った人の何千倍何万倍もの苦労をしたと思う。
でもさ、「普通」ってなんだろ? 障碍ってなんだろ?
障碍のある子どもを持ったからこそ、「普通の親」ではとてもとても体験できないディープな親子関係を築けたのではないのか。手をかけた分、何千倍何万倍も強い絆で結ばれたのではないのか。
いまどき、いい年した若者と手をつなげる親がいます? 思春期の息子に母親がそんなことしたら、「キモイ、ババア!」のひと言だよ。父親が1日に何回も何回も抱き上げる。肩も凝るし背中も凝るけど、愛する息子を抱き上げることなんて、どんなに頼んだって「普通の親」にはとてもさせてくれませんよ。
20歳になった洋平くんにお父さまは手紙を書きました。これも途中途中カットしながらご紹介します。
洋平。20歳おめでとう。元気に成人式を迎えることができて、本当に良かった。
不思議なんだ。君のケアのために、夜中何度か起きないといけなかっただろ? いつも「父さん、父さん」って声に起こされたような気がするんだ。あれは夢だったのか、本当に君の声だったのか。簡易ベッドから起き上がると、君が助けを求めるような目をして父さんを見ているんだ。父さんがしっかり目を覚ますと、君はもう何も言わないんだ。ただじっと父さんを見ていたね。父さんの声にじっと耳を傾けていたね(中略)。
君は父さんよりずっと長く生きろ。「成人を祝う会」楽しみだな。次に年齢を祝ってもらえるのは還暦だぞ。めざせ還暦。生きろ。洋平。
生きろ。生きろ。生きろ。洋平。
洋平。楽しい20年間をありがとう。これからもよろしく。
2009年12月。
成人式をみんなに祝ってもらったちょうど1週間後。腸閉塞の疑いで大学病院に転院する、という連絡が入りました。前の腸閉塞からわずか半年。ペース早くない? 病院はもう慣れっこ。到着は昼過ぎ。夕方6時になると航くんが限界。で、夫と航くんを先に帰らせ、これから当分付き添いの日々。家事は山積み。準備もあるし・・・。
「また明日来るね」
(どうして私だけでも残らなかったんだろう?)・・・何十回何百回も思った。
慌てて病院に駆けつけると、40.3度と表示された体温計が投げ出されていた。ベッドはカラ。ICUにまわると人工呼吸器をつけた洋平くんがいました。
「あのあと体温が急に上がり・・・心停止で40分間、脳に酸素がいってませんから厳しい状況です」
「植物人間でもいいです。きっとまた目を覚ますと思うんです」
「心臓はもう長くは動けないと思います。これ以上・・・」
「・・・」
「もう無理だと思います」
「9時20分だって」
航くんのおしっこに付いて帰ると、夫がそうつぶやいた。
まるで夢のなかの出来事のようにふわふわと実感がない。お別れの時には「感情」というものを動かさないよう機械的に行動する、と決めた。けど、感動、感激といった感情が勝手にほとばしってしまった。
驚くほどたくさんの人が来てくれたから。
たくさんのお友だち、生まれたときからお世話をしてくれたスタッフの皆さん、担当のお医者さん、弟の小学校時代の校長先生があちこちに連絡してくれた。恩師や同級生たちも。保護者の皆さん。PTAの仲間。近所の人たち・・・遠くからたくさんたくさん来てくれた。
洋平くん、とっても喜んでいたと思う。嬉しくてそこら中をはしゃぎまわっていただろうな。もうどこも痛くないし苦しくないし。これからはどこにだって行けるんだもん。
手のかかる子だった。けど大きな体を抱き上げることはとっても幸せだった。洋平くんを支えてきたつもり。けど支えられていたのは親のほうなんだよね。
「植物的な優しさ」の持ち主だという。ほんわかと包み込む優しさだという。あのとき、もし一緒にいたら取り乱して狂っていたかもしれない、とお母さま。だから、わざといないときに・・・。
お別れの時、ダイくんがだれよりもたくさん花を入れていた、と聞いた。
「洋平は体が不自由だろうと苦しかろうと、ていねいに与えられた時間を生き抜いた。私もこれからの人生、何があっても、きちんと最後の瞬間までていねいに生きなければと思う。そして、いつの日か、命の終わりが来たら、その瞬間をていねいに受け容れたい。洋平が受け止めることができたことは私も努力しなければ」
「春が来たらダイは働き始める。航は高校生になる。洋平は私たちとともにいる。春を知らせる花の香りのなかにも、あたたかな風のなかにも洋平はいる。私たちはずっと5人家族」
私が原理原則研究会で使うテキストの1つに『The Book of Questions』(グレゴリー・ストック著)という本があります。
このなかにこんな質問があるんです。
「この世で考えられる最上の愛をかわす相手に巡り会うチャンスがあります。悲しいことに、半年後に死ぬ運命です。その後に続く苦しみを覚悟の上で、なお、あなたはこの人と巡り会いたいですか?」
私がこの本を読んだのは10年前のことです。メンバーにもこの質問をしたことがあります。さて、なんと答えたのかまったく覚えていません。
いまならなんと言うか? まず最初にこう言うでしょうね。この著者は最上の愛をかわした経験がない、と。そして次に「もちろん、YES!」と。この著者は知らないんでしょう。
「一緒に過ごせた」という想い出やぬくもりがどれだけ大きいか。その後の人生を支えてくれるか、を。
その後に続く苦しみ? そんなものはありません。お墓参りでコミュニケーションすることがどれだけ楽しい時間か。本当に愛し愛された人を「感じる」ことで強く生きていけるんです。
登山に似ているような気がしてなりません。ケーブル電車で頂上に来て美しい景色を観て帰る人生より、えっちらおっちら転びながら汗をかいて登って観る景色のほうがどれだけ美しいか。
人生の出発と結果は悲劇だろうが喜劇だろうがどうでもいいんです。大切なのは過程ではないでしょうか。
「命の限り愛した」「命の限り愛された」・・・これで十分ですよ。