2001年11月19日「ルネッサンス」「間の極意」「自己変革の心理学」

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」


1 「ルネッサンス」
  カルロス・ゴーン著 ダイヤモンド社 1840円

 バカ売れしてるそうです。
 たしかにおもしろい・・・だけではなく、勉強になります。訳もうまい。
 わたしは基本的に翻訳書は読まないんです。
 なぜかというと、外国人の文章って解説のしすぎでしつこいという理由が一つ。もう一つは、訳がもう下手で何が言いたいのかわからない、っていうケースが少なくないからです。
 でも、これはうまくこなれた文章になってます。ドラッカーの訳みたい。

 で、内容はもう、日産の立て直しに懸命なゴーンさんの「わたしの履歴書」ですよ。どうして、日経はほっといたのかね。これ、きっと社長から怒鳴られたと思うよ。
 「なんで、ダイヤなんぞに取られたんだ」とね。文春、講談社あたりならまだ許されたでしょうけど、ダイヤじゃね。

 日産で一躍有名になった「クロス・ファンクショナル・チーム」の方法は、年率1千パーセントもの高インフレ下のブラジル・ミシュラン再建で展開したやり方だったんですね。
 いわば、ゴーン流「勝利の方程式」ですよ。

 解答はすべて現場にある。これが大前提です。
 ですから、問題点の特定から建て直しのための処方箋を書くこともすべて現場にやらせる。ただし、その現場とは烏合の衆ではなく、問題意識とやる気を持った若手、中堅をあらゆる分野から抜擢して取り組ませるわけです。
 その方法はギュウギュウに絞るというよりも、飽きなき熱意と探求心で引き出していくといったほうが正確でしょうか。
 典型的なコーチングですね。

 日産では落下傘のように舞い降りたかと思うと、たった3カ月くらいの間に数百人もの若手、中堅をクロスチームに組み込んでしまいましたが、このあっという間に集中力をもっ展開するというのがゴーン流です。
 集中力がなければできないほど、事態が切迫してる案件ばかり担当してますから、自然とそうなります。
 でもね、これって彼の生き方、性格に合ってるんですよ。
 芥川じゃありませんけど、人は性格にあったような事件にしか遭わないようになってるんですな。
 この人、近い将来、奥さんとなる人とはじめて会ったときにもブリッジに夢中になってて、コンビを組んでた友人と敗因について徹底的に議論してたらしいんです。ですから、奥さんの第一印象は「集中力のある人」という讃辞です。

 集中力はものすごくあります。ですから、本質的に朝も早いし、せっかちな人だと思います。
 でもね、待つべきときは待たないといけない。待たなければならないときもある、ということを知ってる人です。
 「2年目の若木からヘベアを採取することはできない。人為的にどんなに努力しようとも、どうあがこうとも7年またなければゴムはできないし、25年経てば、また切り倒すしかないのだ」
 ミシュランはタイヤメーカーですから、最大のゴム・プランテーションをブラジルに持ってました。この仕事って、1年ほどかけて土地を耕し、翌年やっとタネを蒔きます。それから7年かかるんですね、採取できるまで。それでも25年くらいしか土地がもたないんです。
 つまり、生産期間は正味17年間なんです。それが過ぎると、もう一度、振り出しに戻るわけですよ。これが自然のサイクルなわけ。
 
 いずれにしても、ビジネスマンとして成功する資質に、集中力が占める割合はものすごく大きいと思います。集中すべきときに、きちんと集中する。これさえできれば、ビジネスマンとしてはそこそこは行けますよ。
 でも、集中力すべきときに集中しない。集中する方法を知らない。集中すべきタイミングに気づかない。こういった人は少なくありませんけど、そんなに集中力のある人ばかりだと戦争で息が詰まるかもしれませんな。

 彼は子どもの頃から集中力がものすごく、とくに数学は抜群に良くて、大学進学の際もマネジメントの勉強をする予定だったのが、数学の能力を活かすようにと技術系の大学に入るんですね。
 実はフランスでは数学、物理の順で高く評価され、あとは十把一絡げくらいの評価です。
 ですから、高く評価されてたんです。

 おもしろいのはミシュランが代替わりする前に、自分の将来を考えてルノーへのヘッドハンティングに乗るところかな。彼の人間くささがよく現れていて、まさに「わたしの履歴書」ですよ。

 いま、日本で人気のある経営者といえば、ゴーンさんとジャック・ウエルチの2人です。ウエルチは日経の「わたしの履歴書」に最近、掲載されてましたから、そのうち本になるんでしょう。
 いや、ならないかな。もう「ジャック・ウエルチ わが経営」(日経)が発売されてますもんね。
 250円高。


2 「間の極意」

 太鼓持あらい 角川書店 571円

 著者は福井在住の太鼓持です。
 「太鼓持」って知ってますか?
 太鼓持ってる人・・・じゃありませんよ。まっ、そういう人のこともいうかもしれませんが、これは幇間です。
 「ほうかん」−−大政奉還ではありません。
 「幇間=間を助ける」って書くんです。えっ、だれの間を助けるのか、ですって?
 いい質問です。それがポイントです。
 料亭や御茶屋で楽しむお客さんはじめ、そのお客さんを楽しませている芸者、舞妓などの間を助けるわけですよ。

 著者は元もと太鼓持だったわけではありません。当たり前ですが・・・。
 福井の床屋さんなんですね、実家は。それほど裕福ではないと言ってますが、かなり「おたく」っぽい子どもだったらしく、古い佇まいや寺社の多い京都が好きで、しょっちゅう、親戚の家に遊びに行っていた。すると、祇園や島原、上七軒などを通ります。中学生の分際で叔父さんに頼んで御茶屋に連れてってくれないか、と頼むんですね。
 で、感動したのが舞妓でも芸者でもなく、幇間、太鼓持なんです。
 それからも小遣いをせっせと貯めてはねだって通う、というませた青少年だったようです。
 それがプロの太鼓持になるんですからね。

 著者は元もと朗らかで人を飽きさせないような、立て板に水、サービス精神旺盛の人ではありません。家業の床屋でも二十歳になっても、お客にあいさつができないほど人見知りというか、人間つき合いが下手な人だったんです。
 それが変わるのは、正確には変えないとたいへんだと危機感を持ったのは、高校時代の同級生たちが大学に入り、人脈も情報も広くなっているのに、自分は小さな町で床屋をやって、しかもそこでも話すらできない。
 「一皮むけなくちゃ」と考えたんでしょうな。

 そこで宅建と土地家屋調査士の資格を取るんですね。
 その資格を持ちながら、床屋をやってたんですよ。すると、お客がお客を連れてくる。しかも、先生呼ばわりしていろいろ聞いてくる。それにアドバイスする。その繰り返しが自信に変わるんです。
 そこでいろんな人と知り合う。飲みにも行く。そこで芸者さんからいろんな芸を教えてもらう。遊びが高じていろんな芸を覚えてしまう。それが太鼓持へと誘うスタート地点だったんですね。

 でもね、最初の頃はこんなに芸を見せてやってるのに、相手からは一次会限りだったそうです。「二次会はけっこうです」というわけですな。
 これには憤慨したらしいですけど、いまにして思えば、「見せてやってる、聞かせてやってる」という意識が見え見えだったらしいです。
 これは押しつけですもの、ダメですよ。さりげなく、鮮やか。それが名人芸ってなもんでしょうが(あまり知りませんけど)。

 太鼓持は男芸者とも呼ばれます。
 これはかつて、青島幸男さんが佐藤栄作さんに向かっていった言葉で有名になりましたが、むかしは、芸者は男だったんです。それがいつの間にか、女性に職場を奪われたんです。
 逆が歌舞伎ですね。出雲の阿国からスタートしたんですもんね。

 で、太鼓持がいちばんむずかしいのは、「平場」です。平場というのは、芸を見せる場ではなく、ただたんにお酌をしたりして会話を楽しむ間のことですよ。
 これはすべて応用問題ですからね。マニュアルなど通用しません。だから、むずかしいんです。
 セールスでもそうですよね。雑談のほうが難しいでしょ。かえって、商品説明のほうが簡単だったりしますもの。
 それはね、間がもたないからです。商品説明を続けていれば、間がありませんから楽ですよ。人間エンドレステープになってれば、いいんですからね。
 でも、人と人とのコミュニケーションには間が微妙なパワーを持ってます。だから、間が悪い、間が抜けている、間が延びる、間が無い、間もなく・・・というように間に関する言葉がたくさんあります。
 話のうまい人というのは、ストーリー、構成も上手なんでしょうけど、間が絶妙なんですよね。落語家、漫才師でも一流はみんな間が巧みです。いたずらに喋りっぱなしということはありません。

 ところで、太鼓持ってのは下座業ですから、たいへんですよ。
 お客様は神様ですもんね。わがままばかり言ったり、理不尽なことを言ったりしたり、頭に来ることもたくさんあるでしょう。
 著者も自分が謝ることで、その場をなんか収めたことが何度もあったようです。

 神戸の大震災のあと、ある建築会社の社長に呼ばれます。
 要件は、復興のための建築資材の需要急増をどうするか、という問題でした。
 社長というのは孤独で、いざというとき、相談相手があまりいないんですね。で、このときも銀行の支店長と著者との2人が呼ばれました。

 支店長曰く、「いまや、金儲けの大チャンスです。いくらでも高く売りつけられます。資材を全部集めて、いちばん高く買ってくれるところへ売ればいいでしょう」

 著者曰く、「地震で全部ダメにならないでよかったやおまへんか。そしたら、この残ってる資材、全部、これまでお世話になった会社に渡して使うてもろうたらどないですか。地震でもっていかれた思うたら、原価でも儲けものやないですか。もし、支払いができんというなら、あとでもええから、どうぞ使うてください、と言うたらいいんやないですか」

 その社長は支店長を帰して、著者だけ残したそうですが、もし、著者が帰ることになったら、それは取引停止を意味することで、あとで青くなったそうです。。
 150円。


3 「自己変革の心理学」
 豊田正義著 光文社新書 680円

 著者は東京理科大の教授です。アルバート・エリスの「論理療法」を日本に紹介した人です。

 論理療法とは、「非合理的、非論理的な思考を見つけて取り出し、それらに有効な反論を加えて、次第に考え方を変えさせ、人を自滅の方向から救い出し、さらには適切な感情と思考とを取りもどすことを通じて、人がよりよき自己実現、幸福な生活に向かうことを援助しようとするカウンセリング理論」です。

 たとえば、悪口をいわれたとき、「なんてひどいことをいうヤツだ(プンプン)」と相手を憎く思う人がほとんどだと思うのですが、もし、このとき、「論理療法」で考えるとちょっと変わった風景が見えてきます。
 「あぁ、また変なことを言い出した。どうしたんだろう? どういうわけなんだろう?」と自分に向かって問いかけられるのです。「自分に向かって」ですよ、悪口を言ってる相手に向かって、ではありません。

 どこが変わったのか。
 それは「受け取り方」が変わったのです。
 ここが「論理療法」がセルフ・カウンセリングができる心理学、といわれる所以です。

 さて、著者はなかなかユニークな人で、中学生時代は総理大臣になって日本から「本人に責任のない不幸」を減らすリーダーシップを取ろうと真剣に考え、生徒会長を二年間も務めて、演説のトレーニングをします。
 まっ、よくあることです。
 さすがに高校生になると現実的思考を身につけたのか、政治家の道を諦めたものの、今度は哲学的、人生論的に取り組むことになった。で、いろんな人に相談すると、これがバラバラのことを言い出す始末。

 試行錯誤の結果、医学部に進んだものの、どうしても解剖への恐怖があって文学部心理学科に入り直します。ところが、そこでは著者が勉強したい人間学などなく、いつまでも動物実験の繰り返し。「人間を勉強したいなら文化系にいてはダメだ。人間は自然的存在だ」と親切な先輩から諭され、今度は物理学へと転身。天文学から地球、古生物学、人類誕生へとつながる研究プロセスを考えたものの、こんなもの研究してたら、一人の人間に手に負うわけがない。
 で、気力が萎えて挫折するわけです。

 学問的な分野以外にも、著者は挫折を繰り返します。
 学校に興味がなくなった著者は、昔でいうところの孤児院でボランティアをします。
 そこではなかなか人気があったらしく、とくに小学5年生の男の子とは仲が良かった。
 ところが、梅雨時のある日、伊勢丹で買ったおニューのジャンパーを着込んで行くと、この男の子が泥んこになって遊んでいた。著者を見つけ一目散に飛び込んできたんですか、おニューを汚されたくないから自然と避けてしまった。当然、目標を失った男の子は地面に落ち、泣きながら駆け去っていったんですね。
 以来、この男の子は人間不信になってしまったんです。
 「ボクはボランティアなどやる資格はない」
 著者もおおいに傷つき、挫折の奥深くに沈んでいくんですね。

 ただ一つ、心の慰めはバッハのオルガンだったといいます。で、時間が癒してくれたんでしょう。大人の教育学の道へと進路を見つけて、今日を迎えるわけです。

 「論理療法」は基本的に現象学です。現象学というのは、ちょっとややこしいのですが、大ざっぱに言うと次のようになります。
 「人間は、目に見える世界に住んでいるのではなくて、目で見える世界をどう受け取っているか、その受け取り方の世界に住んでいる」
 わかったような、わからないような・・・。

 ずばり、解説してみましょう。

 たとえば、わたしが大学で講義をしてる。そこにケータイの音。なにをとち狂ったのか、音楽は「出前一丁のテーマ音楽」ときたもんだ。
 「この野郎、なに考えてんだぁ。せいぜい笑点にしとけ」
 ンなわけありません。
 でも、このときのわたしの心をプロセスで説明すると次のようになります。
A 脳天気なケータイの音。
C 不快感。
 こういう流れですね。Aは物理的世界、Cは感情的世界です。物理的なケータイ音が感情の不快を引きおこすわけです。
 ところが、「論理療法」ではこう考えないのです。
 じゃ、どう考えるかというと、次のようにになるのです。
A 脳天気なケータイの音。
B 「講義中はケータイは切っておくべきだ」「それが礼儀だろう」「ニッポンの常識だ」
C 不快感。
 ってなことになりますな。
 これを抽象的な表現に置き換えます。
A 物理的世界。 
B 現象学的世界。
C 感情的世界。
 これを「論理療法」ではABC理論というんですが、要するに、物理的世界の出来事がいきなりダイレクトに感情を引きおこすわけではない、ということです。ここに注目してください。
 事実は一つ。解釈はいっぱいできます。
 解釈とは受け取り方ですが、これには「 rational belief 」「 irrational belief 」あります。つまり、合理的思考と非合理的思考ってことですよ。

 この「論理療法」は応用範囲が広いですよ。
 たとえば、仲の悪い人、上司、部下、同僚、妻、夫と対するとき、事実を事実として受けとめることも大事ですが、事実をどう受け取るかということはもっともっと大切なのです。
 ここは「心のギア」みたいなもので、いつも明るく、ケ・セラ・セラでハッピーな人(ときには脳天気な)は合理的に自分に都合のいいように変換して受け容れる術を知っているのです。
 わけのわからない時代です。理不尽で不条理ことばかり発生する社会です。
 もっと、本書は読まれてもいいと思うな。
 250円高。