2001年07月30日「僕はいかにして指揮者になったのか」「戦争学」「大正テレビ寄席の芸人たち」

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」


1 「僕はいかにして指揮者になったのか」

 佐渡 裕著 新潮社 505円

 ものすごくいい本です。元気が出る本です。
 著者は大学までフルート畑で育ちましたから、指揮は正式な教育を受けたことがありません。でも、子どもの頃からハシを指揮棒代わりに振っては悦に入っていたという人です。

 著者は長いこと、関西二期会の副指揮者をしてました。
 この副指揮者という仕事は、正指揮者と歌手とのコミュニケーションを図るADのようなもので、演出家や指揮者の先生にコーヒーを入れたりタバコを買いに走ったりする小間使いをしてるんですね。
 だから、めちゃくちゃ忙しい。それでいて、正指揮者は本番でタクトを振りますが、それ以外は練習では初旬、中旬、本番前に数回来るだけ。あとはこの小間使いが指導するわけです。ギャラは40日間で6万円。1日当たり1500円。15年前でも、これはシビアですね。

 「指揮者になりたい」という情熱でとうとう日本から飛び出し、アメリカのコンクールに出ます。といっても、その「ダングルウッド音楽祭」というコンクールも選ばれた人しか出場できないものなんですけどね。なんと世界からたった4人しか参加できないんです。
 なぜなら、そのコンクールではバーンスタインと小沢征爾の2人からたっぷりレッスンを受けられる特典があるからです。

 「きみの履歴書は一度、ゴミ箱に捨てられたんだ」
 あとで、彼は知らされます。
 そんな彼がどうして選ばれたのか。
 それは自分がオーケストラを指揮したビデオを同時に送付してたわけです。履歴書段階ではさっさとはねられていた。それをこのビデオが救います。
 「指揮者になりたいってヤツには勘違いする人間が多い。だから、このビデオを見ながらウィスキーでも飲んで今夜は大いに笑えるな、と思って自宅で見たんだ。すると、これは違う意味でおもしろいとわかった。それでマエストロ・オザワに訊いたら、あなたのことはなんにも知らないって」と事務局長が言う。
 彼はそのビデオを小沢征爾に見せたらしい。それで、「残しておけ」となったというのが真相のようだ。

 著者は190センチにもなろうとかいうほどの巨大な人で、「新日(フィルハーモニー交響楽団)の佐渡です」といっても、「あぁ、知ってる知ってる。猪木さんとこやろ?」といつも言われていたとか。京都の人はトボケテますなぁ。
 この本に登場するバーンスタインもすべて関西弁で書かれてます。でも、標準語よりもずっと優しく感じられますね。
 「お前は、オレのところに神様から遣わされたんや。オレははじめからそのことを知ってたんや。でも、お前はまだあまりにも無知やから、もっと勉強せなあかんで」という具合です。
 
 ところで、クラシック音楽って好きですか?
 わたしの書斎には、広澤虎造の浪曲CDからモーニング娘。までありますけど、仕事中はやっぱりガーシュイン。これがいちばん。とくに「ポーギーとベス」(黒人オペラ)は大好きでよくかけてます。数年前に来日したときは、東急文化村に2回聴きに行きましたよ(それにしても、チケット高かったなぁ。1カ月分の食費が飛びましたよ)。
 でも、クラシックというとベートーベンとかショパンとか、ムソルグスキーとか、学校の音楽の時間に習った人たちの曲でしょうが、そんなに知らないんですね。ソニーのCD100枚組の音楽全集を買ったのは20年くらい前のことですが、まだ封を開けてないものがたくさんあります。
 焼鳥屋にいくような雰囲気で「ちょっと音楽会に」てなもんじゃないですよね、わが国は。吉本新喜劇と同列に論じられるようになって、はじめてクラシックも板につくんでしょうな。
 こういう国だから、日本の音楽界では音楽そのものへの情熱とか見識とかではなくて、肩書きとかだれの弟子であるかといったようなものが幅を利かせているようです。それが証拠に、著者は「きみは日本のコンクールでなら、どれ1つとして入賞できなかったな」と恩師たちからつくづく言われるんですね。
 情けないけど、構造改革というのは、こういう世界にも必要なんですね。

 彼はこのコンクールでバーンスタインから絶賛されても、日本に戻れば相変わらず貧乏なんです。それで、いろんなバイトに精を出します。でも、このとき、小沢征爾からたしなめられるんです。
 「あんたね、バカじゃなかったら親に借金してでも、いまは勉強続けたほうがいいですよ。僕も、そして何よりバーンスタインがあなたのことを認めてるんですからね」

 日本に戻ってきても、指揮棒を振るチャンスがありません。これだけの逸材が眠ってしまうんですね。
 それで、バーンスタインのところで勉強します。彼がどんなことを教わったか、それがたっぷり本書には載ってます。
 師匠には内緒で世界中のコンクールにまた応募するんですね。そして、ウィーンのブザンソン・コンクールから招待状が届きます。そのコンクールについてはまったく予備知識もありません。ただ、指揮をしたいという願いだけでどんどん勝ち抜いていきます。試験の中には「間違い探し」まであります。表と裏の音階をクラリネットとフルートが逆に演奏していたり、オーケストラを前にして珍問、奇問の連続です。
 でも、彼はそれを華麗に指摘し、オーケストラを指導していくんですね。最後は、オーケストラがすべてファンになってしまいます。
 そして、最後の最後に、このコンクールがいかにものすごいものかに気づくんです。
 なんとヨーロッパ中から指揮を頼まれるほど、ものすごいステイタスのあるコンクールだったんですよ。

 指揮を独学で勉強し、ゼロから道を切り開いていく。そんな著者のがむしゃらな姿に素直に心が打たれます。

 この本は小中学生のお子さんにぜひ読ませてあげてください。わたしは息子に読ませました。
 彼が何をつかみ取ったか、それは知りませんが、この本からつかみ取れないような人間はいないでしょう。
 350円高。


2 「戦争学」

 松村つとむ著 文春新書 690円

 これは元・作戦幕僚が戦史、戦歴から明らかにした戦争技術の本です。
 わたしはギリシャとペルシャの間で繰り広げられたサラミスの海戦が好きなんで、目次を見てすぐに買いました。そのほか、アレキサンダー、秀吉、ジンギスハン、ナポレオン、クラウゼヴィッツ、ロンメル、さらには湾岸戦争くらいまでは網羅してます。古今東西の戦争の実態をプロの目からコメントしてます。
 小粒だけど、読みやすくてなかなかの力作だ、と思います。

 ところで、ロンドン大学やスタンフォード大学には「戦争学部」があるんですね。ちーとも知りませんでした。
 いまアメリカの国務長官をしているパウエルさんも戦争学を学び、優秀な成績であるために授業料免除の待遇を受けてた人です。
 こういう人材が「戦争」という分野にも必要なんですが、日本は戦争に関わる人は肩身が狭いようですね。わたしのように学生時代、毎年、自衛隊に体験入隊していた人間にとっては、それが悲しいです。
 病気が嫌だからといって、病気のことを研究しなければ、医学は進歩しませんし、病気は蔓延するばかりです。戦争も嫌だからといって研究をしなければ、侵略を防ぐことも戦争を抑止することもできないんです。
 でも、日本人にはアレルギーがまだまだ強くてまともな議論はできそうにありません。おそらく、もう一回、他国から侵略でもされないと目覚めないでしょうね。あと何年でそんな有事が発生するのか、杞憂であることを祈るばかりです。

 さて、ジンギスハンは「武将には戦場向きの武将と平時向きの武将がいる」と述べてます。
 「戦時向きであり、平時向きであるような武将は、この世には存在しない。なぜなら、人間は神のように完全ではないからだ。平時向きの人間は、組織の和を大切にし、円滑に仕事をするが、軍隊を弱くする。戦時向きの男は自己主張が強く、組織の和を破壊するが、軍隊を強くする。軍隊指揮官の選定は軍隊を強くすることが基準だ」
 さすがに大政治家ですね。
 湾岸戦争の総指揮官をしていたシュワルツコフは、それまでカリフォルニアで部下も部隊ももたない閑職にいたんです。この人は激烈の人らしく、だれもが煙たがっていた。でも、いざ戦争となったら、お呼びがかかるんですね。戦争のプロといってもいい人でしょう。
 そういえば、日露戦争のとき、初代の連合艦隊長官に任命されたのは、それまで閑職にいた東郷平八郎元帥でした。彼もまた戦争のプロだったんだ、と思います。

 秀吉のケースも紹介しています。
 秀吉は明を攻めましたが、当時、18万の兵力を出兵したんですね。それで本土に15万の戦略予備軍を準備します。これは16世紀の世界最大の作戦でした。
 ところが、日本は国内でしか戦争をしたことがありませんから、海軍はたんなる海賊に過ぎませんでした。でも、釜山に上陸すると、破竹の勢いで李氏朝鮮の首都、漢城(ソウル)を2週間で攻略。さらに平壌に進撃します。
 ところが、ここが日本人らしいんですが、兵站システムの知識がまるでない。だから、補給に困難を来します。それで停戦。
 家康もこの敗戦から何を学びません。大砲の近代化と海軍の育成は禁止。つまり、彼のあたまの中には徳川家の安泰だけがあり、日本という国家意識は希薄だったんです。
 大砲火力と兵站の重要性は、秀吉、家康だけではなく、第二次世界大戦の日本軍も現在の自衛隊も似たようなレベルで、お寒い限りです。
 いまの政治家も内政たけにあたまが一杯で、どうせ外交はどうでもいいと考えてますね。
 日本にとって、外交とはアメリカとの関係をこじらせないこと。この一点だけで、ほかの国々との関係は経済的にややこしくならなければそれでいい、と思ってるでしょう。
 150円高。


3 「大正テレビ寄席の芸人たち」
 山下 武著 東京堂出版 1800円

 著者は最後のほうでやっと気づきました。あの柳家金語楼さんの息子なんですね。
 で、テレビ朝日(当時、NETテレビ)の演芸番組のディレクターをやってたんです。ですから、本書は楽屋話です。しかし、同じ楽屋話でも本音でいいにくいことをズバズバ語っているので、めちゃおもしろい。

 テレビ寄席というと、わたしもしょっちゅう見てました。
 牧伸二がウクレレ抱えて司会やってた番組です。
 これ、昭和38年にスタートしたんです。当時は木曜正午からでしたが、翌年から日曜日に移りました。それからグングン視聴率が上がるんですね。
 そのころ、まだ幼稚園か小学生のときでしたが、いつも11時頃起き出して、テレビをつけると、やってたのがこれでした。
 楽しみにしてたのは、いちばんがドリフターズ、そして東京コミックショー(あのレッドスネーク、カモンというやつ)、トリオ・ザ・パンチ、ナンセンストリオ(親亀の背中に子亀を乗せて、というヤツ)、東京ぼんた、てんや・わんや、Wけんじ、晴乃チック・タック、若いはんじ・けんじ・・・。てんぷくトリオも良かったなぁ。

 でも、この番組から出て、その後、大ブレイクするコント55号は嫌いでした。これは解散するまで嫌いでした。どうも、笑いのテイストがわたしと合わないんだよね。
 どことなく、わざとらしいし、なんか笑いの偏差値が低いようで肌が合いませんでした。
 じゃ、偏差値の高い笑いはなんだ、と言われても困るんですがね。だって、上に掲げた芸人が大好きでしたからね。

 この番組はいまの渋谷東急映画館の地下一階でやってたんです。しかも、入場料をしっかりとってやってたんで、目の肥えた客しか来ない。もちろん、自腹を切って来た客ですから、「ここで笑って」「ここで拍手」といったような合図もありません。正味の笑いが演じられてたんです。
 だから、笑いの質が下町とはてんで違う。山の手とか渋谷の若い人たちが押し寄せてきたんですよ。頭の回転の速い人たちですよ。

 どうして押し寄せるようになったかというと、それまでの寄席とは内容をガラリと変えたからです。いわば、笑いの構造改革ってやつです。
 たとえば、まず落語はなるべくいれない。なぜなら、コンセプトが「5秒に1回笑わせる」ですから、まくらがあって、本題に入って、オチがある。こういう悠長なものではリズム、スピードが合わないんです。
 でも、同じ落語家でも林家三平さんとか三遊亭円歌さん(むかしの歌奴)のような人は登場させます。彼らはテンポがいいからね。
 ただし、高座に座らせません。みんな立ち高座でした。
 歌奴など、背広で出てましたよ。彼の十八番である「授業中」というネタなど、背広だからさらに爆笑を誘ったんだ、と思いますよ。例の「山のアナ、アナ」ってヤツですね。

 それになんといっても、漫才師やコント芸人をのべつまくなしに捜しまくった、という努力を忘れてはいけません。つまり、コンテンツです。これがダメなら、どんなことやってもダメでしたね。
 場末のキャバレーで見つけたのが、東京ぼんたです。また、ドサを回っていたのがてんぷくトリオですよ。若い人なら、いまの伊東四朗がいたグループですね。天才、三波伸介がリーダーをしていたトリオです。

 林家三平さんはものすごい努力家だったそうです。
 彼の人の良さ、礼儀正しさは吉本興業の横澤彪さん(元フジテレビ)に聞いて知ってます。死んだときには、ネタ帳といわれるノートが何冊も残ってたほどでした。
 ところが、これが現場でなんにも活かされてないんですね。つまり、ネタになってないわけ。新聞、雑誌、テレビなどでインプットした話題をノートしてても、だからといってそれがおもしろいネタにはなってないわけ。努力家だけど、シャープさがなかったんでしょうね。ただ、破滅的で破天荒な芸で売れました。

 芸人ものの本はたくさんあります。わたしは好きだから、かなりチェックしてます。
 でも、やっぱり、こういう当事者がまとめた本はひと味違いますね。
 200円高。