2001年07月16日「『自分の木』の下で」「法廷のなかの隣人たち」「テレビ芸能職人」

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」


1 「『自分の木』の下で」

 大江健三郎著 朝日新聞社 1200円

  ノーベル賞作家ですね。学生時代に読んだのは、「性的人間」くらいかな。「飼育」ってのもあったな。いずれにしても、そんなものです。
 すっかり忘れておりました。そしたら、突然、ノーベル賞でしょ。どうなってるんでしょうね。

 本書はエッセイというか、大江ワールドというか、まっ、著者がいま伝えておきたいメッセージを16篇語ります。いい話もあれば、困ったなぁ、こんな話しなければいいのに、と思えるのもありました。
 「なぜ、子どもは学校に行かねばならないのか」「どうして生きてきたのですか?」「うわさへの抵抗力」「わたしの勉強のやり方」などですね。

 著者の長男は光さんです。
 生まれてくるとき、頭が大小2つあると思えるほど大きいコブが後頭部についていました。それを切り取って、できるだけ脳に影響がないように傷口を塞いだそうです。
 4、5歳になっても口はきけない。でも、音の高さや音色(音には色があるっていい表現ですね)にとても敏感で、人間の言葉よりも野鳥の歌をたくさん覚えたそうです。
 彼は特殊学級に入りますが、そこにはじっとしていることができず、動き回って、机にぶつかったり、椅子を倒したり、いつも大きな声で叫ぶ子どももいました。彼は彼と同じように音に敏感な子どもと一緒に、いつも両手で耳を塞いで耐えていたそうです。
 彼の喜びは、自分よりも運動能力が低い友だちのためにトイレにいく手伝いをすることでした。これが新鮮な喜びでした。
 そのうち、2人は、ほかの子どもたちから少し離れたところに椅子を並べて、FMの音楽放送を聞くようになります。

 この2人は面白くて、卒業式のとき、「明日から、もう学校はないよ」と何度も説明を受けたのに、「不思議だなぁ」「ホントに不思議だねぇ」と2人で心を込めて言っていたそうです。
 ホントに不思議ですよねぇ。だって、特殊学級の子どもたちが入る大学って聞いたこと無いでしょ。

 大江さんは言います。
 「光にとって、音楽が自分の心の中にある深く豊かなものを確かめ、他の人に伝え、そして自分が社会につながっていくための、いちばん役に立つ言葉です。それは家庭の生活で芽生えたものでしたが、学校に行って確実なものとなりました。国語だけじゃなく、理科、算数、体操、音楽も、自分をしっかり理解し、他の人とつながっていくための言葉です。そのことを習うために、いつの世の中でも子どもは学校に行くのだ、と思います」

 「ある中学校での授業」では、こんなことを述べています。
 「子どものときに、自分で勉強を伸ばしていく、広げて行きもするということを、どのようにやるか。それを大人になって、働きながら生きる勉強にどうつないでいくか」
 大江さんは戦前に主張していたことと逆さまのことをいう教師を信じませんでした。
 それで、自分で勉強しようと決めたんですね。彼が見つけた勉強法は、教科書でもなんでも、そこで発見した面白い言葉、正しい言葉をノートに書きつけて覚えていく、という方法でした。外国語や人名も、ほかの本で調べます。
 これは高校、大学、そしていまも続けている方法だそうです。

 「子どもは子どもなりに、人の内部にあるものについてかぎ分けるものです。わたしは自分の子どものときの人間の見方には、正しいところがあったと感じます。あの人はダメだ、という大人の言い方に影響されて、そう考えていたのを、いまになって恥ずかしさとともに取り消すのです。大人たちが、あの人はエライ、というのにひきずられてじゃなく、自分が心からそう思っていた場合、つねにそれは正しかった、ということができます」
 250円高。


2 「法廷のなかの隣人たち」

 佐木隆三著 潮出版社 1200円

 『復讐するは我にあり』で直木賞をとった作家ですね。学生時代に原作も読みましたし、映画もビデオも見ました。
 「小説というより、ルポ。ルポというより、レポートだな、こりゃ」と読んだときに感じたのを覚えています。

 やっぱり、レポートだったんですね。
 佐木さんは1971年4月から裁判の傍聴をし始めています。沖縄に取材に行ったところ、暇で暇でアパートでゴロゴロしててもしょうがない。そこで近くの裁判所にふらりと入ったところ、ちょうど法廷の証言台に美人が立っていたので、そのまま聞いていたらしいんですね。
 その女はひらがなも読めない、外人専門の売春婦でした。

 まったく、たまたまですね。
 で、それからいまにいたるまで、ずっと裁判の傍聴を続けてるわけです。
 「裁判の傍聴に通うよりもほかにしなければならないことがたくさんあるようにも思える。しかし、その1つ1つを検討すると、それほど魅力的でもない。結果として、消去法でやはり裁判の傍聴を通じて、小説やノンフィクションを書くしかないことに気づく」と吐露しています。
 正直ですね。実際、事実は小説よりも奇なりですから、現実の犯罪のほうが推理小説よりもはるかに小説的ですよ。
 つまり、タイトルにある「隣人」とは佐木さん自身であり、また被告でもあるんですね。

 はじめて、裁判を傍聴してから18年後のこと、岐阜の裁判所でいつものようにしょうもない事件の経緯を聞いていました。ソープランドの店長と店員の簡単な裁判です。管理売春容疑でしょうね。
 ところが、オーナーである女経営者がなかなかやってこない。もう30分以上も遅刻してるんです。
 弁護士があきれ果て、「次回に彼女の判決は・・・」と言ったころに、やっと現れます。その顔を見てびっくり。でっぷり太っているけれども、佐木さんがはじめて裁判を傍聴したときに証言台で媚びを売っていたあの女だったんですね。
 いまや、出世してソープランドのオーナーに収まってたわけですよ。

 死刑囚となる裁判はとくに熱心に聞いてます。
 荒木虎美(別府3億円保険金事件)は再婚したばかりの妻、連れ子2人を乗せたまま、車で海にダイビングして溺死させた事件ですね。これは野村芳太郎監督で映画化されました。それから、宮崎勤やオウムの麻原、和歌山ヒ素カレーの林真須美、それに福田和子、そのほか大勢います。
 本書では、そのなかでも印象に残った人間を取り上げます。とくに、彼自身と個人的に関わりが深かった人間を詳しくレポートしてます。

 たとえば、川辺敏幸(33歳)はもと暴力団の組員で、幹部やその女を含む4人を殺した強盗殺人の罪で死刑を執行されますが、彼は地裁の段階で「極刑は望むところ」と答え、国選弁護士が控訴したにもかかわらず、自ら取り下げてしまうんです。
 佐木さんは面会室で、「そんなに死に急がなくてもいいでしょう。お母さんがつらいのでは」と問うと、「それならいいんです。もうわたしはホトケだから。特別に許可をもらって撮影した写真を、おふくろは仏壇に供えて毎日、拝んでくれてます」
 母1人、子1人で育ってきた男にとって、これが唯一の親孝行とでも考えていたんでしょうかね。

 死刑と無期懲役との差はものすごく大きいですね。
 死刑が確定すると、あとは執行しかありません。ところが、無期の場合は、「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に出獄を許すことができる」(刑法第二八条)とあります。つまり、片や死刑、片や十年で出られるんです。こうなると、ホントに天国と地獄ですね。

 『無知の涙』の永山則夫は東京、京都、函館、名古屋で、警備員、タクシー運転手ら4人を1カ月あまりの間に殺した連続射殺犯です。
 原田大二郎主演「はだかの19歳」というタイトルで封切りされました。リバイバル映画として、わたしも見たことがあります。
 映画のなかで、原田さんがしていたサングラスが格好良くて、当時、高校生だったわたしは同じものを買いに行ったことを覚えてます。いまでも、夏になると、まったく同じスタイルのサングラス(レイ・バン製)をしてます。
 当時、19歳の少年にあたる永山をどう裁くかが最大の焦点でした。
 日本は三審制ですが、この裁判は差し戻しなどで、実質五審で死刑が確定します。そして、執行されることになります。
 いまでも「19歳なのに死刑適用は正しいのか」「貧困でどうしようもない劣悪な環境で育ったんだぞ。情状酌量はないのか」という声が聞こえてきますね。
 ところで、彼に殺された人たちのことを考えたことがあるんでしょぅかね。
 殺された警備員は綜合警備保障という会社の社員でした。わたしの記憶が正しければ、勤労青年だったはずです。そして、会社は彼の家族にずっと見舞金を出し続けてるんです(いまもですよ)。そのお金を残された家族は恵まれない人たちに寄付してるんですね。
 善意の人は死んだあとも善意が続きますが、悪意の人は善意に戻って死ねれば本望ではないでしょうか。

 これだけ傍聴経験が長いと、弁護士はもちろんのこと、検察官や裁判官とも親しくなります。といっても、どうってことないのですが。
 いろんな弁護活動、弁護手法を見てきたなかでも、「弁護士ってこんなにひどかったのか」と痛感するのはオウム事件の弁護人だ、と言ってます。
 そりゃあ、そうすね。麻原不在の裁判で弁護士だけが張り切って、しかも、いたずらに長引かせるだけの弁護手法。これは弁護手法というよりも延命手法なんでしょうね。長引かせる間に「死刑廃止にでもなってくれたら」と考えてるんでしょう。きっと、そうだな。

 検事総長まで務めた人物が、お役後免になったとたんに、有力政治家や金持ちの経営者の弁護を臆面もなく引き受ける。
 これで「検察の威信を」と言っても、まっ、通りません。
 雪見酒と接待マージャンに明け暮れた警察官僚や外務省の役人、それに腐敗経営者やいつもの政治家・・・。これらすべて組織ではなく人物の危機だったのと同様に、法曹の危機もやっぱり人物の危機なんですね。
 150円高。


3 「テレビ芸能職人」
 香取俊介著 朝日出版社 1500円

 この本は、実は3回も買い損なったんです。1度目は書店に並んですぐの時。
 「この忙しいのに、こんな本買ったら、仕事しなくなるぞ。買っちゃダメだぞ」という天使の声が強くて手に取ってもすぐに返しました。2回目は、「あっ、こんなとこにあるぞ」と田舎の書店で気づきました。3回目は「買っておいてもいいんじゃないの?」「でも、買ったらすぐに読むんだろ? いま、そんな時間あるのか?」「ないね」ということで諦めたんですが、なんのことはない、インターネットで買ってしまいました。
 「ということですから、D社の編集者のTさんへ。原稿が少し遅れます。すべては、この本の責任です。わたしではありません」

 帯コピーに「テレビを裏で支える職人たちの職業秘話、そして真実のドラマ」とあるんですね(今、気づいたんだけど)。だから、テレビ作りに携わるいろんな職業の人たちが登場します。
 というと、リクルートの就職案内本みたいに感じるけど、中身はもっと深いです。

 照明、記録、スタント、殺陣、メイク、フード・コーディネーター、カメラ、小道具、衣裳、特撮といった職人さん。それもプロ中のプロ。超一流の職人技をもった天才たちが登場するんですね。
 で、自分たちの仕事について語ります。いったい、どんな仕事なのか。どうして、この仕事をするようになったのか。どちらかというと、「サライ」という雑誌のインタビュー記事があるでしょ。あれみたいな感じ。

 メイクって、ここに登場する人は時代劇のメイクのプロなんだけど、NHKでは美容師の資格がないとメイクさんになれないんだって。
 「ドーランを塗る」って言葉がありますが、ドーランってドイツの会社名なんですって。知ってました?

 フード・コーディネーターってどんな仕事かというと、最近、料理番組が多いですよね。たとえば、テレ朝系では「料理バンザイ」って番組がありますけど、料理の不得意なゲストが登場しても、どんな料理ならできるか(なんにもできない人もいる、らしい)、どんな料理が好きか(これはみんなすぐに回答する、という)を根ほり葉ほり聞いて、「あっ、この人なら、こんな料理がいいんじゃないか」と材料からレシピまで作って段取りを差配するんですよ。
 司会の滝田栄さんは捌き方がうまくて、「こんな料理、まずくて食えるか!」とは絶対に言わない。じゃ、なんというか。「この味、ボク、はじめてです」だって。うまいねぇ。今度、番組見たときには、このセリフ、いつ言うか、チェックしておかないといけませんね。

 記録というのは、タイムキーパーとかスクリプター、編集ともいうんですが、シーンごと、カットごとの時間や人物のサイズ、動き、昼夜の別、役者のアクションやセリフ、小道具や衣裳のつながりといったことを細かく記録するんですね。
 これがきちんとできないと、画面が切り替わったとたんに服装が違ってたというようなことが発生します。

 「時間ですよ」という番組の記録も担当した人が登場してますが、仕事がら脚本家とはいろんな話をすることになります。そして教わったり気づいたりするんですね。
 「脚本を書くことって、シャワーを浴びながらオシッコするみたいな、そしてそれを他人に見られているような、なんだか恥ずかしい思いをしてるんです」と語った向田邦子さん。
 「ボクはお前の人格は信用するけど、お前の仕事は信用しない。いかに上手にボクを騙し、駆け引きをして、時間内におさめるか、それがきみの仕事だ。ボクは役者を騙したり、乗せたり、泣かせたりして、演出している」といった久世光彦さん。
 この人、光GENJIというジャニーズ事務所のタレントのドラマ作りも頼まれたらしいんですが、そのとき、「子どもだし、ついてけない」と最初は断った。ところが、やってみると、これが子どもでありながら、瞬間、瞬間に人を選別していく能力がすごいこと。
 「ものすごく醒めた目を持ってます。こっちも本気でやらないと、こいつできねぇヤツだ、と切って捨てられそう」と慌てたそうです。
 チビでもガキでも出てくる人材はすごいんですね、やっぱり。
 120円高。