2001年07月09日「不幸になりたがる人たち」「人を見抜く技術」「子どもの言葉はどこに消えた?」

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」


1 「不幸になりたがる人たち」

 春日武彦著 文春新書 660円

 世の中、いろんな人がいますね。見ていて飽きが来ません。世界遺産に指定された絶景は世界中そこかしこに見られますが、いちばん面白いのはなんといっても「人間という風景」です。

 著者は元もと産婦人科の医師です。それが障害児を生んだ母親の精神的フォローを続けるうちに、精神科医に転身してしまった人です。医師は冷徹な目を持っていないと商売になりませんが、患者と同じ温度で心の重荷をケアしたんでしょうね。

 「精神科医を生業にしていると、突飛な人や奇矯な人と出会うことが多い」と言ってますが、それは当たり前。でなければ、商売あがったりでしょうが。
 ではどんな突飛な人、奇矯な人と出会ってきたか。
 その代表者たちが本書に満載です。もちろん、犯罪者の例もふんだんに紹介されていますよ。

 軽いジャブからはじめると、キオスクの店員に向かっていきなり「お前はニセモノだ。そんな格好なんかして。テレパシーで仲間と連絡とって、オレを見張るのは止めろ」と叫ぶ人。また、「独特の理論」で両手に2個ずつ腕時計をはめている人。
 こんな人がいたら、「近寄らんトコ」と思いますが、この人は職業的好奇心が無性にかき立てられるという。

 「これは危ない」というタイプの人間はたいてい外見でわかります。でも、中には爆発の一歩手前という人も少なくありません。
 たとえば、著者が電車に乗ったとき(車内を見渡すとホントに多い。1両に1人はいる)、見かけた男。
 この人はきちんとしたスーツとコート姿、顔立ちも整っていたそうです。で、どこがおかしいかというと、黒いアタッシェ・ケースをテーブルにして、車内で去年の年賀状の束を仕分けしていたんです。「周囲との違和感」こそ、逸脱の一歩手前なのだ、というのですが、それって、もしかすると、わたしのことじゃないかなぁ。
 わたしは20代のころから、車内で仕事を処理してきました。たとえば、営業マンのときには礼状は車内でササッと書いて投函してましたし、年賀状の整理なんかだと、ざっと2〜30分くらいの処理量ですから、「ちょうど車内でできるな」とやってたでしょうね。
 ・・・ということは、わたしは爆発寸前なんですね。いつごろ、爆発するんだろうか。

 「心気症」という病気があります。簡単に言うと、クヨクヨ病ですよ。
 いつもクヨクヨしてないと気が済まない人です。
 こういう患者には治療もなかなかできません。というのは、「あなたは大丈夫」といっても、本人は病気を否定されたとたんに困り出すからです。では、「たいへんな病気ですね」といえば安心するのかといえば、今度はパニックを引き起こす。
 だから、心気症の患者と戦うことは不毛なんです。「ほんのちょっとした不幸」という状態を続けさせる。これがむずかしいんですね。
 でも、この心気症は「より大きな不幸」を水際で防ぐ本能的な感情武装なんですね。
 
 「事故傾性」という言葉があります。「なぜか事故に巻き込まれやすいタイプの人」といったらわかりやすいでしょうか。
 たくさんいる中で、どういうわけか、いつも1人だけ事故に巻き込まれる人間がいますよね。いませんでしたか、周囲に、そういう人。1人だけ中毒にかかったり、交通事故に遭ったり、おぼれたり・・・。不運というか、死に神に取り憑かれているというか・・・。
 こういう人間はなぜか同情されないんですね。で、「あぁ、やっぱり。あいつならしょうがないな」と周囲も妙に納得してしまうん
 こういう人が戦争に行くと、弾を避けるつもりでわざわざ当たったり、気をつけようと緊張するあまりに失敗したりするんです。

 「ジル・ドゥ・ラ・トゥレット症候群」という疾患は、発作的に汚言の連発が出てしまうものです。
 汚言というのは、放送禁止用語に代表されるものです。
 たとえば、髪の毛の薄い人の前に立つと、「ハゲ」と言ってしまったり、太った人と挨拶するとき、「デブ」と叫ばずにはいられなくなる。これが高じると、熱いストーブに手をつけたくて我慢できないとか、指を切りたくてしょぅがなくなったりとか、わが子を虐待したくてしょうがなくなったりするんですね。

 イギリスの臨床心理学者であるデビッド・ウィークスは「奇人募集、自薦他薦を問わず」という呼びかけをしたところ、1000人もの応募がありました。
 応募者は社会のありとあらゆる範囲に及んだそうで、大メーカーの経営者や首席判事、億万長者、科学者、大学教授などなど、そこかしこにいました。16歳から90歳まで、平均すると45歳。平均より教育が高く、中産階級が主流でした。
 特徴は5つ。「非同調的」「創造的」「好奇心旺盛」「理想主義的」「複数(5〜6)の趣味がある」ということがわかりました。
 これからイメージされるものは、「妥協を知らないアイデアマン」ですね。これって、わたしが理想としているタイプなんですが、ということは、やっぱり、わたしも逸脱寸前タイプなんですね。よくわかりました。でも、困ったな。
 250円高。


2 「人を見抜く技術」

 山田修著 講談社 1300円

 なんと、いまアマゾンで1位の本です。
 アマゾンといっても、もちろんブラジルのアマゾンではありませんよ。インターネット書店のアマゾン・ドット・コムのことですからね。

 帯コピーに「9回の転職で300回以上の面接突破、外資系企業の社長人生で1000人以上を見抜いた」とある通り、この著者はスーパー・タフネゴシエイターです。
 本書はすべて、彼の経験談のようですね。だからなのか、ものすごい説得力があります。
 ちょっとだけケースをご紹介しましょう。
 
 「社長で着任した時、副社長が既にいた。どうやら次のトップはオレの昇格だと信ずるところがあったらしく、社内外にもそのようなことを言ってしまっていた。ところが本社の意向で私がスカウトされてきてしまった。話がどうも合わない。それどころか、どうも態度にはそれ以上のものを感じる」
 それは微妙なものだったようですが、着任後も副社長の言動に注意を払い続けると、ある事件をきっかけに表面化してきます。
 彼は社員全員を扇動して、「山田社長のやり方にはついていけない。山田を更迭してくれ」という連名のメールを本社の社長に出したんですね。まさにクーデーター。
 しかし、著者はいままでビジネスの修羅場をいくつもくぐってきてますから、メール事件の数日前から「もしかしたら」と見抜いて、本社に逐一成り行きを報告していた、といいます。それが功を奏してクーデターは未遂に終わります。
 着任2カ月目の出来事ですよ。ボォッとしてたら、やられてましたね。

 彼は面接もされたし、してもきました。そのキャリアは半端じゃありません。
 そこらへんの偽物とは違うんです。
 「ドアを開けてから椅子に座るまでの数十秒間に7割の合否を決定する」といいます。それが30代、40代の人なら、もちろんですが、ビジネスマンとしての立ち居振る舞い、雰囲気ですべてわかるんですね。どのくらい能力と自信のある人なのか、立ち姿。足の運びかた、姿勢。服装や髪の洗練度合いで、一瞬のうちに観察されてしまうんですね。
 これはわたしもよくあります。
 「顔相を観る」といいますが、リンカーンじゃありませんけど、男でも女でも40歳になっていようがどうだろうが、自分の顔に責任を持たないといけませんね。

 「第一印象については、準備できる部分と出来ない部分がある。馬子にも衣装と言うではないか。そういう努力さえしようとしない人が見抜かれてしまうのだ。見えないつもりで見られているのが、靴だ。初対面の挨拶、これは一言二言だが、その人の歴史と教養がすべて出る。気をつけよう」
 「最初の三分」を突破できた幸運な候補者だけが面接の真剣勝負―リアル・セッションに突入できるんですよ。返事がすぐに返ってこなかったり、「えー、そうですね」などと言って時間がかかる候補者は評価されません。

 おもしろいのは組合幹部との折衝だ。
 これは彼の知人のケースだが、やっぱり、なんのかんのいっても人間である。欲はだれにもある。急進派の組合委員長だが、「管理職にならないか」という誘いに思わず真剣に考えはじめてしまった。悩みに悩んで断ったらしいが、これが組合内部に漏れて権威失墜。
 私利私欲にかられてはダメなのだ。
 
 著者は外資系企業を生き抜いてきたハード・ネゴシエイターだが、彼にいわせれば、「外資系でやり手といわれる人たち、つまり、英語と数字で相手を圧倒する人間。こんなものは二流のビジネスマンだ」という。
 「ほんとうに仕事ができて頭のいい人は、相手に合わせてゆっくり話す。余裕があるから、ゆったりしている。部下が頼むといつでもいいよ、と時間を空けてくれる。完璧に愛想がいい。ホントに優しい。これがほんとうのやり手なのだ」
 一流のビジネスマンの条件が具体的にまとめられた好著。ぜひ、ご一読を。
 150円高。


3 「子どもの言葉はどこに消えた?」
 上條さなえ著 角川書店 571円

 著者は元教師の児童文学者。この本は11年間務めていた児童館の館長のときの経験がベースになってます。
 そこにはいろんな子どもたちが来るんですね。で、印象に残った子どもたちの風景が具体的かつビビッドに描かれています。
 「幸福な家庭はみな似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれ異なる」といったのはトルストイだったと思いますが、本書に登場する子どもたちもそれぞれに不幸と幸福を抱えて生きてます。

 父親違いの妹がいる小学2年生のかずみちゃんは、一度だって両親のどちらかが児童館に付いてきたことがありません。両親は妹にべったり。「妹、可愛いよ」というかずみちゃんの孤独を著者は見逃しません。
 そんなかずみちゃんが土日のプラネタリウムの時間に欠かさずやってくるんです。土曜は二回、日曜は三回、地域住人は無料ですが、欠かさずやってくる。ところが、彼女はプラネタリウムを見てるんじゃなくて、担当のKさんという34歳の男の人を見てるんです。だから、最初から終わりまでずっと後ろを向きっぱなし。かずみちゃんの初恋なんですね。
 彼女、学校では勉強がまったくできないんですが、プラネタリウムの試験は満点。そこで「天文博士」という名前をもらいました。恋の力だ、と著者は言います。
 その後、Kさんが異動するとプラネタリウムにくることもなくなります。彼女にとって、Kさんは実の父親をイメージさせる人だったんです。

 「わたしは社会の底辺にいる人たちに育てられた」と著者は言います。
 それには訳があります。
 著者は私生児として生まれました。松竹に女優として合格したほど美貌の母親が戦争未亡人になって、当時、羽振りのよかった父親と結婚するんですね。でも、その人には奥さんがいました。著者が生まれて、6年後に先妻とやっと離婚できましたが、認知だけはしてくれなかったそうです。
 死んだご主人は東大出、いまのご主人は頭はいいけど学歴がない。それでいつも母親は父親のことをバカにしていた、と言います。この父親も直に仕事で失敗して借金取りに追われ、著者は一緒に全国津々浦々を逃げて回ります。ですから、学校にも行ってません。
 そこで著者が会った人たちは、簡易旅館で売春をしながら2人の子どもを食べさせている女、食堂に子どもをおぶってやってきては、「何か、この子にたべさせてやっとくれよ」と哀願する女の乞食。この姿に将来の自分を想像して著者はぞっとします。
 ある日、著者がパチンコ屋でフロアに転がった玉を集めていると、店員がたくさんの玉をくれました。それをタバコに換えると、表にいるやくざが買ってくれるんですね。
 「よその店でもオレの名前を言えば、5円高く買ってもらえるようにしといてやるよ。でも、勉強しろよ。でないと、オレみたいになるぞ」
 こういう人たちに育てられたんです。まだ、日本が優しかった時代の話ですね。

 それからしばらくすると、別れていた両親が連絡を取り合ったのか、著者を千葉の養護学園に預けてくれることになります。都内の公会堂が集合場所でした。別れ際、父親はなけなしの金で買ったパンを1つ著者に預けます。
 電車に乗って千葉の海岸を眺めていると、「お昼にしましょう。持ってきたお弁当を食べなさい」と1人の男の先生がそう言いながら歩いてきます。
 「あぁ、きみはさなえちゃんだね」と名札を確認します。
 「その菓子パン、美味しそうだね。なぁ、先生のお弁当と交換しようよ。うちの奥さん、すぐにお弁当作っちゃうんだ。東京のパンが食べたいのにね」と交換するのです。黙って差し出すと、「ありがとう」と言って受け取る。そのとき、著者が連想したのはこの弁当1食分がパチンコ玉何個か、ということなんですね。アルマイトの弁当のなかには黄色い卵焼き、海苔の佃煮・・・「涙でぼやけて見えなかった」と言います。
 「この山下先生のような教師になりたい」−−それが幼い著者の決心だったんです。

 著者は教師になります。「私生児は就職できない」と大学から言われた時代です。
 でも、市の教育委員会で面接すると、人事課長の小川信夫さん(劇作家でもある)から、「きみは、いい先生になる。きっと、子どもの心をつかむいい先生になる」と励まされて採用されるんですね。
 ここでも、たくさんのことを子どもたちから教えられます。
 股関節脱臼と心臓病を抱えた小学2年生。その子を取り巻くクラスの反応。悲喜こもごもで感動的な人間のふれあいがそこには見られます。初めての遠足に子どもたちが協力して、この子を連れて行ってくれました。母親は心配で心配で、みんなに見えないように遠くあとから付いてくるんですね。母親というのはありがたいものです。
 教師というのは子どもを教えるのではなく、子どもから教えられる人なんですね。これは親も同じだ、と思います。子どもを教えるのではなくて、子どもから教わることがいかに多いか。とくに、わたしのような人間は痛切に感じます。

 子どもとつき合うには時期があります。タイミングですね。
 魚や野菜に「旬」というものがありますが、実は子どもとのつき合い方にも旬があるんです。スキンシップを十分する時期、手取り足取り教えてやる時期、守ってやる時期・・・この旬を逃すと、もう手遅れなんです。
 「いまは仕事で忙しいから、もう少し経ってから親子の時間を持ちたい」
 こういう人がいますけど、その時期になったら、子どもは親を必要としない子どもになってるんですね。それは独立心というものではなく、親への不信感と疎外感なんです。どんなに愛しても、もう通じないでしょう。
 「幼い日に傷ついた心は、長い月日の中でますます傷口を深くして修復できないのです」
 子どもの心はいつも平安を望んでいます。
 両親が喧嘩をしていれば、離婚するのではないかと心配になります。そんなとき、著者は「仲がいいから喧嘩するのよ」と教えると、「ほんと? 先生、ほんと?」と目を輝かせて聞くんですね。
 どんなに非道な親でも、子どもはかばいます。子どもをかばうのではありません。子どもが親をかばうんですね。そこが哀れで何ともいえません。どんな親でも子どもには宝なんです。
 「わたしは喜ばれてこの世に誕生した」
 人生で辛いこと、悲しいことに出会うたびに、著者は父親に抱かれた写真をタンスの奥から取りだして眺めた、と言います。祝福されて生まれたことを思うだけで、生きる勇気が湧いてくるんですね。
 300円高。