2013年08月06日やられたらやり返す!倍返しだ!!
カテゴリー中島孝志の不良オヤジ日記」
国運の善し悪しは国民のそれと一致することはほとんどないかもしれません。しかし禍福はあざなえる縄のごとし、という通り、国の運、国民の運を考えるとき、およそ人智では計り知れない力が感じられてならないのです。
一昨日、「イギリス、広島での原爆使用に同意。投下1カ月前、アメリカへ公式表明」という報道がありました。機密指定が解除された公文書によって当時の真実が公になりつつあります。
ま、謀略の世界ではアメリカなんぞより1枚も2枚も上手のイギリスですから、関係していないはずがありません。
さて、今日は広島にリトルボーイが落とされた日です。40万人の被爆者。そして9日は長崎で20万人が被爆しました。その日に命を落とした犠牲者は3分の1。多くは1週間以内に命を落とし、いまもなお苦しんでおられる方が少なくありません。
もちろん、この68年間、アメリカ政府からは謝罪の言葉はひと言もありません。いや原爆投下を戦争終結の大義名分としているほどです。
私たち被爆国の子孫がなにを思うか、人それぞれです。戦後の民主教育なるものを受けた人は、「原爆のおかげで終戦が早まった」と考える方もたくさんいるでしょう。「ふざけんな」「絶対に許さん」と憤る方も少なくないでしょう。
いずれも、「あやまちは繰り返しません」なる碑の主語が日本国民なのか、いや、当然、アメリカ政府だよね、だから英語で書かなくちゃ、と感じる人が日本国民全員であると思いたいですけどね。
じゃ、おまえはどうなんだ?
はい、兵士ではない「英霊の御霊」に頭を垂れるだけです。60万人の英霊の命と引き替えに、いま、私は命を頂いていると考えざるを得ないのです。
なぜならば、朝鮮半島のように、かつてのドイツのように、日本が分割統治されないで済んだのは、実は「原爆」という存在が大きな要因だからです。
原理原則研究会のメンバーには前回早送りで講義したために、この件についてはカットせざるをえなかったのですが(次に機会があればお話します)、アメリカは1944年の段階で、「日本を詰める」にあたって、米兵の犠牲をどれだけ払わなければならないか、詳細にシミュレーションしています。すなわち、最小で50万人。最悪で200万人。ま、80万人前後ではないか、という数字をはじき出しています。
バンザイ寸前の国にこれだけの犠牲者を投下しなければならなかったのは、神風特攻隊と回天のおかげです。「一億玉砕覚悟」というアンビリーバブルな国民精神にありました。当時の日本人は「葉隠」の武士だったのです。
天皇を満州に遷し、本土は最後の一兵まで戦う覚悟がありましたからね。
ルーズベルトはこれほど多くの犠牲者を出すことに恐怖を覚えました。後を引き継いだ官僚のトルーマンはなおさらです。
そこで彼らが考えたことは、中立だったソビエトを対日戦争に巻き込むことでした。ドイツ降伏3カ月後に対日参戦するという「契約」通り、ソビエトは8月8日に参戦を宣言し翌日から進撃を始めます。
もち、完全なる条約破りですが、まあスターリンに約束を守れというのは、私に約束を守れというに等しいですからね。
アメリカ、イギリス、フランス・・・ソ連も含めた連合国が集まった会議が1945年7月17日からベルリン郊外で始まります。有名なポツダム会談ですね。
会談の前日。トルーマンのところに1通の電報が届きます。
「赤ん坊は無事産まれた」
この一報は翌日チャーチルにも知らされます。今回明らかになったイギリスの同意は、このときチャーチルがサインしたものでしょう。「これでアメリカはソ連に頭を下げなくて済むな」と彼は自伝に書いています。
トルーマンが悩んでいたこと。それはソビエトの力を借りないと米兵の犠牲が桁違いに増えること。しかし戦後統治のフレームワークを考えると、できるだけソビエトの力を借りたくないこと。この矛盾に彼は悩んでいたのです。
矛盾を一挙に解決する手段・・・それが赤ん坊。すなわち原爆だったわけです。
以来、トルーマンはスターリンの要求をすべてはねつけています。留萌〜釧路を真横に線引きした領土をくれ、という要求などにべもなく拒否しています。ということは、東北以北、北海道をソビエトの領土にする、という約束はすべてご破算になったことを意味します。
ルーズベルトの約束は反故にされた。だからソビエトは火事場泥棒をしたのです。
国務省だけではなく軍首脳も、原爆実験が成功するまでは「日本も分割統治する」という政策で一致していました。もし原爆が開発されていなければ、日本は朝鮮半島や東西ドイツと同じ運命になっていたはずです。冷戦下、米ソの都合で日本人同士が殺し合いをしていたはずです。
いかに天皇制という切り札があったとはいえ、ほとんど分割統治で決まっていた連合国のプランを完全にひっくり返したのは原爆があったからです。
いま、私たちが生きていることは60万人の被爆者のおかげです。硫黄島で食い止めてくれた陸軍の栗林部隊と海軍の市丸部隊あればこそです。その他たくさんの英霊のおかげです。
親の恩云々というずっとずっと前に、私たちの命は彼らのご縁に支えられている、ということに畏怖の念を感じないではいられません。
この話。長崎原爆記念日の9日に続きます。
さて「中島孝志の 聴く!通勤快読」でご紹介する本は『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦著・新潮社)です。詳細はこちらからどうぞ。
一昨日、「イギリス、広島での原爆使用に同意。投下1カ月前、アメリカへ公式表明」という報道がありました。機密指定が解除された公文書によって当時の真実が公になりつつあります。
ま、謀略の世界ではアメリカなんぞより1枚も2枚も上手のイギリスですから、関係していないはずがありません。
さて、今日は広島にリトルボーイが落とされた日です。40万人の被爆者。そして9日は長崎で20万人が被爆しました。その日に命を落とした犠牲者は3分の1。多くは1週間以内に命を落とし、いまもなお苦しんでおられる方が少なくありません。
もちろん、この68年間、アメリカ政府からは謝罪の言葉はひと言もありません。いや原爆投下を戦争終結の大義名分としているほどです。
私たち被爆国の子孫がなにを思うか、人それぞれです。戦後の民主教育なるものを受けた人は、「原爆のおかげで終戦が早まった」と考える方もたくさんいるでしょう。「ふざけんな」「絶対に許さん」と憤る方も少なくないでしょう。
いずれも、「あやまちは繰り返しません」なる碑の主語が日本国民なのか、いや、当然、アメリカ政府だよね、だから英語で書かなくちゃ、と感じる人が日本国民全員であると思いたいですけどね。
じゃ、おまえはどうなんだ?
はい、兵士ではない「英霊の御霊」に頭を垂れるだけです。60万人の英霊の命と引き替えに、いま、私は命を頂いていると考えざるを得ないのです。
なぜならば、朝鮮半島のように、かつてのドイツのように、日本が分割統治されないで済んだのは、実は「原爆」という存在が大きな要因だからです。
原理原則研究会のメンバーには前回早送りで講義したために、この件についてはカットせざるをえなかったのですが(次に機会があればお話します)、アメリカは1944年の段階で、「日本を詰める」にあたって、米兵の犠牲をどれだけ払わなければならないか、詳細にシミュレーションしています。すなわち、最小で50万人。最悪で200万人。ま、80万人前後ではないか、という数字をはじき出しています。
バンザイ寸前の国にこれだけの犠牲者を投下しなければならなかったのは、神風特攻隊と回天のおかげです。「一億玉砕覚悟」というアンビリーバブルな国民精神にありました。当時の日本人は「葉隠」の武士だったのです。
天皇を満州に遷し、本土は最後の一兵まで戦う覚悟がありましたからね。
ルーズベルトはこれほど多くの犠牲者を出すことに恐怖を覚えました。後を引き継いだ官僚のトルーマンはなおさらです。
そこで彼らが考えたことは、中立だったソビエトを対日戦争に巻き込むことでした。ドイツ降伏3カ月後に対日参戦するという「契約」通り、ソビエトは8月8日に参戦を宣言し翌日から進撃を始めます。
もち、完全なる条約破りですが、まあスターリンに約束を守れというのは、私に約束を守れというに等しいですからね。
アメリカ、イギリス、フランス・・・ソ連も含めた連合国が集まった会議が1945年7月17日からベルリン郊外で始まります。有名なポツダム会談ですね。
会談の前日。トルーマンのところに1通の電報が届きます。
「赤ん坊は無事産まれた」
この一報は翌日チャーチルにも知らされます。今回明らかになったイギリスの同意は、このときチャーチルがサインしたものでしょう。「これでアメリカはソ連に頭を下げなくて済むな」と彼は自伝に書いています。
トルーマンが悩んでいたこと。それはソビエトの力を借りないと米兵の犠牲が桁違いに増えること。しかし戦後統治のフレームワークを考えると、できるだけソビエトの力を借りたくないこと。この矛盾に彼は悩んでいたのです。
矛盾を一挙に解決する手段・・・それが赤ん坊。すなわち原爆だったわけです。
以来、トルーマンはスターリンの要求をすべてはねつけています。留萌〜釧路を真横に線引きした領土をくれ、という要求などにべもなく拒否しています。ということは、東北以北、北海道をソビエトの領土にする、という約束はすべてご破算になったことを意味します。
ルーズベルトの約束は反故にされた。だからソビエトは火事場泥棒をしたのです。
国務省だけではなく軍首脳も、原爆実験が成功するまでは「日本も分割統治する」という政策で一致していました。もし原爆が開発されていなければ、日本は朝鮮半島や東西ドイツと同じ運命になっていたはずです。冷戦下、米ソの都合で日本人同士が殺し合いをしていたはずです。
いかに天皇制という切り札があったとはいえ、ほとんど分割統治で決まっていた連合国のプランを完全にひっくり返したのは原爆があったからです。
いま、私たちが生きていることは60万人の被爆者のおかげです。硫黄島で食い止めてくれた陸軍の栗林部隊と海軍の市丸部隊あればこそです。その他たくさんの英霊のおかげです。
親の恩云々というずっとずっと前に、私たちの命は彼らのご縁に支えられている、ということに畏怖の念を感じないではいられません。
この話。長崎原爆記念日の9日に続きます。
さて「中島孝志の 聴く!通勤快読」でご紹介する本は『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦著・新潮社)です。詳細はこちらからどうぞ。