2015年05月17日「熊野三山&高野山開創1200年祭 お一人様ツアー」あれこれ(その1)。

カテゴリー中島孝志の「日本伝統文化研究会」」

 ま、そういうわけで、来週、春日大社のご開帳情報を名古屋原原のスピ人間Eさんから頂きまして、そっか、では、熊野詣で、高野山詣での前哨戦として参加してみるべえ。。。ということで、今日からまた数日、いろんなお話をしたいと思います。。。

 とくに今週は名古屋では「濡れ手で粟!ビジ研」もやりますし、続いて大阪、博多、出雲、そしてスピ研がありますからね。ぜひ参加してちょ。名古屋のビジ研はめっちゃ美味しいお米付きですからね、お楽しみに。。。

 で、熊野ですが。。。昔、参上しとるんよね。バカ学生4人で車で日本一周。その後、船でも日本一周しとるんですけど、熊野は車で参りました。

 ホント、変わりましたなあ。高速道路がなんと整備されとることか。隔世の感がありますな。考えてみりゃ当たり前でね。あれから40年・・・。綾小路きみまろ師匠じゃありませんけどね。

「なんて素敵なんだ。食べてしまいたいくらいだよ。あれから40年、どうしてあのとき食べておかなかったか! とっくに賞味期限切れ。食べたらアタる」

 で、2回目は29歳。「熊野シンポジウム」ですね。イベントの取材のつもりで行ったら、なんとパネリストとして出されてしまいましてね。初講演がこのときなのよ。地元の新聞にも写真入りで掲載されてしまいました。

 3回目は33歳のとき。このときは「お燈まつり」に参加しました。医学博士、工学博士、理学博士の吉田教授つう変わり者と一緒に行ったわけ。熊野のキーマン岩澤さんから誘われてね。
 吉田さん、「よし、オレも行く!」。のりがいい人だからね。ブラジルもペルーもボリビアも彼の友人つながりで何か月もタダで生活させてもらったかんね。

 彼は第1回日経地球環境賞に提出した論文でグランプリ。副賞500万円でね。もち、たかりましたけど。。。

 2人で白装束(死に装束)。縄を体に結わいつけましてね。えっ、縛られる趣味があるわけじゃございません。「なかなかだな」と気分は昂揚。。。

 で、今回は4回目つうわけ。なんだかんだいって来とるわなあ。


さすがに中国人はいませんな。こういう文化は馴染まないんでしょうな。




 さて、昔、何回目だったか記憶にないんですが、熊野本宮に行ったらなにもなくてね。ただの広場。熊野速玉大社にいったときは、たしか「お燈まつり」で、あちこちでしこたま酒を振る舞われて、べろんべろん。その後、つうか、メインの神倉神社に登って、お燈(たいまつ)を頂いて一気に駆け下りてくるわけです。

 これは男のまつり。女人禁制。



 熊野つうのは、コメが食べられるようになったのは江戸時代の後半かららしいですよ。それまで何を食べてたかつうと、ドングリ。朝昼晩ドングリ。熊のプーさんだって蜂蜜だわな。

 で、熊野は隈野。ホントに辺境なんだわな。いまでもそうでしょうね。地理的辺境というより時間的辺境。これは昔も同じ。京都から1カ月かけてわざわざ熊野詣でをしてるわけです。

 歴代上皇さんが何回来たか? 130回ですよ。で、貴人だけでなく庶民も大好き。1603年、「ポルトガル辞典」には「蟻の熊野詣で」と記されております。

 どうしてそんなに人を惹きつけるのか? やっばり「黄泉還り」だからでしょうね。それが証拠に、上皇たちは同じ路を帰るんです。だって黄泉から還るんですからね。同じ路でないと魂は困ります。

 その魂の往復路を「熊野古道」つうわけ。途中にあっちゃこっちゃ行っちゃいかんわけよ。


八咫烏(やたがらす)。サッカー協会のシンボルマーク。どうして3本足なのか。学者がデタラメ言っとります。ホントのことは原原でお話しします。

 1カ月かけて詣る。都から出てくる頃には肥満体質だった上皇もこの間、歩きに歩いて、もち、白装束ですよ。で、締まってきた身体で京に戻る。考えてみれば、当時のダイエット&デトックスですわな。

 最近、なまってきたな。熊野に行くか。。。な〜んて軽い気持ちではできません。

 なぜか? 熊野の神様は<浄不浄を嫌わず、貴賤を問わず、信不信を選ばず、男女を選ばず、すべての人を助けてくれる、とあります。

 ただし、1つだけ条件があるんですね。それは・・・死ぬ思いでやって来い。。。


見えるかなあ。。。社が見えるでしょ?

538段あんのよ。かなり険しいっすよ。



神倉神社の入口に出雲大社の別宮がありました。

 「お一人様ツアー」まだまだ続きます。