2002年03月18日後悔、後を絶たず

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最後の国士


 末次一郎という人がいました。

 「いました」というのは、昨年、亡くなられたからです。

 青山葬儀場で執り行われた告別式の葬儀委員長は中曽根康弘元総理でしたね。

 末次さんは少年時代、靴磨きの後、陸軍中野学校を出ました。終戦直後は、荒れ果てた日本という国と人心を復興するために全国で青少年のボランティア団体を続々作っていきます。それが農村地区では青年団活動となって、現在に繋がっていくのです。当時の教え子には竹下登、野中広務の両氏もいました。

 彼には数々の功績があると思います。たとえば、1951年、日本は正式に独立します。そのとき、フィリピン大統領と折衝し、モンテンルパ収容所にいた日本人捕虜120名、うち49人が死刑予定者でした。これをサンフランシスコ条約発効直後に、日本に減刑の上、帰還させ、巣鴨プリズンへと移すように実現させたのも彼です。

 また、68年に沖縄基地問題研究会を発足し、「核抜き、本土並み、72年返還」を画策し、そして72年に実現します。舞台裏で動いたのは彼でした。

 その彼が気がかりだったのは「北方領土問題」だったのです。 歴代総理の裏方で外交的な仕事を担ってきた実力者であり、とくにロシアには幅広い人脈を持ち、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンへと流れる(一部短期政権もあったが)リーダーをずばり予測して手を打ってきた人ですね。

 ここ数年間、「二島先行返還論」なる際物(きわもの)が一部の利権政治家と外務省を中心に跋扈する中、一貫して、それではいけない。北方領土は日本固有の土地である、と強く主張してきた人ですね。

 で、この人を座長に田中明彦(東大教授)、伊藤憲一(日本国際フォーラム理事長)、田久保忠衛といった10人の専門家で「対露政策を考える会」を結成していました。

 この人は長年、ロシア問題に取り組んできた「国士」です。

 いま、私は「士」という言葉にものすごく強い感慨を覚えています。

 かつて、幕末には日本中の「馬の骨」が革命を起こしました。彼らは下級武士であり、志士と呼ばれました。「士」とは「もののふ」です。負けたとはいえ、戦前、戦中には日本にも「兵士」がいました。

 いま、日本の政治家はもちろん、官僚についても士はいません。

 士とは何か、と言えば、「捨てる勇気を持つ人」のことです。財、官位、名誉はもちろん、かつては命までも捨ててかかるだけの迫力がありました。それが時代のエネルギーだったと思うのです。

 現在、命賭けでなにかをなし得るということは、ナンセンスかもしれません。でも、捨ててかかるだけの人には周囲を巻き込んでいくだけの勢いがあります。

 それは心服だと思うのです。少なくとも、脅かして屈服させるような「威服」や金をばらまいて子分にする「利服」ではありません。ひたむきさに共鳴する「心服」がベースにあるのです。



最大のチャンスを逸した

 末次さんは戦後政治の裏面史について、もっとも詳しかった人です。

 吉田茂、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄が外交でどんな役割を果たしてきたか。日本と諸外国との実話にもっとも詳しかったと思います。

 かつて文藝春秋から日米の外交史についての本が出されましたが、それも十分には語り尽くしておりませんでした。

 秘密はあの世にもっていく、というつもりだったのでしょう。

 その末次さんと一昨年、昨年とお会いして何回か話をするたびに、本を出そうかという雰囲気になり、私のところに段ボール箱たっぷりの資料を送ってきました。

 いまとなっては、末期ガンであることを知っていたのだと思います。

 「オレじゃないと話せないことを遺しておこう」と考えたのでしょう。

 とくに二島先行返還論がまやかしでしかないことを痛切に訴えてましたから、国策が間違ってはいけないという義憤の念もあったでしょう。

 残念ながら、私は彼の死期についてはなんら知り得ませんでした。彼も催促をしませんでした。

 そのために、実は日本にとって貴重な歴史の生き証人の発言を書き残す、というチャンスを逸してしまったのです。

 後悔、先に立たずとは言いますが、後悔、後を断たずとはこのことです。

 対露政策をねじ曲げたあげく、結局は元の木阿弥とした某代議士による一連の行為が、これから白日の下にさらけ出されようとしています。

 これは末次さんの祈りが通じたのではないか、といま考えています。

 それにしても惜しかった。