2001年12月10日人の生死

カテゴリー価値ある情報」

死ぬまで健康的に生きる


 12月1日には新宮がお生まれになられて一億総祝福。「これで景気も一挙に浮揚するのでは」と少々、虫のいい話があちこちで囁かれていますが、他力本願ではいつまで経っても景気などよくなるわけがありませんね。

 遠くアフガン、イエラエルからはまだまだ戦争状態、戦闘状態が続いているというニュース。

 世の中の幸と不幸は常に隣り合わせなのだということ痛感するところです。

 また、わが家では母が同日、69歳を一期に永眠致しました。このホームページも一回休まざるをえなくなりました。

 末期ガンだと判明したのは去年の8月。それまでわたしが知る限り、風邪一つ引いたことのない人間でした。結果として、「無病息災」が命とりになったわけです。

 医者から見放された母に対してできることは、治せないまでも、胃ガン、十二指腸ガン、肝臓ガン、膵臓ガンとガンのオンパレードの身体を痛み無くなんとか死なせてやることでした。心身ともに健康なままに死を迎える。この矛盾を両立させることだったのです。

 ですから、告知ははなから考えてはおりませんでした。気が強いようで、案外、心細い性格を知ってましたからね。

 「インフォームド・コンセント」云々の議論はよく知ってます。親子とはいえ、人の人生を勝手にコントロールしていいのかという反論もあるかもしれません。ですが、わたしは敢えて母の残り少ない人生を楽しく生かしてやろう。そのためには、最後の最後まで真剣に騙してやろうと考えたのです。だから、父にも妹にも知らせなかったのです。この件については、いつか、わたしがあの世に行ったときに母に謝ろうとと思っています。

 あらゆるコネと情報を活用して、東洋医学の抗ガン剤を入手、そのすべてを試させたところ、一つだけ気に入ってくれたものを「健康食品」と偽って服用させたのです。

 おかげで、余命1〜2カ月と言われた人間が、それから1年半もの間、好きなものを好きなだけ食べ、毎日訪れる家族や兄弟姉妹とコミュニケーションできたのです。息を引き取る最後の最後まで意識もはっきりしていました。もちろん、痛みはまったくありませんでした。

 「痛くないの?」「まだ食べられるの?」「吐いたりしない?」と担当医師に診察を受けるたびにいつも不思議がられたことを覚えています。

 「ガンの特効薬は愛情だな」・・・心からそう思います。



 なお、ご多用の中にもかかわらず、通夜、告別式にご列席頂きました皆様をはじめ、弔電、献花などを賜りました皆様に心より深謝申し上げたく、この場を借りて、厚く御礼申し上げる次第でございます。





禍福はあざなえる縄の如し

 欽ちゃんがおもしろいことを言ってます。

 悪いことがあると、必ずいいことがある、と。

 だから、欽ちゃんはピーカンのゴルフ日和のなか、何度もUターンして事務所に戻ったことがあると言います。マネジャーやゴルフ仲間は「いまからでも間に合うからゴルフに行こうよ」と言っても聞かなかったそうです。

 「こんな天気のいい日にゴルフなんかしたら、バチが当たる。仕事のほうがダメになる」って、欽ちゃんは言い張るんです。そして、仕事をするんですね。

 「ホントにうちの大将はワガママなんだから。もう参っちゃいましたよ。この間もね、こんなことがあったんですよ・・・」とゴルフ中止の件を言えば、相手は「なんて仕事熱心なんだ。これなら、任せておいても大丈夫だ」と感じるだろう?

 欽ちゃんはそう言うんです。

 一事が万事、そうです。だから、彼は失敗したり、運が悪かったりすると喜ぶんですね。

 「きっといいことがある。絶対、いいことがあるぞ」

 そして、幸運を待ちかまえてるそうです。

 わたしもそう思います。

 母が遺してくれたこと。それはわが家の親戚はみんな母のことをものすごく愛していた、ということです。

 何しろ、この一年半もの間、毎日、母の話し相手をしたり、ラスト2カ月は本職も驚くほどの介護をローテーションを決めて続けてきたんですね。病院では「いつも賑やかな中島さんの部屋」と言われていたほどです(最後に入院したときには巨人軍の原新監督の父親の隣の部屋でした)。

 また、新たな発見がたくさんありました。

 「おばぁちゃんに、これで好きなもの買ってあげて」と貯金箱から全財産の2万円を出し(これは使わず、「お守り」として袋に入れて枕下にいつも置いてありました)、告別式で泣いてる妹に「おばぁちゃんの前で泣くと天国に行けなくなるから、ボクは我慢してるんだよ」と言って、本人は風呂場とトイレで泣いてたそうです。

 おふくろ様へ。

 息子はダメでしたが、あなたの孫だけは優しく強い男に育ちつつあります。安心してください。合掌。