2001年05月28日筋を通せ 筋を!
カテゴリー価値ある情報」
『小島の春』って映画がありましたね。
巨匠豊田四郎監督の名作で、いまから61年前に「キネマ旬報」で1位になった映画です。
「そんな古い映画、知らないよ」という人も多いでしょうから、では『砂の器』という映画はどうでしょうか。
これも巨匠野村芳太郎監督の手による名作です。
わたしは「砂の器」っていうから、器をいろいろ紹介する教育映画か美術映画かと思ってたんです。でも、友人から「これを見て何回も泣いた」っていうことを聞いて、「そんなにいいのか!」とあわてて名画座に行ったことを覚えています。大学1年の時でした。
たしかに素晴らしい映画でした。
原作は松本清張さんでしたが、はっきり言って、映画は原作をはるかに超えてしまいました。
たんなる推理小説が社会派人間ドラマ、というかもっと深くて根元的で、哲学的で、とにかく魂が揺さぶられるほど感動的なものに生まれ変わってしまったのです(これとは逆に、『人間の証明』は原作のほうがはるかにいいと思うけど)。脚本は橋本忍さん+「寅さん」の山田洋次さん、それに撮影は川又昂さん。いずれも巨匠の手によるもので、いまの読売巨人軍のクリンナップトリオ以上の布陣です。
ところで、この2つの映画に共通するもの。作品のプロットのキーになっているもの。
それは「ハンセン氏病」です。
「わたしはハンセン病になりたかった。そして患者といつまでもともにいたかった」
『小島の春』の主人公の声ですね。主人公は小川正子さん。昭和7年から岡山県長島愛生園に着任後、瀬戸内海一帯に点在する患者をたずねて回った検診記録から、手記「小島の春」が生まれます。映画はこの手記をもとに作られたんですね。
「砂の器」は、主人公の父親がハンセン氏病に罹ります。当時、感染のおそれがあるとされた不治の病はどれもこれも迷信や祈りで治すしかない、と言われました。それで父親はまだ幼少の主人公とともに体よく故郷を追い出され、「病気治し」の旅に出ます。
そこで受けるさまざまな迫害。歳月と景色の移り変わり。日本のきれいな風景と主人公の悲惨な生き様がコントラストを描いてました。
メンツを立てる相手を間違えるな
ハンセン氏病はものすごい誤解と偏見を余儀なくされた、とこの映画も訴えましたが、映画ができて60年以上過ぎました。
いま、やっと患者への施策は国の誤りだと正式に認めるところまできました。
「控訴を取り下げることが評価できる」と小泉さんの株も上がりました。そうかもしれません。これがもし、ほかの総理ならば控訴したでしょう。旧厚生省、法務省もメンツがありますからね。
このメンツのためにいたずらに時間を浪費し、老い先短い関係者たちの「希望の灯」を消してしまうことになったでしょう。
「控訴を断念したことで、あとは関係者の救済を急ぐ」
これは正しいですし、急がせるべきです。でも、国の誤り、国会の誤りをきちんと反省するためにも決議は必要だと思うのです。これは民主党の発言のほうが筋が通っていると思います。メンツを立てるべきは役所や政治家ではありません。相手を間違えています。当たり前のことですが、尊厳を回復することはハンセン氏病関係者です。
わたしは「いま、日本は過去の総決算をすべき時に来ている」と思うのです。
バブル崩壊と業界デフレスパイラル、つまり一言でいえば、「経営ミス」で抱えた企業の膨大な借金もそうですし、政治の失策もそうだと思うのです。誤りはさっさと謝罪し、補償も償えるだけ償うべきで、これで新たな予算が増えようと当たり前のことだと思うのです。外務省機密費から捻出すれば、予算など簡単に処理できるではありませんか。
政治家のみならず、人の上に立つ者にいちばん重要なことは、「筋を通す」ことだと思うのです。
「実際にちゃんと救済するんだから、意味するところは同じだよ」というなし崩し的、結果オーライ的な手法は日本人のもっとも得意とするものですが、ある懸案をある段階できちんと総括する。それから、もう1度、生まれ変わってスタートするという「けじめ」がやはり大切なのではないでしょうか。
節目までは筋を通す。竹を割ったような判断と行動が好きです。それは、「納豆を割ったような性格」といわれるわたしにとって、どうも憧れなのかもしれません。