2000年08月30日ご破算で願いましては

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どんどん無くなっていく



 昔、実家のそばに忠実屋というスーパーがあった。社会人になり、セールスでこの会社に営業に行ったこともあった。それがいつの間にか、ダイエーになった。そのダイエーがまた無くなった。

 そごうもどんどん無くなっていく。近所の日産の販売店などビルごと無くなった。いまや更地である。

 いままで見ていた風景からその部分がすっぽり抜けるのだから、何か物足りないように感じる。淋しい限りである。淋しさを感じるのは、あるべきところにあるべきものがなくなったからだ。

 かつて、神は土くれから男を創り、アダムと名付けた。そして、このアダムの肋骨を一本抜き取って、女を創った。だから、アダムとは「土くれ」、エバとは「肋骨」という意味である。おかげで男は自分の無くなったモノを追い求め、女は元の場所に戻りたいと考える。だから互いに求め合う。そういう潜在意識が男女の仲にはある。

 どんどん無くなっていく。これをダーウィン的観点から見ると、優勝劣敗は世の常。淘汰されるべきものは淘汰されなければ進化、進歩、発展を阻害するだけである。「神の手」によって、自然と収まるべき処に収まる。これが経済である。

 いままで、日本人は滅びゆく産業に対しても、アダムのようなノスタルジィを感じて保護してきた。たとえば、それは半径10キロ以内にだれ1人として住んでいない地域でも、変わり者の住人がいれば、ガスを引き、水を引き、挙げ句の果ては道を整備することに似ている。だれもそこに住んでくれ、と頼んだわけではない。早い話が、他人の趣味道楽にノスタルジィを感じて税金を使っているわけだ。

 日本人はすべてに対して、同様のハートで見ているのかもしれない。

 たとえば、放漫経営で潰れそうなボロ会社があるとする。

 「こんな企業は早く潰すべきだ。潰れたらビルごと優れた企業が買えばいい。使える社員は引き取り、そうでない社員は適応できる能力をつけるか、自分で使い道を考えるべきであって、政府や自治体が代わりに考えるべきことではない」とは考えない。なんとか救いの手を伸べようとして救命装置をつける。

 けれども、いい経営をしていれば儲かり、ダメな経営をしていれば倒産する。これが市場の憲法であって、そこに「社員が可哀想だ」などという論理など入れてはならない。ダメな会社、ダメな経営者はマーケットから選手交代を命じられ、より優秀なマネジメントが再建にチャレンジする。これがマーケットにおける進化である。

 余談だが、警察(機動隊)でも軍隊でも、いざとなると、隊員は自分のチームではなく、マネジメントがきっちりできるリーダーが率いるチームに紛れ込んでいくという。表のリーダーよりも裏のリーダーのほうが信頼されているわけだ。

 いま、臨床医学の分野ではホスピスやターミナルケアがクローズアップされてきているが、企業は人間と違って確実に蘇ることができる。ゾンビのように何回も復活できる。生きたり死んだり、何回も繰り返すことができる。

 かつて、わたしたちの生活には「ご破算で願いましては」という言葉があった。これも算盤と一緒に消えて無くなったのだろうか。

 それにしても、どんどん消えて無くなる世の中だ。これはやっぱり新陳代謝。すべては生きているという証拠なのだろう。