2006年05月22日「波瀾万丈の映画人生」 岡田茂著 角川書店 1785円
実は自伝、大好きなのね。
学生時代から「プレジデント」購読してたくらいだから。いまのじゃないよ。いまのはビジネス誌だからさ。昔のは歴史物、人物物。そうだなぁ、「人物往来」という雑誌に近いかな。ダメ? よけいわかんなくなった?
まっ、とにかく、人の歴史が好きなのよ。別に偉人じゃなくていいの。市井の人で十分。
基本的に人の話を聞くのが好きなんだよね。
この性格は子どもの頃から得してます。父親に言わせると、5歳のくせに、家に遊びに来たお客さんの話を「うんうん」「へぇ」とか言って、熱心に聞いてたらしい。
小学校でもそう。人の話、好きだから、勉強は聞かないのに、先生の雑談ばかり覚えてるわけ。これ、基本的にいまでも変わらない・・・というより、インタビューが仕事になっちゃってるからね「三つ子の魂百まで」というヤツだろうね。
さて、岡田さんといえば、東映の中興の祖ですよ。
映画界と暴力団て、誕生からして切っても切れない関係なんだけど。
この人、学校出て京都撮影所に配属になったとたん、いきなり、やくざ相手に大立ち回り。一躍、撮影所で有名になっちゃった。
なにしろ、広島高校時代、柔道の達人で有名だったからね。で、勉強も首席。当然、東大に入ります。
勉強ができる云々じゃないの。すべて集中力なのよ。ほとんど山勘だったというからね。謙遜じゃなくて、本当らしいよ。
人の縁というのは面白い。東映に入ったのも、友達が入社してたから。社長がたまたま郷里の先輩だから、2人して遊びに行ったら、「おまえも入れ」だってさ。
「おまえ、映画向きの性格だ」とも。これ、慧眼というヤツだね。他人の目って意外と正しいです。で、自分の目はダメだね。贔屓目にみちゃうもの。
プロデューサーとしてのデビュー作は名作。ヒットしました。
「きけ、わだつみの声」
これ、戦没学生の手記の映画化です。「天皇制の批判がない」と東大全学連が反対したけど、この人の鋭いところは大局観というか、人を見抜くことかな。だれに話をつけたらスーッと道筋ができるかわか。天才的な筋読みなのね。
「東大共産党の大将は氏家だ」
で、さしで話をつけちゃう。氏家って、いまの日テレの会長の氏家齋一郎さんだよ。ナベツネさんだって共産党だったんだから。
この時のビギナーズ・ラックが映画屋をやめられない麻薬だね。仕事の醍醐味を知ったんだ。
しかし、それにしても、東映には金がなかった。
パラマウント映画ってのがアメリカにあるけど、「払わんと映画」って言われてたからね。給料の遅配は当たり前。役者へのギャラも払えない。
劇団民芸の宇野重吉さん(寺尾聡さんの父親)なんか、出演拒否。
「ぼくらも生きていかなきゃならない」
東映というのは、五島慶太がポケットマネーで作った会社なの。
でも、にっちもさっちもいかなくなって、東横映画、東京映画配給、大泉映画を合併。これが東映になった。昭和26年のこと。
松竹、東宝、日活などに比べて、東映がダメだったのは、やっぱり時代劇映画が作れなかったからだろうね。GHQはチャンバラ禁止だったからさ。敵討ちとか、やっぱ神経質じゃないですか? 時代劇の最高傑作「忠臣蔵」が作れないんだもの。
驀進するのは、時代劇の解禁から。片岡千恵蔵、市川歌右衛門なんかがいたしね。
良かったのは、やっぱり中村錦之助でしょ(後の萬屋ね)。
元々は美空ひばりを移籍させるついでに東映専属にしたようなもの。歌舞伎出身なんだけど、映画の勘がものすごくいい。千恵蔵さんは、1度、共演したら、「あれはスターになるよ」と断言してた。ビンゴ!
錦之助さんはあっという間にスターになった。フラフラになるまで映画に出た。すぐ東映の俳優組合の理事になったんで、任侠映画の主役をほかの俳優に譲ったのね。
これでチャンスをもらったのは高倉健さん。「網走番外地」「昭和残侠伝」。どちらも傑作、大ヒット。主題歌まで大ヒット。当然、一躍、スターダム。
健さんにとっては、錦之助は恩人だね。
任侠物では、「博打打ち 総長賭博」もあったな。鶴田浩二。学生時代に何度も見たね。
その後、任侠物が下火になって、代わりに出てきたのが実録物ね。ご存じ、「仁義なき戦い」ですな。深作欣二監督の最高傑作。
池袋の文藝座で、シリーズ5部作(もっとあんだけど)をオールナイトでよく上映してました。吉野家の牛丼を3個持ち込んで、朝まで見てた。
でも、映画はドンと落ち込んでいきます。やっぱり、テレビの時代になっちゃった。
参考までに、日本の映画界のピークは昭和33年。この年、観客動員数は11億2745万人。日本映画は前年、469本製作して世界1。東映は32年に配給収入で日本1。
でも、これがピーク。
東映が見事だったのは、テレビ局が誕生した時にいち早く乗ったことでしょうね。
普通、映画から見たら、テレビはバカにすんでしょ。まっ、してたかもしれないけど、株主にはなっちゃう。
昭和34年、日本教育テレビ(NET)が開局します。これ、いまのテレ朝ですよ。この誕生に絡んでたのは東急と旺文社。
で、テレビ番組全般を東映で引き受けたのよ。元々、東急の映画部門だったんだから、東映は。だから、「仮面ライダー」とか時代劇物も多いわけですよ。フジテレビの「銭形平次」も東映の製作ですな。
岡田さんの人生、たしかに波瀾万丈。サラリーマン人生だけど、懸命にやってたら波瀾万丈にはなるよね。300円高。
学生時代から「プレジデント」購読してたくらいだから。いまのじゃないよ。いまのはビジネス誌だからさ。昔のは歴史物、人物物。そうだなぁ、「人物往来」という雑誌に近いかな。ダメ? よけいわかんなくなった?
まっ、とにかく、人の歴史が好きなのよ。別に偉人じゃなくていいの。市井の人で十分。
基本的に人の話を聞くのが好きなんだよね。
この性格は子どもの頃から得してます。父親に言わせると、5歳のくせに、家に遊びに来たお客さんの話を「うんうん」「へぇ」とか言って、熱心に聞いてたらしい。
小学校でもそう。人の話、好きだから、勉強は聞かないのに、先生の雑談ばかり覚えてるわけ。これ、基本的にいまでも変わらない・・・というより、インタビューが仕事になっちゃってるからね「三つ子の魂百まで」というヤツだろうね。
さて、岡田さんといえば、東映の中興の祖ですよ。
映画界と暴力団て、誕生からして切っても切れない関係なんだけど。
この人、学校出て京都撮影所に配属になったとたん、いきなり、やくざ相手に大立ち回り。一躍、撮影所で有名になっちゃった。
なにしろ、広島高校時代、柔道の達人で有名だったからね。で、勉強も首席。当然、東大に入ります。
勉強ができる云々じゃないの。すべて集中力なのよ。ほとんど山勘だったというからね。謙遜じゃなくて、本当らしいよ。
人の縁というのは面白い。東映に入ったのも、友達が入社してたから。社長がたまたま郷里の先輩だから、2人して遊びに行ったら、「おまえも入れ」だってさ。
「おまえ、映画向きの性格だ」とも。これ、慧眼というヤツだね。他人の目って意外と正しいです。で、自分の目はダメだね。贔屓目にみちゃうもの。
プロデューサーとしてのデビュー作は名作。ヒットしました。
「きけ、わだつみの声」
これ、戦没学生の手記の映画化です。「天皇制の批判がない」と東大全学連が反対したけど、この人の鋭いところは大局観というか、人を見抜くことかな。だれに話をつけたらスーッと道筋ができるかわか。天才的な筋読みなのね。
「東大共産党の大将は氏家だ」
で、さしで話をつけちゃう。氏家って、いまの日テレの会長の氏家齋一郎さんだよ。ナベツネさんだって共産党だったんだから。
この時のビギナーズ・ラックが映画屋をやめられない麻薬だね。仕事の醍醐味を知ったんだ。
しかし、それにしても、東映には金がなかった。
パラマウント映画ってのがアメリカにあるけど、「払わんと映画」って言われてたからね。給料の遅配は当たり前。役者へのギャラも払えない。
劇団民芸の宇野重吉さん(寺尾聡さんの父親)なんか、出演拒否。
「ぼくらも生きていかなきゃならない」
東映というのは、五島慶太がポケットマネーで作った会社なの。
でも、にっちもさっちもいかなくなって、東横映画、東京映画配給、大泉映画を合併。これが東映になった。昭和26年のこと。
松竹、東宝、日活などに比べて、東映がダメだったのは、やっぱり時代劇映画が作れなかったからだろうね。GHQはチャンバラ禁止だったからさ。敵討ちとか、やっぱ神経質じゃないですか? 時代劇の最高傑作「忠臣蔵」が作れないんだもの。
驀進するのは、時代劇の解禁から。片岡千恵蔵、市川歌右衛門なんかがいたしね。
良かったのは、やっぱり中村錦之助でしょ(後の萬屋ね)。
元々は美空ひばりを移籍させるついでに東映専属にしたようなもの。歌舞伎出身なんだけど、映画の勘がものすごくいい。千恵蔵さんは、1度、共演したら、「あれはスターになるよ」と断言してた。ビンゴ!
錦之助さんはあっという間にスターになった。フラフラになるまで映画に出た。すぐ東映の俳優組合の理事になったんで、任侠映画の主役をほかの俳優に譲ったのね。
これでチャンスをもらったのは高倉健さん。「網走番外地」「昭和残侠伝」。どちらも傑作、大ヒット。主題歌まで大ヒット。当然、一躍、スターダム。
健さんにとっては、錦之助は恩人だね。
任侠物では、「博打打ち 総長賭博」もあったな。鶴田浩二。学生時代に何度も見たね。
その後、任侠物が下火になって、代わりに出てきたのが実録物ね。ご存じ、「仁義なき戦い」ですな。深作欣二監督の最高傑作。
池袋の文藝座で、シリーズ5部作(もっとあんだけど)をオールナイトでよく上映してました。吉野家の牛丼を3個持ち込んで、朝まで見てた。
でも、映画はドンと落ち込んでいきます。やっぱり、テレビの時代になっちゃった。
参考までに、日本の映画界のピークは昭和33年。この年、観客動員数は11億2745万人。日本映画は前年、469本製作して世界1。東映は32年に配給収入で日本1。
でも、これがピーク。
東映が見事だったのは、テレビ局が誕生した時にいち早く乗ったことでしょうね。
普通、映画から見たら、テレビはバカにすんでしょ。まっ、してたかもしれないけど、株主にはなっちゃう。
昭和34年、日本教育テレビ(NET)が開局します。これ、いまのテレ朝ですよ。この誕生に絡んでたのは東急と旺文社。
で、テレビ番組全般を東映で引き受けたのよ。元々、東急の映画部門だったんだから、東映は。だから、「仮面ライダー」とか時代劇物も多いわけですよ。フジテレビの「銭形平次」も東映の製作ですな。
岡田さんの人生、たしかに波瀾万丈。サラリーマン人生だけど、懸命にやってたら波瀾万丈にはなるよね。300円高。