2008年03月03日「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」 岡田芳郎著 講談社 1785円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

 それにしても長いんですよ、タイトルが。まっ、いいけど。

 この本、「中島孝志の毒書人倶楽部」でメンバーから紹介された1冊です。たぶん、紹介されなければ、見過ごしていたと思います。
 いやはや、面白いですな。「衆知を集める」という松下幸之助さんの経営哲学は、読書にも役立つんです。ああ、びっくり。
 一気に読破してしまいました。

 山形に酒田という小さな街があります。そこに映画館とレストランをオープンした男の物語です。

 酒田といえば、江戸時代には西の堺、東の酒田と並び称される街でしたね。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたあの本間家と、並ぶ豪商。それがこの主人公佐藤久一の実家でした。
 あの銘酒「初孫」の蔵元はもともと、この人の実家だったのです。

 著者がいうように、地方に咲かせた文化の花。みごとに、封印されてしまいましたね。

 二十歳で支配人に就任した佐藤が手がけた映画館グリーンハウスは、その名の通り、場内はビロードの緑で覆われたシックな作り。

 50年代から60年代にかけて、当時の映画関係者らの注目を集め、550もの客席を「これじゃ快適に愉しめない」というひと言で300席台にまで減らしてしまいます。
 おかげでゆったり座れる空間ができました。が、本人曰く、もっと減らせば良かった・・・。
 映画評論家の淀川長治氏が「世界一の映画館」と絶賛し、荻昌弘氏が映画関係者に、「酒田にすごい映画館がある」と評しただけのことはあります。

 佐藤はアイデアの塊のような人。新橋で街頭テレビがスタートする前から、映画館の外にスクリーンを出して予告編やニュースを流す。利用者のために酒田を巡回するバスまで運行する。
 まだ東京や大阪にしかなかった回転ドアを導入する。しかも、入口にはダンス教室の支配人だった係員がダブルに黒ズボンと蝶ネクタイ、白い手袋で正装し、優雅な佇まいで観客を案内するという演出まで施す。

 純白のカバーのかかったふかふかの椅子に座ると、「ムーンライト・セレナーデ」が流れる。これがグリーンハウス独特の映画開始を知らせるサインなんですね。

 サービスは徹底していて、ロビーには茶器と魔法瓶が常に用意され、いつでも飲めるようになっていました。とりわけ、評判だったのは女性トイレ。
 「どうして女性客が入らないのか?」と考えていたら、ツンと鼻に来た。いくら場内を清潔にしても、この臭いじゃ女性客は来ない。
 その日のうちに女性従業員にアイデアを求めて、広さ、明るさ、清潔さを徹底的に追求します。ついには、トイレで弁当を広げる人まで現れたという伝説まで残りました。

 「テレビが普及してから、映画の世界は大変になるよ」という読み通り、その後、映画界も興行界も観客激減に見舞われますが、グリーンハウスでは佐藤のアイデアで健闘するんですよ。

 1962年、定員10名のミニ映画館「シネサロン」を新設します。そして、映画好きにはたまらない名画を観れるようにした。
 2階には「特別室」「御家族室」を作って個室からガラス越しにスクリーンを観られる。ここでは館内の喫茶店から料理や飲み物のデリバリーもOK。個室だから談笑もOK。こうなると、誕生日などの家庭イベントやお客さんへの接待利用などで予約が殺到しますわな。

 いまでいえば、シネコンを凌駕するアイデアといってもいいですよね。
 おかげで、東北の小都市とはいえ、5館ある映画館全体の3分の1の売上を誇る人気店になります。

 また、佐藤は映画は必ず試写を見て買い付けることを徹底していました。そのため、1960年、『太陽がいっぱい』日比谷スカラ座と同時にロードショー公開できたのです。
 この頃、フィルムは高価ですからね、東京、大阪、神戸などのロードショー館で使うフィルムとなるとせいぜい10巻しかありません。あとは、封切館(フィルムに封がしてあり、ロードショー館ではそれを破るから封切りと呼ばれたのヨン)が終了するまで待たなければならなかったのです。

 ですけど、佐藤の尽力と目利きで、少なくともグリーンハウスは東北でいちばん早く、札幌や京都、仙台、福岡よりも早く上映できていたほど。

 このグリーン・ハウスは1949年から1976年に焼失するまで営業は続けられました。

 けどね、焼失する前に、佐藤自身が映画館を捨てちゃうのよ。奥さん以外の愛する女性と東京に逃げちゃったわけ。
 で、伝手を頼って日生劇場に就職します。日生劇場では、佐藤がグリーンハウスでやってきたことがもっと大がかりで展開されていました。

 ついには労働組合の委員長に祭り上げられたことで食堂部に左遷させられちゃうんですけど、これがどういうわけか、佐藤の第二の人生を決定づけてしまうのです。
 つまり、酒田にフレンチレストランを持ってきてしまうのね。

 1967年、佐藤がオープンさせたレストランには酒田中の文化人や芸術家が多数訪れます。

 当初、酒田に同行した日生劇場レストランの仲間たちは、日比谷とあまりにも人通りが違う酒田を見て、愕然とします。ところが、この小さな街のどこにこんなにフレンチ好きがいるのかと不思議に思うほど、連日、お客が押しかけたのです。

 でもね、東京オリンピックと前後して都内にホテルやフランス料理店が開業してはいたけど、本格的なフランス料理からはほど遠く、佐藤の舌もこんなんじゃないという疑問があったのね。

 そんな頃、大阪で料理学校を経営する辻静雄さんと知り合います。そして、辻さんのセミナーを通じてフランス人シェフのポール・ボキューズの指導を受けるようになります。
 彼の料理を奪うようにして嘗め、「本場のフランス料理はさっぱりしている!」と開眼するわけです。

 彼のレストランでは、ボキューズの技術+フレンチの専門書+地元の伝統料理をミックスしたスタイルで、魚介の豊富な庄内ならではのメリットを生かした「フレンチ郷土料理」を切り開いていきます。
 開高健、丸谷才一、山口瞳などの食通たちが、彼の料理とサービスをエッセイに残すほど大絶賛されます。

 しかし、どんなに料理が素晴らしくても、サービス過剰のツケが回って経営はどんどん悪化していきます。にもかかわらず、佐藤は自分が満足する料理を出し続けます。
 結局、佐藤は映画館を焼失し、2つのレストランからも追い出されてしまうんです。

 その後、和食レストランを手伝わないかと誘われるんですけど、そこには彼の居場所はありませんでした。やっぱり、フレンチの佐藤なんですよ。

 佐藤にとって、映画館経営とはなんだったのか? いまでも十二分に通用するアイデアばかりです。
 佐藤にとって、レストラン経営とはなんだったのか? そのオリジナリティ溢れる料理は、いまでも十二分に通用するでしょう。

 経営とはなにか? バランスといってしまえば、それきりですが、なんともむずかしいものです。1人の男のロマン・・・といえるかな。

 あとがきで触れてますけど、この佐藤久一という人を書くことになる経緯が面白いですね。ある意味、司馬遼太郎さんが『竜馬がゆく』を書くことになった経緯みたいでさ。
 縁は異なもの味なもの・・・ですなぁ。300円高。